ミュージカル「わたしは真悟」を観ました。

演出や音楽、美術などで素晴らしい面はたくさんあったし、感動してとても好きだという人がたくさんいてもおかしくない舞台だと思うんです。キャストの皆さんも素晴らしかった。

だから今回は感動した人の気持ちをぶち壊してまで批判意見をぶつけたいという感じではないので、そういうの見たくないなーという人は読まないことをおすすめします。

ただ、やっぱりどうしても、納得いかない…

楳図かずおの原作漫画があまりにも名作すぎて、ハードルが高くなりすぎていたのかもしれない…とも思うのですが…

これは、原作を読まずに観たほうがいいのかもしれません。
原作抜きで観れば、こういう不可解なイメージの連続で観る者に理解させることを拒否するような作品の一種として楽しめたのかも。

もちろん漫画でもそういう類の名作はある。原作がそういう、つげ義春の『ねじ式』のような読者の理解を突き放すような作品だったならこの舞台化で満足できたのかもしれない。
でも、『わたしは真悟』はストーリーを読ませる漫画なんですよね。続きの展開が気になって全巻一気に読めてしまうような。

正直今回の舞台化はそういうストーリー展開の面白さはすっぽり抜け落ちて、原作に表れる不可解だけれど魅力的なイメージの部分だけを羅列したものという感じがして…
ストーリー上できちんと意味を持っている言葉や事象が、舞台では、原作を知らずに観たら「わけわからないけどなんだか面白いフレーズだなあ、面白いイメージだなあ」と思ってしまいそうな感じなんですよね。
それがどうしても、「そういう類の作品として楽しむもの」というよりは、作品の劣化に見えてしまった。

まあでもそれだけなら、自分の好みに合わなかったとだけ言ってもいいように思うんですが。
いくつかポリティカルなことでも気になったところもあって。

一つは、「イギリスでの日本人排斥運動」の描き方。

これは原作でも描かれている展開なんだけれど、こういう政治性を帯びる事象は「今の時代にこれを描く意味」を改めて考えて脚本にする必要が出てくると思うんです。

原作の時代においては、「排外主義」という言葉は今ほど一般的に問題化してなかったと思うんですよね。
そういう中で、「発展ばかり目指して盲信的に危険な物も生み出そうとする日本が海外先進国から見捨てられる時が来る」という描き方は、自己批判的であり革新的だったのかもしれない。

しかし、今の時代背景では同じものを描いても違う見え方になってくる。つまり追い出される側に自己批判が向くよりも、追い出す側の排外主義が批判されるべき時代。

しかも舞台は原作以上に断片的な描き方で、「排外主義者のヨーロッパ人が日本人を追い出そうとしている」というイメージだけ飛び込んでくるような感じがしてしまう。
あれを見て今の日本人が受け取るメッセージって、「日本人に危害を加えようとするわけわからない外人コワイ」くらいのものなんじゃないかなあと。
それってむしろ、日本人が抱く排外主義的メンタリティを強めるメッセージになるんじゃないだろうか。

プラカードを持ったデモ隊という描き方も、暴行の印象の方が強かった原作より現代社会を表面的には取り込んでいる気がするけれど、現代においてこの作品は何に対して批判を向け、何に対して警告するのかという意識が非常に曖昧で稚拙な感じがしてしまった。

もう一つ気になったのは、悟とまりんが「大人になってしまう」ということに関して、まりんが「大人の女」になることに原作よりもさらに強く意味付けしている感じがしたこと。

原作ではまりんが大人になることに関して、ロビンが「胸が膨らんできた」という表現はあるけれど、初潮そのものを意味する表現はない。
そしてまりんだけが大人になるのでなく、悟も過酷な状況を大人の手を借りず自分で生き抜く体験を経て、漫画の最後には、冒頭とは比べ物にならないほどに大人の顔になっている。

まりんが大人になるのがロビンによって早められたというのも、あんなに拒んでいるロビンに求愛されて女っぽくなったということじゃなくて、大人の手を借りられない場所で危機に面したことで、自分自身が大人にならざるを得なくなったという意味ではないかと思う。
当然ロビンに女として見られ危機に瀕することから、女である自分はそれによって危害を受ける存在だと自覚する、という意味も含まれるとは思うけれど…

