ミュージカル「紳士のための愛と殺人の手引き」、とうとう大千穐楽まで終わってしまった~というこのタイミングで記事を書くのもなんですが、再演・映像化・CD化応援!というつもりで書かせていただきます。

この作品の歌詞が優れていることについては、この前の記事でも書いたのですが、

コメディと詩は似ている?ー紳士のための愛と殺人の手引き

今回は前記事で言及しなかった「差別ソング」の妙について書きたいと思いました。

この作品、クラシカルなオペレッタ風喜劇のように見えて、その実とても現代的な価値観に基づいて作られているなあ、と感心するところがたくさんある。
その中でも特に、市村正親が1人8役で演じるダイスクイス一族のいけすかない面々が歌う、明らかな「差別ソング」は、現代の差別主義者が言いそうなことを的確に再現していてすごい。

まず物語序盤で登場する、市村正親演じるダイスクイスの1人、アダルバート伯爵(現伯爵でありモンティの最終ターゲット)が歌う「貧乏人は理解できん」。
屋敷の見学に来た一般市民たちを怒鳴りつけ蹴散らした後に、

私は明らかな民主主義者だ
だが奴らは手に負えぬほどグシャグシャだ
貧乏人は理解できん 理解できん貧乏人は
卑しく さもしく 汚らわし過ぎる


と歌い上げる。

協力だってしてきたし
飢えてたら 食べさせるため 送り込んだ
ブタ箱へ
そして戦場へ
決して差別はしてない ただ やつらはわからん


こういうこと言う人、現代でもいっぱいいるので思わず目を剥いてしまう。「差別じゃなくて区別だ」とか「差別するつもりはないけど⚫︎⚫︎と自分たちは違う」とか。「貧乏人」という言葉は、他の属性に色々と入れ替えられる。
この曲を聴いてから、差別的な言動をしておきながら「差別じゃない」とのたまう人やら企業やら政府やらを見るにつけ「♪決して差別はしてないただ~」と明るいメロディと市村正親の歌声が脳内に流れてきてしまう。


続いてハチャメチャにすごいのが、「レディ・ヒヤシンスの出航」。
これは稽古場の練習風景とともに編集された映像があるんだけれど、まあ聴いてほしい。ヒドイから(笑)



これまた市村正親演じるレディ・ヒヤシンスは慈善事業に熱心な貴族の婦人だけれど、その内心は「いいことをして自分の評判を上げたい」という欲しかない。
そんなヒヤシンス殺害を目論むモンティは、「誰も手をつけていない慈善事業がある」と言ってそそのかし、ヒヤシンスを危険な国に行くよう仕向ける。
危険な国とはつまり、暴動が起きる一歩手前の国や、伝染病の蔓延する貧困国、近代文明が足を踏み入れていない「人食い族」のいる国…。

「かわいそうな野蛮人を助けるざます」なヒヤシンスだけでなく、こういうところに送り込めば死ぬと思ってるモンティも、イギリスが植民地とする貧困国に対してかなり偏見があると見える。

その後また登場する、市村ダイスクイスのうちの1人、バーソロミュー少佐も「弱々しいやつらが多すぎるから植民地がイングランドという指の間からすり抜けていってしまう」というセリフがあるので、当時のイギリスで、植民地の人々に同等の人権があるという意識はほぼないのが「普通」の感覚だったのだろう。

しかし、この脚本のすごいところは、そんな「当時の普通のイギリス人が抱いていた差別意識」を取り入れつつ、それをコメディとして笑うことで、差別を覆す知性を発揮しているところだ。

というのも、ヒヤシンスはどの国に行っても死なない(笑)
一度はアフリカで死んだかと思わせるが、2幕でしぶとく復活してみせる。と同時にあっという間にモンティに殺されてしまうのだが、結局はモンティ自身が手を汚すことになって、「途上国に行けば勝手に殺されてくれる」などという各国に失礼な了見は、最後まできっちり否定される。

この流れを最初から最後まで爆笑とともにやってのけるのだから、これはモンスター級の脚本ではないか。私は作品中このヒヤシンスの一連の話が特にお気に入りだ。


そしてもう一曲、わかりやすい差別ソングとして「それは男」がある。
しかしこれに関しては、日本においてはまだ機能しない皮肉になってしまっているなあ…と感じた。
というのもこれ、「ゲイによる女性差別」の歌なのだ。

