2012/5/6の文学フリマで発行した『百合人―ユリスト―』。
当日ブースには、〈百合 is PANK〉というバナーを貼り出しました。
この言葉は、誌上でアンケートをもとに行なった対談の中で、藤山京子さんから出てきたものです。

「…ロックイズデッド百合イズパンクだよ。思想と密接に関係してくるという。」
「なんかこう。社会を変えるパワーというか。ウテナ的な、突破するパワーを感じますよね。」

(「対談・百合イズパンク!百合は世界を革命するか?」より)


しかし、BLや百合という同性愛の作品が、「カウンターカルチャーになってしまうこと」自体を問題視する見方もあるんだなあ、と最近目にする議論の中でよく感じたりしています。

・それこそ「腐女子のゲイ差別」として問題になったりしたこととか。
(BLを愛好する人たちの中でヘテロの女性だけを「腐女子」と名指して、その人たちがBLをきっかけに現実の同性愛者の存在について考えたりすることすら「リアルとファンタジーを混同している」と断罪することは不可解だな、と正直いって思うわけですが)
・異性愛者が同性愛の表現に何かカタルシスを感じるっていうことを、同性愛者を利用しているとか、マジョリティの立場からマイノリティを消費している、と言われてしまうこととか。
・あと逆に、何かを「BL変換する」「百合変換する」ことが何かのカウンターになるっていうのが、元になったものを貶めているとか、ネタにして遊んでいる、攻撃している、みたいな方向の批判とか。
・同性愛の作品がカウンターカルチャーとして意義深いっていうことが、「同性愛は特別な恋愛で素晴らしい!」みたいなことや、よく言う「障害を超えた恋愛だからいい」みたいなことと混同されていくこととか。


上記のようなことがぐちゃぐちゃに混乱した理解があふれることは、一部避け得ないだろうと。
でも、そういうことじゃないんだよってことを分かり合える人は必ずいると思うし、そういう人たちと、ちゃんと話して、世の中に伝えてかなきゃいけないなあ、みたいなことを文フリを通過して、改めてすごく考えました。


で、それらをふまえたうえで、やっぱり「百合はパンクである」っていうことを私は肯定したいわけです。


私はレズビアンという自認で生きている人間であって、ある意味、百合というジャンルにおいては消費されるとか、利用されるとかいう立場に見られることもあるのかな、と思います。
「BLはゲイを消費している」という言い方に重ね合わせて考えるならばね。

実際、男性の百合愛好者が「女の子だけでいちゃいちゃしているのを箱庭的に外から見て楽しんでいる」と自ら言ったり、ほかの人が男性の「百合厨」をそういう風に揶揄したりすることもけっこうあります。

でも本当にそうかな?と思うんですよね。
リーダーシップを発揮してみんなを導くのも、かっこよくて憧れの的になるのも、戦うのも、恋愛でも、「そこに男は全然必要ありません」「女だけでいいんです」、みたいなメッセージを発してる作品がどんどん出てきていて、そういうのを男性の側から求める流れも同人イベントとか行ってもすごく感じるわけです。

で、実際アンケートを取ったところ、百合にハマってから自分自身のジェンダーのことや、現実の同性愛者に関して考えるようになったという意見が、多数意見と言っていいほど集まるんです。特に男性の人から。
自分の人生観や物事の見方が百合で変わってきてるって時点で「それ箱庭じゃないじゃん」って思うんですよ。

私はそれらの回答を見て、ものすごく嬉しく感じたんですよね。
そこで百合とレズビアンを混同しているかどうかなんて、気にならなかったんです。
だって、実際にレズビアンに出会って「百合萌え〜」とか言っちゃうようなことと、百合作品を読んで「現実にも女性を好きな女性がいるのか」と思いをかけることって、ぜんぜん違うことじゃないですか。
それよりも、同じ百合人として、みんな軽い気持ちで楽しんでいるんじゃない、本当に大切なんだ、ということがすごく嬉しく感じたわけです。

文フリでは当日ブースで「男が見て、きれい可愛いって楽しむだけのリアリティの無い百合はいらないんですよ!」と熱く語ってくれた男性もいて、彼はそう思っている人は少数派だと言っていたけれど、本当に少数派なんだろうか?まだそのステップに入る準備が出来ていないだけで、みんなの中にその種はあるんじゃないかな、と私としては思っています。

同性愛の作品って、なにかっていうと「なんで同性愛である必要があるのか」理由を聞かれるので、一生懸命ひねり出さなきゃいけない状況になって無理やり理由付けた結果「箱庭的に楽しんでいる」とか「女同士の方がきれいだから」とか「障害がある方が萌えるから」とか、女性や同性愛者に対する差別的な表現になってしまうのは、なんか90年代の腐女子と同じだなあ、と思って。