その辺が、舞台ではあまりにまりんだけに「大人の女になる」イメージを付加されすぎている感じがして。そして悟は最後まで子どものままのような感じがして。

女の子だけ「大人の女」にして、男の子は男の子のままに描くって、なんか吉田秋生の『櫻の園』で、子どもの頃に「ませてるね」と言われて深く傷付いた少女を思い出しちゃうような、女に生まれたがそんなに悪いか!?ってブチ切れたくなっちゃうような、そんな感じ。

私は楳図かずおの漫画全部読んだわけではないけれど、知っている範囲では、そういうところフラットな感じがしているんですよね。
自分の顔の美醜にものすごく振り回される女もよく出てくるんだけど、同じくらい自分の顔の美醜に振り回される男も出て来たりするところとか。

なんかねえ、その辺が、一人だけ完全に「大人の女」の衣装に変わってしまう舞台のまりんを観てるとモヤモヤして、悲しかったんです。


まあそういうわけで、ものすごく期待していた舞台だったし、Open Reel Ensenbleが舞台上で音楽を演奏する手法とか、音楽そのものも素晴らしくて超ステキ!って思ったんだけど、脚本の部分でどーしても納得できなかったのでした。

という話でした。
スポンサーサイト
ユーリ!!! on ICE、間違いなく傑作フィギュアスケートアニメで、めちゃめちゃ面白かったのですが

物語が進むほどに主人公・勝生勇利のモノローグの信用ならなさに目を剥くようになり、最後にユリオの述懐が種明かしのように投下されて、なんなんだユウリカツキー!!と爆発して砕け散った視聴者も私以外にもたくさんいたことでしょう。


そんな勝生選手の異常さを、そのスケーターとしての成績から非常によく分析された記事がありました。

勝生勇利の昨年までの成績を真面目に検証してみた。
http://privatter.net/p/2094328

雑魚キャラ主人公のもとにいきなり王子様が現れて引っ張り上げてくれてラッキー♪なシンデレラストーリーかと思ってさんざんイライラさせられた視聴者が、狐につままれたような気持ちになるこの事実。

だってそりゃグランプリファイナル6位ってさ。最下位とはいえ世界各国から戦い抜いてきて最後に残った6人に入ってるんだもん。なんで初回そんなに自分が他の選手の目にも止まってない、名前も覚えられてない、みたいな自意識なのよ。

選手としての才能や実力がもともとすごいというのもあるけど、そこまで勝ち上がるアスリートの努力ってハンパなものじゃないと思うし、この人ヴィクトルに出会う前にもうすでにちゃんとやるべきことやって、しっかり上がってきた人なんじゃん、というのが一番衝撃で。

なんなんだその、自己イメージのめちゃくちゃな歪みっぷりは。

そこで私の頭にふと浮かんできた言葉が「子豚ちゃんの呪い」。

ヴィクトルは、勇利を「子豚ちゃんから王子様に変身」させようとして指導しているんですよね。そもそも勇利は、本当は王子様なのに自分を子豚ちゃんだと思い込む呪いにかかっているんじゃないかって。

子豚ちゃんで思い当たるのは、勇利の両親。いかにも穏やかで優しい人たち。営んでいるのは人々を癒す「ゆ~とぴあ」。彼らはきっと本当にいい人たちなんだろうと思うけれど、息子が世界大会出場までする選手になっても、いまだにあまりフィギュアスケートのルールを理解していない。

勇利の母が、スランプに陥りボロ負けして里帰りした息子に「やっと帰ってきてくれた」と言うのを聞いた時、私はなぜか、カツカツの生活でもなんとか一人で暮らしている私に親が「帰ってきてもいいんだよ」と言ってきて、それが全く嬉しくなかったことを思い出した。

おそらく勇利の両親は、勝つことにあまり興味がない。きっと彼ら自身の人生が、人と競い合うことを喜ばず、どんな人とも仲良く平和に過ごせる空間「ゆ~とぴあ」を作ることに尽力してきた人生だと思う。

スポーツにおいて勝ちたい、一番になりたい、という気持ちはけして人間の平和を乱すこととは違うけれど、勇利がその気持ちを両親の前で表現することは、かなり勇気がいることだったかもしれない。

けれど勝生勇利の本質はアスリート。本当は誰よりも勝利を熱望している。

衣装を着てメガネを外し氷上に立つ時の勝生勇利は、まるで別人のような容姿になる。育った環境の中で着込んでしまった「子豚ちゃん」の着ぐるみを脱げるのはこの時だけ。

しかし、染み付いた「子豚ちゃん」の心がその闘志を邪魔する。望んだ勝利があと一歩先に見えた瞬間、「お前なんかにそれはふさわしくない」と囁く声に脅え、崩れてしまうことが、これまでも何度もあったんだろう。

