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『ぼくだけが知っている』のいくつかのシーンや言葉は、日常の中でもふと思い出されることがよくある。

ひとりよがりな想いの押しつけについて考える時は、「プレゼントぼーりょく」という言葉が浮かぶ。
街路樹のイルミネーションを見ると「ちくちくする」と思ってしまう。
友達との関係について考える時には、らいちがいじめっ子に対抗するために少しえげつない脅しの手段を使って、その立会人となった今林くんが言ったことを思い出す。いじめ撃退には成功したけれど割り切れない気持ちになるらいちに、今林くんは、この役目を僕に頼んでくれてかなりうれしかったんだよ、と伝えるのだ。
そして吉野朔実先生の訃報を聞いて、自分でもよくわからない感傷に襲われている中で、らいちたちがかつてのクラスメイトが病気で死んでしまったという知らせを聞いて、現実感のない訃報の受け止め方に迷う回を思い出した。

吉野朔実作品は、『少年は荒野をめざす』も『月下の一群』も衝撃的だったけれど、『ぼくだけが知っている』は不思議なほど私の日常に染みついていて、私が思い入れの一作を選ぶならば、やはりこれなんだろうな、と思う。

吉野朔実作品は、怖い、とずっと思っていた。
『月下の一群』は読んだ時とくに怖かった記憶がある。気付かずに読めば、単なる繊細な男女の群像劇に読めてしまう中に、できれば向き合いたくないもの、自分の中にあるもの、人と人の関係の中にある怖いものを突き付けられるような感覚があった。
それは最初期からずっと、漫画家としてのキャリアを重ね年齢を重ねても、追及の手を緩めることなく、吉野朔実の漫画はさらにダイレクトに怖くあり続けたように思う。
まるで少女のような、人間への厳しさ、人間の体と心を持っている自分への厳しさを抱き続けた人、という印象がある。

私が吉野朔実作品をかじりつくように読んでいたのは十年ほど前の大学生の頃。完全な後追い世代だ。
最近の作品は、あまり読んでいなかった。自分自身が大人になっていくにつれて、その少女のような高潔さや激しさについていけなくなったのかもしれない。

でも、そんな作品を描く人だったからかもしれない。
訃報を聞いた時、ああいう作品を描く人が若くして亡くなってしまうのは、本当につらい、悲しい、と感じた。
直接の知人でない著名人の訃報を聞いて、こんなにすぐに「悲しい!」という言葉が降りてきたのは初めてだった。
「ご病気のため4月20日にご逝去されました」というたった一文で、2週間後の今になってあっけなく告げられたその死の表象は、まるで吉野作品そのもののようで、潔く、悲しかった。

天国で安らかにいられることをお祈りする気持ちは、心からのものだけれど、同時に、死後の世界があるのならばそこでも少女のように厳しいままでいてほしい、と願ってしまう自分がいる。
こんな気持ちの押しつけも、プレゼントぼーりょくだろうか?

あなたの作品を愛しています、とだけお伝えしたい。

  

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ちょっとツイッターじゃまとまらなそうなので久しぶりにブログに。

明日最終回を迎える、NHKの木曜時代劇「ちかえもん」が本当に面白い!

小池徹平ファンとして見始めたけれど、先の読めない展開と演出の面白さ、素晴らしい役者たちの名演・怪演にすっかりハマりまして。
なぜか明日の最終回を待つ今のタイミングになって、全話を通したこのドラマのテーマ…「大人の犠牲になる若者」という存在について、いろいろなことが自分の中で繋がってきました…



ちかえもんは、人形浄瑠璃作家の近松門左衛門を主役に、彼がとある若者たちの物語を追っていくという、二重構造のドラマ。その二重構造のもう一つの物語の主役となる若者たちが、「曽根崎心中」のモデルとなるお初と徳兵衛。

お初と徳兵衛は、まだ大人の世界にどんな悪があるのか、人を陥れる罠とはどんなものなのかもわからない、ピュアでまっすぐな若者たち。

そして常に、大人たちの犠牲になる。

頑なな復讐心から抜け出せず不法に手を染めた罪、友と時間をかけて理解し合うよりも自身の正義感を急いだ罪。けして悪人ではなく、しかし最善を尽くせなかった親たちの罪が、若者たちの運命を捻じ曲げ、悲劇を生む。

