中村高寛監督のドキュメンタリー映画『禅と骨』を観た後に、前作『ヨコハマメリー』も観たくなって、レンタルして観ました。品揃えの悪いうちの地元のTUTAYAにあったことに驚いた!笑

『禅と骨』のイメージで観ると、もっと淡々と、インタビューを中心としたドキュメンタリーなので、けっこう観るのに気合いと集中力がいる感じです。
『禅と骨』は、おそらく手法的にも前作より洗練されたこともあるだろうし、心構えなどしないで観ても向こうから気合いごと吸い取られるから。笑

横浜の街で外国人将校を相手に娼婦をしていた「メリーさん」は、50年横浜の街角に立ち続け、やがて真っ白な白粉の顔と歌舞伎の隈取ほども書き込んだアイメイクがトレードマークとなる。
私は映画を見るまで横浜の有名人「メリーさん」という人がいたことも知りませんでした。

メリーさんを知る人々の証言を辿っていく映像を見る中で、私が思い出していたのは、小さい頃近所にいたホームレスの女性のこと。
鮮やかな色のドレスのような服に、つばの広い帽子をかぶり、おそらく生活道具すべてであろうたくさんの荷物をいつも持ち歩いていた。
彼女には、メリーさんを元次郎さんが助けようとしたような、支える手はあったのだろうか。

生前のメリーさんを知らない私には、どうもメリーさんが横浜の人々に一目置かれる存在であったことが、なかなかピンとこない。
「メリーさんが観にくる芝居は必ず成功した」
「船着場で米兵と抱き合いキスをして別れたメリーさんの姿は映画のようだった」
そんな証言の中から必死で「皇后陛下」とあだ名されていた気高い娼婦、誰もが一目置かざるを得ない横浜の有名人の姿を想像しようとする。

けれど、晩年家もなくビルの廊下で寝ていた姿。エイズの噂から行きつけの店の来店を断られた話。生活保護も住民票がないことを理由に受けられず(実際にはそれを理由に生活保護を受けられないことはないはずだが、窓口でそう言って追い返す自治体は今も多い)、白塗りで立っている姿はかつての彼女を知らない横浜の若者たちには狂人と映っていたであろうこと…
そういう社会の片隅に追いやられた切なさ、哀れさばかりが胸を打つ。

来店を断った美容室の店主が、「本当にかわいそうなことをした」と自責の念を語る姿を、責める方向にも許す方向にも映像が誘導することなく、ただただ映し出しているのがすごい。断られたメリーさんを思うと本当に切ないが、自分がメリーさんに手を差し伸べたわけでもないのにこの美容室を責められるわけもなく、観客は店主の自責を心に刻むことしかできない。

監督は当初この映画を「本人不在のドキュメンタリー」とするつもりだったが、取材するうちに本人の現在の居場所が分かってしまい、とうとう老人ホームで暮らす現在のメリーさんを撮影することとなる。
最後に彼女が映るシーン、もう白塗りをやめて、「皇后陛下」のようなドレスでもないメリーさんの今を見てしまうことを、恐れる気持ちが私の中にあった。
しかし、そこには「皇后陛下」のメリーさんがいた。
不思議なことに、もう横浜にいた頃と違う、普通のおばあさんの風貌をしているメリーさんを見て、私は「ああ、この人が皆が一目置いた皇后陛下か…!」と初めて納得したのだ。

メリーさんの晩年、さまざまな手を尽くして支え相談に乗っていた、シャンソン歌手の永登元次郎さんが、メリーさんの老人ホームを訪ねて歌う。その姿を見ている、もう「ハマのメリーさん」ではない本名で老人ホームで暮らしているその女性は、驚くべきことに、元次郎さんが「ちゃんと良い芸をしているか」、しっかり吟味しながら聴いているような表情だった。

最後に本人を出しちゃったのは映画の構成上矛盾するんじゃないか?と監督自身悩んだそうだし、そういう批判もあったという。
しかし、元次郎さんと手をつないで老人ホームの廊下を駆けるように歩いていくメリーさんの後ろ姿、あの祝祭的な清々しさは、切ない老女の人生を淡々と追っていたこの映画を、ラストとてつもない希望と感動で、急激にまとめ上げる。