ヴィクトルはそんな勇利に最初から「グランプリファイナルで優勝させる」と断言する。それは勇利がずっと出したくて出せなかった声だっただろう。

気持ちは誰にも見つけられなければなかったことになっていく。けれど、ヴィクトルは勇利がそれを言う前に、その気持ちを見つけてくれた唯一無二の存在。だから「ヴィクトルはヴィクトルでいてほしい」し、「僕が勝つって僕以上に信じてよ」という言葉になるんだろう。

本当は勇利自身、「自分は勝利を掴む人間だ」「自分ならもっと上へ行ける」と心の底で信じている。けれど、その勝利への欲望は蓋をしなければいけない醜いものだという刷り込みがもしあったならば、それを言葉にすることも実現することも難しい。

ヴィクトルは勇利の奥底に眠る気持ちを引き出す人であり、勇利の心を代弁する分身ような存在でもあるかもしれない。ユーリ!!! on ICEの3つの「!」の一つはやはり勇利の分身としてのヴィクトルだろうか。

ヴィクトルは勇利を、温かく閉塞的な親元から、インナーマザーの支配から解き放つ者でもあったから、勇利とヴィクトルの間には、あの結婚のような儀式が必要だったのかもしれない。
キンキーブーツ観てきたよ〜〜うおおお〜〜ヽ(;▽;)ノ

ドラァグクイーンのローラと出会い、ドラァグクイーン専用のブーツを作ることになる潰れそうな靴屋の跡取りチャーリーと、靴工場で働く人々の物語。

メインテーマとしては当然、ドラァグクイーンというマイノリティであるローラの存在を、みんながどう受け止め、差別を乗り越え成長していくかというドラマが描かれる。

けれど、それだけではないメッセージがこの物語の骨太な魅力になっている。
「男らしさとは何か?」という投げかけ。
男性が「男らしさ」として誇るもの、誇ろうとして手に入れようともがくものは、実は女性は全然求めていない肥大したプライドだったりする。

ドンのような男性は、ローラのような存在を嫌い、下に見ようとする。ローラが誇り高くあること、ローラが人から受け入れられることは、ドンが自分自身の価値だと思ってきたものを破壊するからだ。
そんなドンにローラが与える課題は、「あるがままの他人を受け入れること」。ドンは混乱して「どういう意味だ?」「それだけやればいいのか?」「誰に対して?(すべての人、とローラは答える)」と問う。書いてあるそのままの意味が、「男のプライド」にこだわって生きてきたドンにはすぐには理解できない。

靴屋の跡取りチャーリーは、基本的にとても優しい男だと思う。
腕力に自信があるようにはとても見えないのに、柄の悪い輩に絡まれている女性(だと思ったローラ)を助けようと間に入る。ローラの子どもの頃の話を聞き、父親への思いに共感し仲間になる。
そんなチャーリーにも、誰にも認められずくすぶっている「男のプライド」がある。社長の息子で優男で、自分の実力や才能を見てくれる人がいない中で、なんとか自分なりの道を見つけようともがいていた。しかしくすぶっていたチャーリーのわずかなプライドが、彼本来の優しさを妨げる。
このチャーリーの、本来の優しさと、プライドこじらせ具合のバランスを、小池徹平は表情や仕草で見事に表現していて、さすが憑依型俳優!という演技だった。

人が誰かに対して差別的な言動をする時、その言葉をぶつけた相手への偏見以上に、自分自身に対する自信のなさや、人と自分を比べてしまうこと、自分を大きく見せようとすることが起因しているのではないかと思う。

けれど、そんな間違いすらも受け入れて、もう一度大切なことを思い出し立ち上がる勇気を与えるのは、靴工場の人々、ローラ、エンジェルズといった仲間たち。
「仲間が支えてくれる」というのも、この芝居のひとつのテーマかもしれない。

落ちてても Let me raise you up
萎んでも Let me raise you up
錆びてても 引き上げて あげる

そう言ってくれる仲間を作ること、それがキンキーブーツが伝える、人生をより良く生きるコツのようなものかもと思う。

ローラ役の三浦春馬は若手ながら貫禄あるドラァグクイーンに成り切っていて、的確に人物を表現する小池徹平、キュートで芸達者なソニン、その他脇を固めるのも役者も実力派揃いで、最高にハッピーな空間を魅せてくれる。

ただ、訳詞が森雪之丞で、この人の作詞は私はとても好きなんだけれど、歌謡曲をずっとやっていた人だからか韻を踏んだり英語っぽい響きにしている歌詞が多くて、芝居の中だとどうしても聴きとるのが難しかったのがちょっともったいなかった。
せっかく重要そうなメッセージを歌っているところで聴き取れないのはけっこう悲しい。その分全曲の詞をパンフに載っけてくれてるのはありがたいけど!