さらに大人の世界には、他者を平気で陥れ、人を物や駒のように扱う人間もいることを、彼らは知らず、罠に絡め取られていく。

小池徹平の喜劇的名演技でこのドラマの名シーンの一つとなった「大人は汚い~!」というセリフも、今思えば象徴的だ。

実際、現実の今の世の中を見ていても、若い人ほど立場が弱く、素直でまっすぐな心を利用されている。前向きな一生懸命さは労働現場で使い捨てられ、経験値も財産も少ない彼らから搾り取ろうとするような罠が、世の中に溢れている。

そんな中ちかえもんでは、狂言回し・万吉の売る「不孝糖」なる菓子が第1話から登場する。親孝行の「孝行糖」が流行る中で、万吉は「親孝行の何が偉い」と、親不孝を推奨する「不孝糖」を売り歩く。

これこそこのドラマのメッセージなのではないか…と、今になって思い至る。

若者たちよ、大人の犠牲になり続けてはいけない。親たちに、大人たちに怒れ。言いなりにならず、反旗を翻せ。

「不孝糖」という奇妙な小道具は、こういうことを伝えるために用意されたのではないか。

最終回、若者たちが大人の犠牲になっているという現実を突きつけるために、お初と徳兵衛が本当に死んでしまうラストもありうるのだろうか…。
いやいやしかし、「痛快娯楽時代劇」と銘打ったこの作品。お初と徳兵衛が不孝糖売り・万吉の力を得て、痛快に大人たちに一矢報いてくれるんじゃないか…?

…なんて、陳腐な予想は置いといて。

「空気を読む」などという言葉が使われ始めた頃くらいから、周りに合わせ、浮かず目立たず主張しないことを良しとする文化の中で、若者たちはより一層怒らなくなっているのではないかと思う。
万吉の不孝糖を、作者・藤本有紀は、現代の若者たちにこそ食べさせたいと思っているんじゃないかな…などと考えたりしながら。
とりあえず今は、明日の最終回が怖いような、待ち遠しいような気持ちだ。
WaT解散の衝撃から3日。自分の中で少し考えがまとまってきた。

もしかしたらまだ私は冷静じゃなくて、妄想をつぶやいているのかもしれない、と思ったりもするけれど、今、やはりこれを信じるしかないんじゃないかと思っていることを書いておく。


この事務所で、このままWaTを続けていても、彼らのやりたいことはやらせてもらえないんじゃないか…という思いは、もう何年もずっとあった。

WaTの活動が思い通りにやらせてもらえていない感じは2007年のソロ活動以降から常にあった。

それでも2009年頃までは、主演映画にドラマにと、個々の活動は順風満帆に見えていた。けれど、2010年の後半~2013年頃にかけては、個々の仕事も激減した。

あっても、あまり多くの人の目に触れない地味な仕事が多かった。私の周りでも、小池徹平ってどこ行ったの?ウエンツって最近見ないよね?という声がちらほら聞こえていた。

状況が変わり始めたかと思えたのは2014年頃から。それぞれに、それまでより注目される大きな仕事が少しずつ増え始め、2015年2月にWaT再始動発表。その後は個々の仕事も怒涛の快進撃ともいえる活躍となった。

2015年2月に再始動を発表した時は、11月に新曲のリリースを予定していて、順調にそこに向かっていっているように見えた。

しかし、夏のライブでそれが来年の1月に延期になったと発表される。その時は瑛士の舞台があるから、と話していたが、それは2月にはポスターの写真撮りが行われていて、おそらく再始動発表の頃にはすでに決まっていたと考えられる。

今思えばこの時の感じは、2010年に『24/7~もう一度~』をリリースした時に似ている。

2ヶ月連続リリースで、先に発売した『君が僕にkissをした』は各音楽番組で大きくプロモーション展開されたが、『24/7』の時には朝昼の情報番組などで取り上げられただけで、結局一度も音楽番組でこの曲を歌うことはなかった。