やはり、その人を本当に伝えるのはその人自身の姿なのだな…と、監督の当初の思惑「本人不在のドキュメンタリー」においてはかなりアイロニックなことを思ってしまいながら、ヘンリ・ミトワさんがこの『ヨコハマメリー』を観た時激怒したという話を思い出した。
「メリーさんのドキュメンタリーなのにメリーさんが全然出てこないじゃないか!」と監督を怒鳴りつけたという。
メリーさんのことを全く知らない私が観て、最後の最後に登場するメリーさん本人の姿が何よりも多くのことを伝えていたのを考えると、実はヘンリさんの指摘はある意味正しかったのかもしれない?と思ったりする。

そして何より中村高寛監督自身も、生身の人間のエネルギーの方に惹かれてしまうタイプなんじゃないかな…と思う。
メリーさんのドキュメンタリーなのに永登元次郎さんの存在を大きく取り上げたり、『禅と骨』でもミトワさんの姿と同時に、ミトワさんの家族の面々のエネルギーに引っ張られるように家族の姿を映し出し、再現ドラマの役者であるはずのウエンツが「ウエンツ瑛士」として映し出される。
生身のその人のエネルギーに触れた時、その人自身を撮らずにいられなくなってしまうのがこの監督の原動力なのでは?
などと思ったのでした。

『禅と骨』は、そういう意味では『ヨコハマメリー』以上に監督の真骨頂が発揮された、溢れる「人」のエネルギーに満ちた怪作であり快作。
良いも悪いも引っくるめて、人が生きているということは、それだけでこんなにもパワフルなことなのかもしれない、と思わせてくれる。
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アメリカ人の父と日本人の母の元に生まれ、戦中は日米両国でスパイの嫌疑をかけられ、強制収容所にも入れられた経歴を持つヘンリ・ミトワ氏。戦後は日本文化に傾倒し、禅僧として生きることとなる。
その人生じたいも波乱に満ちているが、カメラを回すうちに、彼自身の強烈な個性、彼の家族たちの個性がぶつかり合い、その火花が監督自身にも飛び火し、生臭い人間ドラマへと展開していく。
…そして、骨になるまで。
ドキュメンタリーとして撮影された映像の他に、アニメーション、再現ドラマなど、ミトワ氏の人生そのもののように幾多の要素が複雑に入り乱れる、エネルギー迸るスリリングなドキュメンタリー映画。

アニメーションパートである『ヘンリの赤い靴』は、「フィクションがフィクションであるからこそできる技」を使った作品で、これがノンフィクションのドキュメンタリーの中に組み込まれているというのが面白い。
現実では叶えられなかった夢をフィクションの中では叶えられるという、「架空の物語」だけが持つ力を、ドキュメンタリー監督である中村監督が表現しているというのも興味深い。

現実と、叶えられなかった架空の夢の世界、その2つをつなぐのが、史実をもとにしたノンフィクションのドラマパートかもしれない。
実在の人物の過去を、役者たちが演じるその風景は、現実の過去と似ているかもしれないし、だいぶ違うかもしれない。「あったかもしれない過去」の幻影を映すドラマは、ヘンリが「未来よりも過去に夢がある」と語り家系図を描く姿と重なる。

さらにカメラはヘンリを演じるウエンツ瑛士の、役としてではない彼自身の姿も一瞬映し出す。それによって、最後に登場する「彼」は、ウエンツなのかヘンリなのか、わからなくなる。
過去の幻影は現代の一人の青年に乗り移り、夢と現実、実際にあったこと・あったかもしれなかったこと、その境界線の曖昧な狭間に観客は立たされる。

ありのままの現実を映すのがドキュメンタリーだと、批判する声もある。しかし、中村監督という人は「ありのままの現実」の不確かさにこそ捕らわれ、翻弄され、カメラを回し続けている人なんじゃないかという気がする。
対象となる人物の思いの世界、イマジネーションの世界、語る言葉の嘘と真実、その狭間で時折、現実と虚構が揺らぐ。
観終わった後にも、映し出された人物たちの言葉、姿、「何が本当だったんだろう?」と思わされる。そのスリリングさが、この映画のとてつもない面白さであり、対象への愛の表れのようにも思う。
ミュージカル「紳士のための愛と殺人の手引き」、とうとう大千穐楽まで終わってしまった~というこのタイミングで記事を書くのもなんですが、再演・映像化・CD化応援!というつもりで書かせていただきます。