しかし何より涙が止まらなかったのはラスト。観客も含めてお祭りだった!
観客の中にはセクシャルマイノリティのことを、何となく耳にはするけどよく知らないという人も、きっとたくさんいたと思う。だけどラストのあの雰囲気は、まるでプライドパレードのようで、いろんな意識レベルの人と一緒にパレードが出来ているような感覚に、号泣した。

こんな素晴らしいことが、これから日本でどんどん起こっていくといいな。ミュージカルはきっとそんなチャンスを与えてくれる場だと思う。そう思わせてくれたミュージカルだった。
ミュージカル『1789 バスティーユの恋人たち』
・小池ロナン×ねねオランプ×凰稀マリー
・小池ロナン×さやかオランプ×花總マリー
・加藤ロナン×さやかオランプ×凰稀マリー
の組み合わせで観てきました。

まず、フランス発のミュージカルなので、日本人が書いた「フランス革命」からはあまり感じてこなかったことが所々にあったなあ、と。

今まで教科書などで読んでいたフランス革命では、民衆が武装蜂起したことの方が印象に残っている。しかし、今回の舞台ではその前に「虐殺」という言葉が数回はっきりと示されている。視覚的にも、丸腰の市民たちを複数の軍人が銃で狙うシーンが繰り返される。
そうか、この歴史が「フランス革命」という言葉で残っているのは、市民が武器を取り立ち上がったからなのだ、と。そうしなければこの歴史は、フランス軍による市民虐殺事件として名を残していたのかもしれないんだ、と思った。
しかし暴力はさらなる暴力を生み、ロベスピエールは政敵やかつての仲間までも次々とギロチン送りにする独裁者となっていくという、次の歴史もある。互いに殺しあう戦いはやはり悲惨なものだとは思う。
それでも、決して屈しない、どんなに大きな権力が攻撃してきても、自分が虐げられて良いとは絶対に思っていないフランス市民の力強い姿には、感動せずにはいられない。この精神性は少なくとも現代の日本人にはかなり乏しいと思う。

小池ロナン版では、冒頭のシーンでもすでに「そうか!これがフランスの人たちの強さか!農村の人々でもこんなに誇り高い!」と思ったのだけれど、加藤ロナン版では冒頭シーンがすごくあっさりしててちょっと驚いた。
それは2人の演技プランの違いによるもので、どちらが良いかは人によって好みが分かれると思う。2人のロナンは、驚くほどに全く別の人物に仕上がっていた。
歴史ものという性格もあって行間の多い物語だから、演技によって人物像が大きく左右されるのだろうけれど、ここまで違うロナンをダブルキャストでそれぞれに作り上げた2人の役者は、本当にすごいと思う。この2者を見比べられたこと自体が、とてもエキサイティングな演劇体験だった。

加藤ロナンは、ロベスピエールたちと出会った当初からしばらくは、彼らから聞いた自由、平等、権利といった言葉をそのまま、覚えたての言葉を使いたがる子どものように話している。彼がその意味を、本当に自分の実感の中で理解するのは、一幕の終わりだと思う。

一方小池ロナンは、ロベスピエールたちから自由と平等、人の権利について聞かされた時、きっと「それは自分が元々知っていたものだ」と感じただろう。
哲学とは「人間がどう生きるべきか」という学問だと聞いた時、彼は「それならあんたたちインテリよりも俺の方が知っているかもしれないぜ」と答える。加藤ロナンはこれを、気の良さそうな素朴な調子で話す。
小池ロナンの場合、この言葉に、彼が農村で作物や家畜を育て、村の人々や家族と助け合い、貧しさや自然の困難を乗り越える中で学んできたことに強い誇りを持っている、確信を持って「人間がどう生きるべきか知っている」と話している、と感じさせる。
小池ロナンはロベスピエールたちと初めて会った次のシーンでは、すでに権利も自由も平等も、自分の言葉にしている。彼は元々それを農村の暮らしの中で知っていた。そこに明確な言葉が与えられた瞬間は、きっとヘレンケラーが「水」を理解した瞬間のような衝撃と感動があったに違いない。