市村ダイスクイスの中で、比較的若いモンティと同年代の青年ヘンリーは、舞台上でははっきりとゲイとして描かれている。(しかしセリフや歌詞に明確にゲイだと表すところはないので、BW版でもゲイだったのかただのナヨナヨしたミソジニー青年だっのかは不明。知っている方は教えてほしい)

女は複雑
すぐに殺気立つ
男は単純
だから男
頼もしい 素晴らしい
それは男


この歌詞を聴いて敏感な人なら、現代日本にも本当によくあるタイプの性差別だと気づく。
女の考えていることはよく分からない、男は単純でさっぱりしていて陰湿じゃない、などというステレオタイプを言い訳に、「男」という言葉に分類以上の価値を持たせ、横暴を働いても「男はそういう生き物だから」と許される。

実際現代日本にも、女性差別をするゲイはめちゃくちゃいっぱいいる。だからここで描かれていることが真実でないわけではないのだ。

でも、ヘンリーが出てきて、モンティにときめく様子を見せるだけで観客からは笑いが起こる。

それは市村正親がいかにも滑稽な演じ方をしているからでもあるのだけれど、この芝居の中で市村演じるダイスクイス一族の面々は、1人を除いて全員滑稽な役どころだし、このヘンリーも「遊ぶことばかり考えているおバカ貴族」という役でもあるので、市村だけの問題でもない。

しかしこの世の中で、男女が恋に落ちるシーンがギャグとして描かれる場合の、100倍くらい多く、ゲイが恋に落ちるシーンはギャグとして描かれているだろう。
そのくらい「ゲイ=笑い」という感覚は世の中に染み付いている。

芝居の中でどこに原因があったとは言いにくい。これだけ現代的なPCを取り込んだ脚本で、今の日本の状況を見て「ゲイ=笑い」にならないように演出できなかったことにもあるだろうし、「ゲイ=笑い」だと思って自動的に笑ってしまう一般大衆の感覚にもあるだろう。

しかし、ヘンリーが同性愛者というマイノリティ性を観客に笑われるのを見た後に、他の弱者を差別する歌を歌っても、「コメディに出てくるステレオタイプな差別主義者」として手放しに「ヒドイやつだな~」と言えない気持ちになってしまう。
その上、多くの観客は「それは男」の歌詞を聴いても「ゲイだから女嫌いなんだな」程度にしか考えないのでは。実際テレビに出ている「オネエ」と呼ばれる芸能人が女性差別発言をしても、どこか「オネエは女を貶してもいい」という雰囲気があり、許されてしまう風潮はある。ゲイのヘンリーが言うことで差別としてみなされなくなってしまいそうな気がする。

「ゲイの女性差別」という事象が、ひとつのよくあるパターンとして多くの人に認識されている社会だったら、何が皮肉られているかを読み取ってくれる観客に期待してこういう表現をするのもアリだったと思う。
でも、今の日本社会で「ゲイの女性差別」をやり玉にあげる表現を一般大衆向けにやったところで、観客の多くは「ゲイが滑稽であることを楽しむ」という別の差別意識に感情を持っていかれてしまうな…と思う。

難しく考え過ぎじゃないのか、ただ面白いシーンだったから笑っていただけじゃないか、と思う人もいるだろうけれど、「決して差別はしてない ただゲイは笑える」という歌声が、「貧乏人は理解できん」のメロディーで脳裏をよぎる。

そんな中で、ボートを漕ぐ船頭役をしていたカンパニーキャストの神田恭兵さんが、舞台の端で「ヘンリーのお気に入り」のゲイ青年として無言の芝居をしていたのはよかったなあ、と思う。
彼がヘンリーといい関係にあるような表現も、柿澤モンティに嫉妬しているような表現も、ウエンツモンティに一目惚れしちゃったような表現も、笑いのネタというよりはもっとさりげない、一人のゲイの青年としてリアリティのある動きだったと思う。その上なんだか可愛らしさも感じられて、彼の表現でゲイとしての私の気持ちが救われた部分は大きかった。