この作品の歌詞が優れていることについては、この前の記事でも書いたのですが、

コメディと詩は似ている?ー紳士のための愛と殺人の手引き

今回は前記事で言及しなかった「差別ソング」の妙について書きたいと思いました。

この作品、クラシカルなオペレッタ風喜劇のように見えて、その実とても現代的な価値観に基づいて作られているなあ、と感心するところがたくさんある。
その中でも特に、市村正親が1人8役で演じるダイスクイス一族のいけすかない面々が歌う、明らかな「差別ソング」は、現代の差別主義者が言いそうなことを的確に再現していてすごい。

まず物語序盤で登場する、市村正親演じるダイスクイスの1人、アダルバート伯爵(現伯爵でありモンティの最終ターゲット)が歌う「貧乏人は理解できん」。
屋敷の見学に来た一般市民たちを怒鳴りつけ蹴散らした後に、

私は明らかな民主主義者だ
だが奴らは手に負えぬほどグシャグシャだ
貧乏人は理解できん 理解できん貧乏人は
卑しく さもしく 汚らわし過ぎる


と歌い上げる。

協力だってしてきたし
飢えてたら 食べさせるため 送り込んだ
ブタ箱へ
そして戦場へ
決して差別はしてない ただ やつらはわからん


こういうこと言う人、現代でもいっぱいいるので思わず目を剥いてしまう。「差別じゃなくて区別だ」とか「差別するつもりはないけど⚫︎⚫︎と自分たちは違う」とか。「貧乏人」という言葉は、他の属性に色々と入れ替えられる。
この曲を聴いてから、差別的な言動をしておきながら「差別じゃない」とのたまう人やら企業やら政府やらを見るにつけ「♪決して差別はしてないただ~」と明るいメロディと市村正親の歌声が脳内に流れてきてしまう。


続いてハチャメチャにすごいのが、「レディ・ヒヤシンスの出航」。
これは稽古場の練習風景とともに編集された映像があるんだけれど、まあ聴いてほしい。ヒドイから(笑)



これまた市村正親演じるレディ・ヒヤシンスは慈善事業に熱心な貴族の婦人だけれど、その内心は「いいことをして自分の評判を上げたい」という欲しかない。
そんなヒヤシンス殺害を目論むモンティは、「誰も手をつけていない慈善事業がある」と言ってそそのかし、ヒヤシンスを危険な国に行くよう仕向ける。
危険な国とはつまり、暴動が起きる一歩手前の国や、伝染病の蔓延する貧困国、近代文明が足を踏み入れていない「人食い族」のいる国…。

「かわいそうな野蛮人を助けるざます」なヒヤシンスだけでなく、こういうところに送り込めば死ぬと思ってるモンティも、イギリスが植民地とする貧困国に対してかなり偏見があると見える。

その後また登場する、市村ダイスクイスのうちの1人、バーソロミュー少佐も「弱々しいやつらが多すぎるから植民地がイングランドという指の間からすり抜けていってしまう」というセリフがあるので、当時のイギリスで、植民地の人々に同等の人権があるという意識はほぼないのが「普通」の感覚だったのだろう。

しかし、この脚本のすごいところは、そんな「当時の普通のイギリス人が抱いていた差別意識」を取り入れつつ、それをコメディとして笑うことで、差別を覆す知性を発揮しているところだ。

というのも、ヒヤシンスはどの国に行っても死なない(笑)
一度はアフリカで死んだかと思わせるが、2幕でしぶとく復活してみせる。と同時にあっという間にモンティに殺されてしまうのだが、結局はモンティ自身が手を汚すことになって、「途上国に行けば勝手に殺されてくれる」などという各国に失礼な了見は、最後まできっちり否定される。

この流れを最初から最後まで爆笑とともにやってのけるのだから、これはモンスター級の脚本ではないか。私は作品中このヒヤシンスの一連の話が特にお気に入りだ。


そしてもう一曲、わかりやすい差別ソングとして「それは男」がある。
しかしこれに関しては、日本においてはまだ機能しない皮肉になってしまっているなあ…と感じた。
というのもこれ、「ゲイによる女性差別」の歌なのだ。

市村ダイスクイスの中で、比較的若いモンティと同年代の青年ヘンリーは、舞台上でははっきりとゲイとして描かれている。(しかしセリフや歌詞に明確にゲイだと表すところはないので、BW版でもゲイだったのかただのナヨナヨしたミソジニー青年だっのかは不明。知っている方は教えてほしい)