きっと革命に身を投じた貧しい平民たちの中には、加藤ロナンのような青年も、小池ロナンのような青年もいただろう。どちらの立場から描かれることも意味があると思う。
しかし、小池徹平でなかったら、農村に暮らす学問を知らない貧しい人々の中に確固たる哲学があることを、ここまで明確に示してくれただろうか…と思うと私は涙が出る。

現代の政治や運動に置き換えても、どうしても中心は、学ぶことのできる環境にあったインテリ層が多くなってしまうという問題はある。
反差別、反貧困を叫んでも、その真ん中にいる人たちの偏りは否めない。本当に貧しく、学ぶことのできない環境にあった人がその中心にいることは少ない。
私自身、その問題を丁寧に扱うことができず、後から指摘されて後悔した苦い経験がある。
だから、ロナンがロベスピエールたちを責めるシーンは自分自身にも鋭く刺さる。

二幕の初め、ダントンが皆に「シトワイヤン(市民)!」と呼びかけるシーンで、なぜか私は一瞬、自分にも呼びかけられたように錯覚して、はっとしたのだった。
『ぼくだけが知っている』のいくつかのシーンや言葉は、日常の中でもふと思い出されることがよくある。

ひとりよがりな想いの押しつけについて考える時は、「プレゼントぼーりょく」という言葉が浮かぶ。
街路樹のイルミネーションを見ると「ちくちくする」と思ってしまう。
友達との関係について考える時には、らいちがいじめっ子に対抗するために少しえげつない脅しの手段を使って、その立会人となった今林くんが言ったことを思い出す。いじめ撃退には成功したけれど割り切れない気持ちになるらいちに、今林くんは、この役目を僕に頼んでくれてかなりうれしかったんだよ、と伝えるのだ。
そして吉野朔実先生の訃報を聞いて、自分でもよくわからない感傷に襲われている中で、らいちたちがかつてのクラスメイトが病気で死んでしまったという知らせを聞いて、現実感のない訃報の受け止め方に迷う回を思い出した。

吉野朔実作品は、『少年は荒野をめざす』も『月下の一群』も衝撃的だったけれど、『ぼくだけが知っている』は不思議なほど私の日常に染みついていて、私が思い入れの一作を選ぶならば、やはりこれなんだろうな、と思う。

吉野朔実作品は、怖い、とずっと思っていた。
『月下の一群』は読んだ時とくに怖かった記憶がある。気付かずに読めば、単なる繊細な男女の群像劇に読めてしまう中に、できれば向き合いたくないもの、自分の中にあるもの、人と人の関係の中にある怖いものを突き付けられるような感覚があった。
それは最初期からずっと、漫画家としてのキャリアを重ね年齢を重ねても、追及の手を緩めることなく、吉野朔実の漫画はさらにダイレクトに怖くあり続けたように思う。
まるで少女のような、人間への厳しさ、人間の体と心を持っている自分への厳しさを抱き続けた人、という印象がある。

私が吉野朔実作品をかじりつくように読んでいたのは十年ほど前の大学生の頃。完全な後追い世代だ。
最近の作品は、あまり読んでいなかった。自分自身が大人になっていくにつれて、その少女のような高潔さや激しさについていけなくなったのかもしれない。

でも、そんな作品を描く人だったからかもしれない。
訃報を聞いた時、ああいう作品を描く人が若くして亡くなってしまうのは、本当につらい、悲しい、と感じた。
直接の知人でない著名人の訃報を聞いて、こんなにすぐに「悲しい!」という言葉が降りてきたのは初めてだった。
「ご病気のため4月20日にご逝去されました」というたった一文で、2週間後の今になってあっけなく告げられたその死の表象は、まるで吉野作品そのもののようで、潔く、悲しかった。

天国で安らかにいられることをお祈りする気持ちは、心からのものだけれど、同時に、死後の世界があるのならばそこでも少女のように厳しいままでいてほしい、と願ってしまう自分がいる。
こんな気持ちの押しつけも、プレゼントぼーりょくだろうか?

あなたの作品を愛しています、とだけお伝えしたい。

  

>>次のページ