最初は会社からも後押しされて、順調に進められる予定だったのが、途中からひっくり返されてなすすべなく引き下がるしかなかった…

というような印象を、この当時にも、今年の再始動から年の後半にかけての動きにも感じる。

けれど今回、彼らは、なすすべなく引き下がるだけでは終わらなかったのだと思う。

ファンの気持ちを裏切ること、ファンに悲しい思いをさせることは、今までの彼らだったら絶対にやらなかったことだ。本当に細かいところまでファンの気持ちをよく考えていつも動いてくれていた。仕事が不自然に減っていた時も、トラブルがあるような素振りは表に一切見せなかった。

そんな彼らの、10年目にして初の裏切りだ。ファンにとってこれ以上ない絶望を突きつけた。このこと自体がまず異常事態だ。彼らは「ファンにそういうことをする人たちじゃない」スタイルを10年貫いてきたのだ。あまりに彼ららしくないショックの与え方。

これだけのことをしなければならなかった理由は、とても生半可なものとは思えない。

2人のブログには、

「僕らはお互いの道を追求していく事になりますが、不思議と別々の道を行く気がしません。

歩く道は違えど、それは少し離れた所に平行にまっすぐ伸びていると思います。

いつも横目でお互いを確認しながら進んでいく道。」〈ウエンツ瑛士〉

「これからもお互い良き仲間であり、最高の相方です。」〈小池徹平〉

と書かれている。

ライブの中でもウエンツは泣きながら「より未来を明るくするための決断」と語った。

表に見えていることだけ見ると、これで解散しなきゃいけない理由なんてどこにあるんだろうか?と思える。

個々がやりたいことを追求するだけなら、他に方法はいくらでもあった。しかも彼らは心ではずっと相方でいるつもりだと言う。それなのに解散という形を選んだ。その「けじめ」を見せなければいけない相手って誰だ。それは彼らたち自身でも、私たちファンでもない気がする。

もしも彼らが自分たちの未来をより明るくするために、戦略的に、今これほどまでファンをどん底に突き落としズタズタに傷つけても選ばなければならないものがあると、この決断をしたなら、それは彼らの成長だーと、本当に思う。

何でも素直に言うことを聞く、誰ともトラブルを起こさない優等生のままでは、このままでは潰されていくのみだと、30歳を迎える年に、やっと決心を固めた。

自分をすり減らして人に尽くす生き方から、自分たちの意思を貫くためなら痛い決断や戦いに身を投じることも選べるようになった。私は何だか、よくここまで辿り着けたね、と誇らしく思う気持ちすら感じる。

解散という選択は、WaTのお互いの間のことではなく、WaTから、2人の外側の世界のすべてに向けて放たれた挑戦状のようなものではないか。

これからの2人は、自分で自分の生き方を勝ち取っていこうとする大人として、よりクリエイティブで、よりスリリングな道を進んでいくことになるだろう。きっとそんな2人の姿が近いうちに見られる。

そして彼らは、そんな中でもずっとお互いを共に歩む仲間として、傍にその存在を置き続けていくのだと信じている。

私は彼らの言葉を、「僕らが」「2人で」未来を明るくする時を信じている。
スコット&ゼルダ、何度も観てたら書きたいことが増えてしまいました。


「私の生き方を最初に評価してくれたのはスコットだった」

というゼルダのセリフ、この言葉の重みに気付いたのは東京公演が全公演終わった後だった。

もしもゼルダがあの若い将校たちの誰かと結婚していたら。モントゴメリーで恋をした男の子たちの中の誰かと結婚していたら。

彼らの誰も、けしてゼルダに短いスカートを履かせなかっただろうし、フラッパーの格好をするのも、新しい時代の女性として注目されることも許さなかっただろうと思う。

モントゴメリーでのダンスパーティーのシーン、ゼルダ以外の女性たちのファッションを見れば、ゼルダがどんなに時代を突き抜けた存在だったかよくわかる。

それはゼルダの少女時代には、ただ怪訝な目で見られ、眉をひそめられるだけのことだった。

ゼルダを見て、その生き方が自分と鏡のように似ていると直感し、時代を突き抜けるそのセンスを評価したスコットも、あの時代では本当に稀有な新しい感覚の持ち主だったんだろう。