女は複雑
すぐに殺気立つ
男は単純
だから男
頼もしい 素晴らしい
それは男


この歌詞を聴いて敏感な人なら、現代日本にも本当によくあるタイプの性差別だと気づく。
女の考えていることはよく分からない、男は単純でさっぱりしていて陰湿じゃない、などというステレオタイプを言い訳に、「男」という言葉に分類以上の価値を持たせ、横暴を働いても「男はそういう生き物だから」と許される。

実際現代日本にも、女性差別をするゲイはめちゃくちゃいっぱいいる。だからここで描かれていることが真実でないわけではないのだ。

でも、ヘンリーが出てきて、モンティにときめく様子を見せるだけで観客からは笑いが起こる。

それは市村正親がいかにも滑稽な演じ方をしているからでもあるのだけれど、この芝居の中で市村演じるダイスクイス一族の面々は、1人を除いて全員滑稽な役どころだし、このヘンリーも「遊ぶことばかり考えているおバカ貴族」という役でもあるので、市村だけの問題でもない。

しかしこの世の中で、男女が恋に落ちるシーンがギャグとして描かれる場合の、100倍くらい多く、ゲイが恋に落ちるシーンはギャグとして描かれているだろう。
そのくらい「ゲイ=笑い」という感覚は世の中に染み付いている。

芝居の中でどこに原因があったとは言いにくい。これだけ現代的なPCを取り込んだ脚本で、今の日本の状況を見て「ゲイ=笑い」にならないように演出できなかったことにもあるだろうし、「ゲイ=笑い」だと思って自動的に笑ってしまう一般大衆の感覚にもあるだろう。

しかし、ヘンリーが同性愛者というマイノリティ性を観客に笑われるのを見た後に、他の弱者を差別する歌を歌っても、「コメディに出てくるステレオタイプな差別主義者」として手放しに「ヒドイやつだな~」と言えない気持ちになってしまう。
その上、多くの観客は「それは男」の歌詞を聴いても「ゲイだから女嫌いなんだな」程度にしか考えないのでは。実際テレビに出ている「オネエ」と呼ばれる芸能人が女性差別発言をしても、どこか「オネエは女を貶してもいい」という雰囲気があり、許されてしまう風潮はある。ゲイのヘンリーが言うことで差別としてみなされなくなってしまいそうな気がする。

「ゲイの女性差別」という事象が、ひとつのよくあるパターンとして多くの人に認識されている社会だったら、何が皮肉られているかを読み取ってくれる観客に期待してこういう表現をするのもアリだったと思う。
でも、今の日本社会で「ゲイの女性差別」をやり玉にあげる表現を一般大衆向けにやったところで、観客の多くは「ゲイが滑稽であることを楽しむ」という別の差別意識に感情を持っていかれてしまうな…と思う。

難しく考え過ぎじゃないのか、ただ面白いシーンだったから笑っていただけじゃないか、と思う人もいるだろうけれど、「決して差別はしてない ただゲイは笑える」という歌声が、「貧乏人は理解できん」のメロディーで脳裏をよぎる。

そんな中で、ボートを漕ぐ船頭役をしていたカンパニーキャストの神田恭兵さんが、舞台の端で「ヘンリーのお気に入り」のゲイ青年として無言の芝居をしていたのはよかったなあ、と思う。
彼がヘンリーといい関係にあるような表現も、柿澤モンティに嫉妬しているような表現も、ウエンツモンティに一目惚れしちゃったような表現も、笑いのネタというよりはもっとさりげない、一人のゲイの青年としてリアリティのある動きだったと思う。その上なんだか可愛らしさも感じられて、彼の表現でゲイとしての私の気持ちが救われた部分は大きかった。

そういうわけで、芸術的な面ではほとんど完璧なほどによくできた舞台演出であったことは間違いないのだけれど、もっとこの脚本の持っている現代に毒づくセンスを意識できたんじゃないかと思うところはあった。

しかし、歌詞そのものの素晴らしさは、まったく疑いようがない。本家の英語詞もすごいのだろうし、高橋亜子さんの日本語訳詞のセンスが本当に生きている。

最近、差別表現を批判されることを嫌がる人たちが、「ポリコレ棒で殴られる」という言葉を使っているらしいけれど、差別ソングを歌い上げた人間が次々コミカルに殺されていくこの作品は、むしろ「ポリコレ棒で殺す」作品だなと思う(笑)。