でも、「百合見たい百合読みたいもっと百合くれー!」とか百合っぽい女性同士の関係をアニメとかで見て「うわああ百合だああ」「二次創作したいいい」みたいになるほどに、君らが百合を求めているのは、君たちが思っている以上に「くだらない」ことじゃないんだよ、そういう表現を、君たちが生きている中でものすっごい必要としていたから、今そこにたどり着いて萌えまくっているんだよ、ということを本当に私は伝えたいのですよ。


(…性的な欲求を満たすものとして求めるのは、ちょっと分けて考えたいけれど。それはもうちょっと元々のセクシュアリティからくるものだと思うから。社会が全く関係ないとは言わないけれど、社会と関係なく抱いてしまう欲望もあるだろうな、と思うので。)


人間同士の関係性の物語として「同性愛の物語」を求めるっていうのには、異性愛の社会の「男はこうでなければならない」「女はこうでなければならない」っていうところで味わってきた抑圧とか、異性愛の恋愛をする中であまりにも対等な関係を築くことが難しいことになってしまっている問題とか、そういうのと関係なくないんじゃないかな、と。

百合を楽しむうえで「自分が男であることが苦悩」だという人とか、「女の子になって女の子と恋愛したい」とかいう百合人男性がたくさんいて、そういうのを、単なる「下世話な欲望」として見るんじゃなくて、その苦悩はしかるべき苦悩だと肯定したいし、それが百合の作品を楽しむことによって昇華されていくのなら、それでいいんだよ、良かったね、百合にたどり着けた君らは素晴らしいんだよ、と言ってあげたくなるのです。
だってそれはBLによって思春期を救われ、今は百合にもBLにも支えられている私自身にも重なることだから。


そもそもね、ほとんどの人はバイセクシュアルのどっかに入るんじゃないかな?と
私だって小柄でおっぱいができちゃう程度にぽっちゃりで白くて体臭が無い男性とだったらできるかもしんない、と思うから超レズビアン寄りのバイって解釈してもいいかもしれないし
だから、異性愛者だって決めつけて「同性愛は自分のことじゃないのに勝手に楽しんでる」みたいなの、何の意味があるの?って。

これは同性愛者の物語であると同時にちゃんと「君たちの物語」だよと言ってあげたいし、上から目線で楽しんでるつもりで余裕こいている百合人がいたら、箱庭だと思っているものにその人自身がいつの間にか変えられてることに気づきなさいよ、そっから降りてきなさいよ、と声かけてやりたいなあ、と思うんですよ。

34歳無職さん 1 (MFコミックス フラッパーシリーズ)34歳無職さん 1 (MFコミックス フラッパーシリーズ)
(2012/02/23)
いけだ たかし

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「色々思う所あって1年間何もせずにいようと決めた」女性の話。
このタイトルで主人公が男性だったら手に取らなかったかも。
あと、選び取った無職(といっても精神的にはそうせざるを得ないところがあったんじゃないかと思うが)っていうところが強烈に気になって読んでみた。

1年間無職っていう選択はそれなりに状況が整ってなければできない。
彼女の場合はたぶんこれまで稼いだ蓄えが、節約すれば1年しのげる程度にはあるっぽい。あと会社都合の退職で失業手当がけっこう出るっぽい。
そういう「恵まれてる」感はあるにしろ、そういう状況でその選択ができるメンタリティって、今の時代にすごく大事なんじゃないかと思った。

なんというか、社会はこういう人の存在を許さないだろうなー、と思う。
職についていなくて、職探しもしていなくて、正しい意味でニート。
身辺はなんだかいろいろあるようだが、とりあえず独身生活を送っている。
別に親の脛をかじってるわけでも、誰かに貢がせているわけでもなくて、1年間という期限を自分で決めていても、“仕事も結婚もしない30代の女性”が「甘えてる」とか「大人になれ」とか言われないわけないだろうな、と。

それでも彼女にはそういう時間が必要だったんだろうな、とも思う。

いけだたかしは、社会に許されない生き方をする女性を描きたい作家なのかな、と、前作「ささめきこと」を重ねつつ思う。
女子高生同士のふわふわした百合漫画と思いきや、彼女たちの在り方が社会に受け入れられない、許されないということへの葛藤に満ちたストーリーだった。
2人の周囲には温かく受け入れて支えてくれる人もたくさんいるが、だからこそ、そういう支えがあっても、どこからでも突きつけられる拒否と、「許されない存在」を消そうとする重圧がリアルだった。