しかし、時代の最先端として女性たちの憧れを集めたゼルダでも、短いスカートの新しいファッションを広めただけの、ただの作家の妻だ。時代の最先端の象徴のような女性が実現出来たのが、それくらいのことだった時代。

あんなに個性と自己主張の強いゼルダのような人が、最初のうちは、スコットの夢の一部になること、作家のスコットと同じ夢を一緒に見ることに、自分の人生を見出している。

もし現代に生まれていたら、もっと早い段階で…もしかしたら出会ったその時から、「私だって自分で何かを成す」と言っていたんじゃないだろうか。

2人はお互いを似ていると感じ、惹かれ合う。実際に似たところはたくさんあったのかもしれない。でももしお互いに完全に対等な存在だと思っていたら、関係性はもっと違っていただろう。

スコットは自分にそっくりなゼルダを見つめながら、自分が鏡のこちら側の本体でメイン、ゼルダがサブの分身という感覚を持っているようだ。

そして、ゼルダ自身さえもその感覚を共有しているように見える。こんなに我の強い女性なのに、どこかで自分はスコットのサブであることを認めているようなのだ。自分が鏡の向こう側の分身だと知っているからこそ、寂しさに耐えかねてもがく、といった様子だ。

スコットとゼルダは激しく恐ろしい人物にも見えるけれど、文通のシーンを観ていると、やっぱりこの人たちって厄介だけど面白い、愉快な人物だったんじゃないかな、と思えてくる。

2人の悲劇は、天才だったことでも破滅的な性格だったことでもなく、彼らの新しい時代の感覚と矛盾する、この時代の「普通の」男女の感覚から完全に離れることができなかったことなんじゃないか。


1940年代のゼルダは小説を書いている。メインであるスコット亡き後に、その分身として彼女が書き続けるのはごく自然なことだったのかもしれない。

そう思った時、あのゼルダが書いている小説は完成したら面白かったんじゃないだろうか、と、なぜか私は感じた。
ミュージカル『スコット&ゼルダ』、ウエンツ瑛士さんのファンだからという理由で観劇した私ですが、ここ数日異常に心を持っていかれてまして。
その理由を自分なりに書き留めておこうと思います。

スコットとゼルダだけでなく作品自体のエネルギーが暴走している

主役として描かれた2人はエネルギーが有り余って暴走し、その結果ボロボロに傷ついていった実在の人物だけれど、この作品そのものもエネルギーを有り余らせてギュッと凝縮し、それでもやっぱり溢れまくっている感じがある。

演出の鈴木裕美氏いわく、アメリカ版とは脚本を大幅に変更しているそうだ。アメリカ版のミュージカルは「夫婦の愛っていいね」という感じのラブストーリーだとか。けれど日本版では伝記『ゼルダ』を下敷きに、2人のやり取りした手紙の文面や発言、エピソードもより史実に基づいて作っているという。

日本版でその改変をやろうと思っちゃった時点で、ある意味すでに暴走だ。スコットとゼルダのエネルギーにあてられてか、演出鈴木裕美氏、上演台本蓬莱竜太氏、日本語詞高橋亜子氏の三者のエネルギーも暴走し、その結果誕生してしまった怪作なのではないかと思う。