もし再演することがあったら、その時はあと少しヘンリーを違うキャラクターに演出するか、それかむしろ、日本人の共通認識として、「ゲイによる女性差別」がゲイへの差別感情抜きに、憎まれやり玉に挙げられる社会になっていたらいいのにな。
大好きなウエンツ瑛士さんの出演舞台「紳士のための愛と殺人の手引き」、これもまた観劇詩を書こうと思っていたのですが、作品そのものにハマりすぎて、詩にならなかったので普通にレビューを書こうと思います。

詩にならなかった理由はもう一つあって、作中に出てくる歌詞がすでに、私がいつも書こうとする観劇詩みたいなものになっているから。
作品を貫くテーマを象徴的に歌い上げるような曲が複数。だから詩で表そうとした時、使われていた歌詞そのものが浮かんでしまう。これはコメディというものの構造上の話なのかもしれない…と思います。

シリアスな作品なら、ストーリー全体を通して、またはセリフや歌詞の明確な言葉で、その作品のテーマ・主張を伝えるものが多いでしょう。
しかしこのコメディは、ストーリーは「馬鹿馬鹿しいお笑い」に終始する。たまに人情話を挟んでくるコメディもあるけれど、基本的には「ただ笑えればいい」というラクな気持ちで観られるのがコメディの良いところ。

でもテーマが何もないかといえば、そうではない。「紳士のための愛と殺人の手引き」の場合は、それが巧妙に歌の中に隠されている。明確な言葉ではなく、隠喩やダブルミーニングのような形で。

たとえば「ポケットに毒」。
市村正親演じる8人のダイスクイス一族暗殺を企てる主人公モンティ(ウエンツ瑛士/柿澤勇人)が、この曲を歌う場面が作中2回ある。
しかし、モンティがポケットに忍ばせているこの毒は、どの場面でも結局ストーリー上あまり意味を持たない。
「ポケットに毒」は、モンティが、作中「切り札を持つ人間」としての役割を与えられていることを意味しているのかもしれない。

この物語はまるでカードゲームのようだ。ダイスクイス一族という権力者=ゲームにおける上位者に対して、モンティは金も権力も持たない弱者だけれど、弱者しか持てない「下剋上」というカードを持っている。
そしてどうやらこの「下剋上カード」は、このゲームにおいて全てのカードの中で最強のようだ。だから面白いようにモンティの都合の良い方向にストーリーは進む。

そう考えると「まさかの彼が」も、何か複数人でゲームをする時に、誰が強いカードを持ってゲームを操作しているのか最後までわからない体験を思い起こさせるように聴こえてくる。

最も作品の中で象徴的に感じられるのは、フィービー(宮澤エマ)が歌う「裏を表に」。
フィービーは「中身を見ることができたら…」と歌うけれど、カードゲームにおいてお互いの手札は見えない。誰もモンティが持っている、強くも恐ろしい手札を覗き見ることはできない。

そして下剋上カードが最も強いこのゲームの中では、強者と弱者が反転する。裏が表になり、前が後ろになり、黒が白になる。
弱者であるモンティだからこそ、このカードを持ち得るけれど、しかしそうして勝ち上がっていけば最後には強者となり、もう下剋上カードを持つことができなくなる。そうなった時に何が起こるか?
ラストはまさに「裏を表に、表を裏に」という展開で、ミステリーなら鳥肌ものだけれど、そんな仕掛けを投入しながらコメディらしく、面白おかしくカラッと晴れやかに終幕するところがこの作品の妙。

モンティの最初の気持ちの変化を歌い上げる「馬鹿げた夢」では、最後に「馬鹿はどっちだ?」というフレーズがある。
このフレーズはその後リプライズで、殺人のシーンにおいて繰り返される。
今はバカにされる弱者の自分、しかしもし運命を変えて成り上がったら、その時馬鹿はどっちだろう?と問いかけるこの曲。
しかし、殺人に手を染め、終わらない貴族の泥沼に自ら足を踏み入れていくモンティと、モンティが最後に出会う、貧しく無視されていてもこれでいいという「彼」、この時改めて「馬鹿はどっちだ?」という意味が深く感じられる。

思えばこの作品には「2択」の表現が多い。シベラ(シルビア・グラブ)の歌う「あなたがいなきゃ」は「好き?嫌い?」と正反対の2つのさまざまな物事を、モンティの話もろくに聞かない勢いで並べ立てる。何か言ったかと思えば次に逆のことを言うシベラの奔放なキュートさが楽しい一曲だけれど、「正反対の2つの物事」「2択」は作品の中で重要な鍵となってくる。
「結婚します」で、モンティがシベラとフィービーを壁一枚に隔てて2人の女性のどちらも魅力的で選べない!と懊悩するのも象徴的だ。

牧師さんに手を貸すことと貸さないこと、彼の運命を決めたあの選択で、本当のところ、「馬鹿はどっち」だったんだろうか?