後書きにいけだたかしは「34歳で(ほぼ)無職は当時の自分だったワケです」と書いている。それを女性に変換したのは、まあ元々はネタ的なことだったのかもしれないけれど、男性でありながらあまりにも近い目線、外側から女性を見ている形でなく描かれていることがすごいなあ、何なんだろうこの人は、と思って、実は女性なんじゃないかとプロフィール確認したりしてしまう。
いや、たぶん男性ですけどね。

とにかく、「生きにくい人のためのいけだたかし」だなあ、と思う。
『魔法少女まどか☆マギカ』のラストに提示された解決方法は、私にとっては、とても苦々しいものだった。

魔法少女というものは、基本的に大人の肩代わりをして犠牲になる存在。
それは、戦闘しないミンキー・モモなどの魔女っ子の頃からそうだ。
大人が解決すべきトラブルを魔法という優れた能力を持つ少女が代わりに片付けてくれる。戦闘少女が登場してからは、その残酷さがさらに顕著になった。
しかし、その歪んだ在り方のために溜め込まれていく怒り、悲しみ、それがまどマギでいう、ソウルジェムが濁るということだと思う。
なのに、戦うだけ戦わされて、その怒りは無かったことにされるのが解決方法だなんて。
まどか、なんてことをしてくれたんだと思った。


『戦姫絶唱シンフォギア』も、大人の肩代わりをして戦場に立たされる少女たちの話だ。
特に主人公・響のキャラクターはわかりやすい。
「人助けが趣味」。
多くの犠牲者を出した事件の生存者であるため、自分の生きる意味を強く求め、人を助けたいという気持ちが強い、という設定。
こういう少女は、現実にもいると思う。

普通に考えたら倫理的に許されないのだ。いくら少女だけが、敵と戦う能力を持ち得るからといって、彼女たちを戦士とするなんてことは。
けれど、その表現が象徴するような事は、日々起こっている。
正義感や優しさから周囲の期待に応え、平和の実現のために、本当は大人が行動しなければならない場面で子供が平和の使者のような役割を果たしてしまう事が。

シンフォギアでは、少女たちを戦場に立たせる大人たちの姿も描かれる。
風鳴弦十郎はその代表的存在だけれど、彼はたびたび「大人の責任」について言及する。

ストーリーの前半では、この特異災害対策機動部二課の人々も、少女たちに大人の責任を押し付けていることには違いない、と私は考えていた。
それは間違ってはいないと思うが、しかし、弦十郎の台詞を聞くうちに、私自身大人として、魔法少女のような役割を負ってしまう現実の少女たちのために何ができているのだろうか、と自問するようになった。
魔法少女たちを利用するシステムが出来上がってしまっている以上、できることなどほとんど無くて、弦十郎は傍にいてアドバイスすることで、既に魔法少女になってしまった彼女たちに大人ができる精一杯の支えを務めているのかもしれない、と。

しかし、響を、ひたすら「人助け」しひたすら「周囲の期待に応え」ようとし続ける在り方から解放したのが、未来の存在だ。
未来とは、何なのだろう。

“お姫様になれない女の子は、魔女になるしかない。”(『少女革命ウテナ』の影絵少女の台詞)

しかし魔法少女でない未来が、やがてお姫様になる存在かというと、そうではないように思える。
未来は「守られる」だけの存在であることを、やめてしまったのだから。

響に対する未来の思いの強さは、明示されはしないが、同性愛のように映る場面も多々あった。
守られる側の人間となって生きることは、少女たちにとって将来シンデレラ城の中に収まるための準備だ。
未来はそこから脱し、特別な力は持たなくとも響と共に戦う道を見つけ出し、自分自身の行動力を発揮していく。それは大人の代わりではなく、ただ響のために、未来が自分で起こした行動。
「役割」ならば代わりがきくが、未来の響への愛情は誰も代わることができない、未来だけのものだ。

他者の期待に応えるためにでなく、ただ自分の愛のために行動することにおいては、フィーネと未来とは、同じ原理の上にあるとも考えられる。いかにも「魔女」らしい表象のフィーネ=櫻井了子。彼女が魔法少女と対立する魔女なら、未来は魔法少女を助ける魔女なのではないか。

そう考えると、まどマギにも、未来のような少女が存在した。
世界の救済よりも、まどかのためだけに行動したほむら。
ほむらの目的は何度巻き戻す時間の中でも叶えられず、それでも彼女はあきらめず繰り返した。にも関わらず、まどかは自己犠牲を選んでしまった。ほむらの気持ちは届かなかった。