そして事実ほとんどすべてのシーンが異常にエネルギッシュだ。

溌剌と動き回るゼルダと、他の誰にも見えない理想を常に目で追っているようなスコットが、競うように何度も夢を歌い合う。

現在と過去の回想を行き来する筋立てだが、現在パートの人物であるベン・サイモンが常に舞台上にいるので、過去シーンは熱を持ちすぎた過去の幻影が亡霊として現れたよう。

スコットの執筆の異常な集中力はタップダンスで力強く表現。小説が大ヒットした世間の様子をダンスのみで表現するシーンも圧巻だ。

すべてのシーン、すべての表現方法が「絶対これが面白い」という確信を持って作られているようで、やたらと密度が濃い。

「現実を諦めた大衆」の罪を振り返り変わろうとする人物

詳しく書くとすごくネタバレになってしまうんですが、こういうことを描いてくれた脚本に、ものすごく私は胸打たれました。

自分の目指したい生き方を貫くなんて現実的に無理、と諦めて生きる多くの人々。何か間違っていると思うことがあっても「自分だって嫌だけど仕方ないんだ」と流されてしまう。誰かがそれによって苦しんでも「自分のせいじゃない」と嘯く。実際その人だけのせいじゃないから逃げるのは簡単だ。

こういうことは今の社会でも本当によく目にする。だから、そんな人が大衆の中からふと一人になって自分の人生の選択を見つめ直し、葛藤し、変わろうとする姿が描かれるシーンで涙が止まらなくなった。

ゼルダを一人の表現者として認めて描いている

ともすれば天才のスコットについていけなかった凡才のゼルダにも見えてしまう話だ。けれど、小説を書いたり、絵を描いたり、バレエをやろうとしていたゼルダに対し、セリフやシーンの端々でこの芝居の脚本自体が彼女をきちんと表現者として見ていることが表されている。

実際彼女の書いた文章や描いた絵は、センスを感じさせるもので、本格的に取り組めばものになったかもしれない芸術的才能も垣間見えたらしい。

ゼルダはきっとあらゆる意味で天才だったんじゃないかと思う。男性に生まれていたら何らかの形で自分の才能を発揮することだけ考えて生きたかもしれない。でも、溢れる天才的なエネルギーを女性の体の中に閉じ込めて、瞳を爛々と燃やしている彼女だからこそ、スコットは惹かれ、創作意欲を掻き立てられたのかもしれない。

作家の業に共感できる

でも、ゼルダに書けそうなセンスがちょっと見えたからといって、私も一応お金もらって文章書く仕事してる身として、自分の身内が突然自分が書こうとしてる題材で小説書くわ!とか言い出したら「ふざけんなよばっきゃろい」と言ってしまう自信がある。

というかちょっとセンスありそうだったらなおさら「ちょっとセンスある程度の素人が手出すなボケ!」って気持ちになっちゃうと思う。あのシーンのスコットは勝手だけど、すごい気持ちわかる。

あと、「自分を最高の作家だと思ってないの!?」とゼルダが驚くシーンもすごく意味がわかる。

それは他の作家との比較じゃなくても良くて、すごい作家はいっぱいいるとわかっているけれど、それとは矛盾せず自分の書くものはやっぱり最高だと信じているんです。なぜかそれは揺らがないというか、土台に必ずある。すべての作家がそうなのかは知らないけど、すごく分かると思った。

あ、でも私は人のことを全部書き物のネタにしたりはしませんよ…と言いつつ、気がつくと起こったことを常に頭の中で文章にしようとしている部分はある。スコットもゼルダと出会ったシーンで、出来事や心の変化を全部文章にしてしゃべるのが、非常にオタクっぽくて可愛らしいのよね(笑)。それがエスカレートしてしまったのかな…

孤高の存在である自分を誇りながらも同志を求める2人が愛しい

スコットとゼルダはきっと本当に良く似ていて、2人ともお互いに出会うまで、唯一無二である自分を、自分のような人間が他にはいないことを、誇りに思っていたと思う。でも、それでいて同じ理想を追える、同じ景色を見ることができる同志を求めていた。

そんな相手と出会えて子どものように喜ぶ2人。こんなに天才的で自分勝手で突き抜けた2人でも、生き方を分かち合える人を求めていた。

人間って愛しいな、という気持ちを喚起される。

傷ついていく悲劇の2人を描いている作品だけれど、物語全体を通して感じ取れるのは、人間って面白い、人間って生きるパワーがある、人間って愛おしい、そういうことばかりだ。

『スコット&ゼルダ』、破茶滅茶なエネルギーと人間愛に満ちている作品。

私としては誰よりも、文章を書く人たちにこそこのミュージカルを観てほしい!と思っています。
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