そういうわけで、芸術的な面ではほとんど完璧なほどによくできた舞台演出であったことは間違いないのだけれど、もっとこの脚本の持っている現代に毒づくセンスを意識できたんじゃないかと思うところはあった。

しかし、歌詞そのものの素晴らしさは、まったく疑いようがない。本家の英語詞もすごいのだろうし、高橋亜子さんの日本語訳詞のセンスが本当に生きている。

最近、差別表現を批判されることを嫌がる人たちが、「ポリコレ棒で殴られる」という言葉を使っているらしいけれど、差別ソングを歌い上げた人間が次々コミカルに殺されていくこの作品は、むしろ「ポリコレ棒で殺す」作品だなと思う(笑)。

もし再演することがあったら、その時はあと少しヘンリーを違うキャラクターに演出するか、それかむしろ、日本人の共通認識として、「ゲイによる女性差別」がゲイへの差別感情抜きに、憎まれやり玉に挙げられる社会になっていたらいいのにな。
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大好きなウエンツ瑛士さんの出演舞台「紳士のための愛と殺人の手引き」、これもまた観劇詩を書こうと思っていたのですが、作品そのものにハマりすぎて、詩にならなかったので普通にレビューを書こうと思います。

詩にならなかった理由はもう一つあって、作中に出てくる歌詞がすでに、私がいつも書こうとする観劇詩みたいなものになっているから。
作品を貫くテーマを象徴的に歌い上げるような曲が複数。だから詩で表そうとした時、使われていた歌詞そのものが浮かんでしまう。これはコメディというものの構造上の話なのかもしれない…と思います。

シリアスな作品なら、ストーリー全体を通して、またはセリフや歌詞の明確な言葉で、その作品のテーマ・主張を伝えるものが多いでしょう。
しかしこのコメディは、ストーリーは「馬鹿馬鹿しいお笑い」に終始する。たまに人情話を挟んでくるコメディもあるけれど、基本的には「ただ笑えればいい」というラクな気持ちで観られるのがコメディの良いところ。

でもテーマが何もないかといえば、そうではない。「紳士のための愛と殺人の手引き」の場合は、それが巧妙に歌の中に隠されている。明確な言葉ではなく、隠喩やダブルミーニングのような形で。

たとえば「ポケットに毒」。
市村正親演じる8人のダイスクイス一族暗殺を企てる主人公モンティ(ウエンツ瑛士/柿澤勇人)が、この曲を歌う場面が作中2回ある。
しかし、モンティがポケットに忍ばせているこの毒は、どの場面でも結局ストーリー上あまり意味を持たない。
「ポケットに毒」は、モンティが、作中「切り札を持つ人間」としての役割を与えられていることを意味しているのかもしれない。

この物語はまるでカードゲームのようだ。ダイスクイス一族という権力者=ゲームにおける上位者に対して、モンティは金も権力も持たない弱者だけれど、弱者しか持てない「下剋上」というカードを持っている。
そしてどうやらこの「下剋上カード」は、このゲームにおいて全てのカードの中で最強のようだ。だから面白いようにモンティの都合の良い方向にストーリーは進む。

そう考えると「まさかの彼が」も、何か複数人でゲームをする時に、誰が強いカードを持ってゲームを操作しているのか最後までわからない体験を思い起こさせるように聴こえてくる。

最も作品の中で象徴的に感じられるのは、フィービー(宮澤エマ)が歌う「裏を表に」。
フィービーは「中身を見ることができたら…」と歌うけれど、カードゲームにおいてお互いの手札は見えない。誰もモンティが持っている、強くも恐ろしい手札を覗き見ることはできない。

そして下剋上カードが最も強いこのゲームの中では、強者と弱者が反転する。裏が表になり、前が後ろになり、黒が白になる。
弱者であるモンティだからこそ、このカードを持ち得るけれど、しかしそうして勝ち上がっていけば最後には強者となり、もう下剋上カードを持つことができなくなる。そうなった時に何が起こるか?
ラストはまさに「裏を表に、表を裏に」という展開で、ミステリーなら鳥肌ものだけれど、そんな仕掛けを投入しながらコメディらしく、面白おかしくカラッと晴れやかに終幕するところがこの作品の妙。