シンフォギアでは、未来は行動だけでなく言葉で響に伝えることができた。響自身も言葉にすることで人に伝わることを信じている少女だった。
未来と響の関係に限らず、この物語は基本的に「言葉で伝える」ということを信頼しているように思える。

そういえばフィーネの目的も、統一言語によって創造主に想いを伝えることだった。
けれど、問題は「言語」ではないのかもしれない。
向き合って言葉を交わすその時間や空間。自分のために思いを言葉という形にしてくれているというその行為。コミュニケーション。
それが未来にできて、ほむらやフィーネにできなかったことなのではないだろうか…。


私(たち)は現代の魔法少女たちのために、どんなコミュニケーションができるだろう。

「君たちを愛するよ」
「1人で背負わせないよ」
「強くならなくていいよ」

そういう言葉を伝えていくために……
百合愛好家のみなさんの声を集めて雑誌を作り、文学フリマにて発行する予定です。

http://www.efeel.to/survey/julist

こちらのアンケートにご協力お願いします。
雑誌のタイトルは『百合人―ユリスト―』です。

アンケートは性別や年齢・年代を含め、すべての項目が自由に書き込めるフォームになっています。
また名前、ペンネームの欄以外の記入はすべて任意となっています。
自身のアイデンティティの通りに自由に答えていただき、答えたくない質問には回答を拒否できるアンケートにしました。
どうぞ、気軽にお答えいただけるとありがたいです。


今回はプレ創刊号として、アンケートを中心としたコピー本になりますが、次回第1号からはもっと大きな展開を考えている企画でもあります。
百合を愛するみなさんには、百合の普及のためにもぜひ見守っていただきたいと思っています(>_<)ノ
前ブログにて、レディー・ガガの歌詞に関することを書いて、gay, straight or bi/lesbian, transgendered lifeが、「性的好み」と省略されたことに触れました。
その際

「ゲイ」「レズビアン」「バイセクシュアル」「トランスジェンダー」などの性の在り方について話す時によく、「性指向は性“嗜好”とは違う」という注意が呼びかけられる。
レズビアン、ゲイ、バイセクシュアルなどは、嗜好・好みや趣味の話ではなく、「指向」である、ということ。

上のように書いたのですが、この時は本当に私自身、言葉の認識がこういう形でした。
しかしその後詳しく「性的嗜好」「性的指向」という言葉について調べたところ、以下のような記述にあたりました。

性的嗜好(せいてきしこう、英語: sexual preference)とは、人間の性的行動において、対象や目的について、その人固有の特徴のある方向性や様式を意味する。すなわち、対象や行動目標において特定の好みやこだわりが存在する場合、何らかの性的嗜好を持つと表現できる。ただし、対象の性別についての方向性に関しては特に性的指向と呼び、通常は性的嗜好には含めず分けて扱う。
性的嗜好 - Wikipedia

この記述によって、私の中でこれらの言葉の認識が大きく改められたので、そのことについて書きたいと思います。


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まず「性的嗜好」という言葉の違和感。

「嗜好」はそもそも「たしなみ、好むこと。趣味。特に、飲食物についての好み。」といった意味の言葉。
性の対象は必ずしも人とは限らないけれど、人である場合が比較的多いものを嗜好品のように表すとは、どうもおかしな言葉である。対象が人であった場合、対象者の人間性を収奪するような暴力的なニュアンスを感じる。
(個人的には、男性が好みの女性のタイプを選ぶのは嗜好品を選ぶようなことだからではないか、とか勘ぐってしまうが、それは別の話題なので、今は置いておくとして。)

さて、「パラフィリア」「性的倒錯」と呼ばれる事象については、次のような説明があった。

広義には性道徳や社会通念(常識)から逸脱した性的嗜好を指す。(wiki

国連の WHO が定める ICD や、アメリカ精神医学会の定めるDSMなどにおける精神疾患としての「性嗜好障害」を意味する。(Category

「性嗜好障害」とは奇妙な言葉だ。
「障害」という当人の意志ではどうにもできないものでありながら、好みたしなむ「嗜好」である、という。
この「性嗜好障害」に入れられているものには、社会的・法的に禁止されていることが少なくない。
その場合、犯罪者になる一握り以外の、多くの人は、対象に向かう欲望を自制して生活している。それはあまりに「嗜好する」という言葉からかけ離れた状況だ。

ところが、現在の定義では
<対象の性別についての方向性に関しては特に性的指向と呼び、>
ということで、性別についてのことだけが「指向」、そのほかは「嗜好」。
同じ性に関するマイノリティでも、パラフィリアは「単なるおかしな趣味」というイメージの「嗜好」と、「異常な病気」であるという「障害」という矛盾する2語を背負っているのに対し、同性・両性・全性愛者などの人たちは「指向」という言葉でその2語ともを否定できる。

もちろんこれは定義がそうなっているというだけであり、社会の目が同じように同性愛者などを見てくれるという保障ではない。また、同性・両性・全性愛者らが、皆パラフィリアを「嗜好」扱いして差別しているとは言えない(そういう人も少なくはないが)。

しかし、「性的嗜好ではなく、性的指向です。言葉を正しく使って下さい」と呼びかける時、パラフィリアが持ち得ない「定義」という権威をもって主張してしまっていることは、忘れてはならないと思う。
少なくとも私は、もう「性的指向」という権威は用いたくないと感じている。


さて、ではNHKが用いた「性的好み」という語はどうだろう。

まず単純に、何のことを表しているのかよくわからない言葉だ。
性的な対象の好みのことなのか、性行為の好みのことなのか、自身の性自認や性のスタンスの好み(?)のことなのか。
そういった意味では、多様性を盛り込もうとした語なのかもしれない。多様というよりは曖昧だけれど。
しかし、歌詞ではトランスジェンダーが登場していたが、「私は男/女である」というアイデンティティを「好み」と言われて違和感を抱く人は多いだろう。

では、性別に関することを表す場合「好み」は「指向」より悪いのか。
「好み」ならば「嗜好」よりは、対象(が人間である場合)の人間性の収奪というような、暴力的なニュアンスはない。その点は「指向」も同じ。
ただ、対象に向かう感情が「好み」という言葉に当てはまるかどうかは、各人の感じ方次第だ。
「好み」という言葉に、自分の性のあり方が著しく当てはまらないと思う人は、多いかもしれない。

私自身も実は「好み」はあまり当てはまらないと思っている。
というのは自分の場合、男性の体のいくつかの特徴が性的な触れ合いをするにあたって絶対に受け付けられないので、消去法で女性体が対象になるというものだから。


「指向」は、その点、「対象に向かっている」というだけの言葉なので、中身がない分「好み」よりは無難といえるかもしれない。対象に向かうものが「好み」でも、選択的優位性でも、もっと他の感情や感覚でも、何でも含むことができる。
「どうしてもその対象に向かってしまう指向性」という風に解釈できるので、「単なる好き嫌いでワガママを言っている」という、よくわからない理不尽な批判も免れやすい。(「好み」だって「どうしても好んでしまう」ということはあるとは思うが。)

しかし、「指向」という言葉にも当てはまらない人はいるのではないか。
LGBでも、対象に向かうという関係性に違和感を覚える人もいるかもしれないし、現在「異常な性的嗜好」とされているものを全て「性的指向」にそのまま移行すれば差別性はないかというと、「指向」にあてはまらない性のあり方がいくつか存在する。
さらに、無性愛・非性愛・ポリガミーなどは、「嗜好」や「指向」という言葉の蚊帳の外にずっと置かれている。
「指向」という定義を推し進めても、そこに当てはまらない性のあり方の人たちが見えなくされている問題は残ったままだ。


そうなってきたときに、結局「性」のひとことではいけないんだろうか、という考えに至ってしまった。
「性的嗜好」でも「性的指向」でも「性自認」でも「性的好み」でも、それ以外の性のあり方でも。「わたしの性はこうです」「これが私の性のあり方です」という言い方でいいんじゃないか?

そもそも「性的指向」も、何かを正常とし、何かを異常とする中で必要となった定義なのではないだろうか。
この人のどういうところが「人と違う」のかということを問う時に、「性的指向が人と違う」「性自認が人と違う」という定義で語らせれば、他者にとっては分かりやすくなる。そういうマジョリティ的視点を感じるのは、自分だけだろうか。

異常や正常というレッテルを無くす方向で考えるならば、定義はもう「性」一つで十分なのでは?


・・・・・・・・・・・・


ということで、テーマが枝分かれしてしまって何が言いたいのかよくわからない文章になってしまいましたが、まとめると、

・「性的嗜好」「性的指向」という言葉の定義が変わらない限り、「性的指向」の使用を主張することは、弱者の権利のための行動ではなくむしろ強者の権力行使になってしまうのではないか。
・「性的指向」という言葉も不十分ではないか。
・本当に「同性愛は異常な性的嗜好」というレッテルを壊したいならば、「性的指向」もそこに立つ不要な柵なのではないだろうか。

というのが、今回新たな学びから、私が考えたことです。(ごちゃごちゃしてすみません)
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