モンティの最初の気持ちの変化を歌い上げる「馬鹿げた夢」では、最後に「馬鹿はどっちだ?」というフレーズがある。
このフレーズはその後リプライズで、殺人のシーンにおいて繰り返される。
今はバカにされる弱者の自分、しかしもし運命を変えて成り上がったら、その時馬鹿はどっちだろう?と問いかけるこの曲。
しかし、殺人に手を染め、終わらない貴族の泥沼に自ら足を踏み入れていくモンティと、モンティが最後に出会う、貧しく無視されていてもこれでいいという「彼」、この時改めて「馬鹿はどっちだ?」という意味が深く感じられる。

思えばこの作品には「2択」の表現が多い。シベラ(シルビア・グラブ)の歌う「あなたがいなきゃ」は「好き?嫌い?」と正反対の2つのさまざまな物事を、モンティの話もろくに聞かない勢いで並べ立てる。何か言ったかと思えば次に逆のことを言うシベラの奔放なキュートさが楽しい一曲だけれど、「正反対の2つの物事」「2択」は作品の中で重要な鍵となってくる。
「結婚します」で、モンティがシベラとフィービーを壁一枚に隔てて2人の女性のどちらも魅力的で選べない!と懊悩するのも象徴的だ。

牧師さんに手を貸すことと貸さないこと、彼の運命を決めたあの選択で、本当のところ、「馬鹿はどっち」だったんだろうか?

ラストのあのどんでん返しは、もしかしたらモンティの心象風景か、またはこれからを暗示する一つのIF世界の表現かもしれない。(…と感じさせる演出がある。)やがては最強の下剋上カードを失う運命にあるモンティが突きつけられる「馬鹿はどっちだ?」

富と権力に溺れる者を皮肉るブラックユーモアが一貫していて、一つ一つの笑いは本当に単純でバカバカしいのに(例えば市村正親がマッチョな肉襦袢を着て出てくるとか)、知性と愛は、反知性の利己主義や差別主義を、笑いによって軽やかに超越するのだと作品全体が歌い上げているように感じられる。

…しかし、こういった深読みは、このミュージカルの魅力の裏側みたいなもの。小難しいことを考えなくてもこの作品はひたすらに面白い。観劇した人からは「ディズニーのアトラクションみたい!」という声も多い。

装置はクラシカルながら楽しさ満点。アンサンブル含めキャストのレベルが高く、実力に裏付けされたコミカルな演技は見応えがある。
演出の遊びも多くて一瞬たりとも目が離せない。
音楽は、観たら数日は曲が頭を回り続けるくらい素晴らしく心に残るナンバー揃い。
難曲を美しく楽しく歌いこなすキャストもさすがで、市村正親の8役演じ分け、早替えに関しては想像以上だ。

そんな面白さ全部盛りみたいなステージングで、繰り広げられるストーリーは殺人をコミカルに扱うくだらないお笑い。
でも、その裏に潜む意味は、じわじわと観客の心に染み込んでいるはずだ。

初日観劇の幕間で私は、「軽いお笑い」を観ていたはずなのに、まだ一幕だけでずっしりとした良作を観たような満足感で心が満たされているのを感じて、ちょっと混乱したのでした。
朝靄の中を駆けるとき
気づいた
私には足があったのだと

この目は最大の嘘をつき
この口は怒りの言葉を叫ぶ
この胸は速すぎる鼓動を刻み
この腕の力を振り絞ってすべてを引き裂く
全身の体液が揮発していくように
いま初めて生まれたかのように

あなたとしっかりと繋ぎあった
そのとき
気づいた
私には手があったのだと
君の心を貸してください
一人分では足りない時がある
想像の水辺を行く船に
エンジンを注いで
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コミュニケーション コミュニケーション
心と心をぽんぽんやりあえばそれでOK
君はアルマジロみたいに丸まって
そんなに簡単じゃないと言う
ぼくは
そんなに難しくないと言う

だけど君の心が必要になる時
その時にはそばにいて
ぼくだっていつか
ガス欠になる日がくるから
大事なことも どうでもいいことも
踊りも 殺し合いも
あべこべになって
みんな違うことばかり気にしている
争い好きの魔物たちが互いの肉に食らいつくのを
投げやりに見ていたら
じぶんが魔物になっていた
あの子が死んだのにも気がつかない
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