ラストのあのどんでん返しは、もしかしたらモンティの心象風景か、またはこれからを暗示する一つのIF世界の表現かもしれない。(…と感じさせる演出がある。)やがては最強の下剋上カードを失う運命にあるモンティが突きつけられる「馬鹿はどっちだ?」

富と権力に溺れる者を皮肉るブラックユーモアが一貫していて、一つ一つの笑いは本当に単純でバカバカしいのに(例えば市村正親がマッチョな肉襦袢を着て出てくるとか)、知性と愛は、反知性の利己主義や差別主義を、笑いによって軽やかに超越するのだと作品全体が歌い上げているように感じられる。

…しかし、こういった深読みは、このミュージカルの魅力の裏側みたいなもの。小難しいことを考えなくてもこの作品はひたすらに面白い。観劇した人からは「ディズニーのアトラクションみたい!」という声も多い。

装置はクラシカルながら楽しさ満点。アンサンブル含めキャストのレベルが高く、実力に裏付けされたコミカルな演技は見応えがある。
演出の遊びも多くて一瞬たりとも目が離せない。
音楽は、観たら数日は曲が頭を回り続けるくらい素晴らしく心に残るナンバー揃い。
難曲を美しく楽しく歌いこなすキャストもさすがで、市村正親の8役演じ分け、早替えに関しては想像以上だ。

そんな面白さ全部盛りみたいなステージングで、繰り広げられるストーリーは殺人をコミカルに扱うくだらないお笑い。
でも、その裏に潜む意味は、じわじわと観客の心に染み込んでいるはずだ。

初日観劇の幕間で私は、「軽いお笑い」を観ていたはずなのに、まだ一幕だけでずっしりとした良作を観たような満足感で心が満たされているのを感じて、ちょっと混乱したのでした。
ミュージカル「わたしは真悟」を観ました。

演出や音楽、美術などで素晴らしい面はたくさんあったし、感動してとても好きだという人がたくさんいてもおかしくない舞台だと思うんです。キャストの皆さんも素晴らしかった。

だから今回は感動した人の気持ちをぶち壊してまで批判意見をぶつけたいという感じではないので、そういうの見たくないなーという人は読まないことをおすすめします。

ただ、やっぱりどうしても、納得いかない…

楳図かずおの原作漫画があまりにも名作すぎて、ハードルが高くなりすぎていたのかもしれない…とも思うのですが…

これは、原作を読まずに観たほうがいいのかもしれません。
原作抜きで観れば、こういう不可解なイメージの連続で観る者に理解させることを拒否するような作品の一種として楽しめたのかも。

もちろん漫画でもそういう類の名作はある。原作がそういう、つげ義春の『ねじ式』のような読者の理解を突き放すような作品だったならこの舞台化で満足できたのかもしれない。
でも、『わたしは真悟』はストーリーを読ませる漫画なんですよね。続きの展開が気になって全巻一気に読めてしまうような。

正直今回の舞台化はそういうストーリー展開の面白さはすっぽり抜け落ちて、原作に表れる不可解だけれど魅力的なイメージの部分だけを羅列したものという感じがして…
ストーリー上できちんと意味を持っている言葉や事象が、舞台では、原作を知らずに観たら「わけわからないけどなんだか面白いフレーズだなあ、面白いイメージだなあ」と思ってしまいそうな感じなんですよね。
それがどうしても、「そういう類の作品として楽しむもの」というよりは、作品の劣化に見えてしまった。

まあでもそれだけなら、自分の好みに合わなかったとだけ言ってもいいように思うんですが。
いくつかポリティカルなことでも気になったところもあって。

一つは、「イギリスでの日本人排斥運動」の描き方。

これは原作でも描かれている展開なんだけれど、こういう政治性を帯びる事象は「今の時代にこれを描く意味」を改めて考えて脚本にする必要が出てくると思うんです。

原作の時代においては、「排外主義」という言葉は今ほど一般的に問題化してなかったと思うんですよね。
そういう中で、「発展ばかり目指して盲信的に危険な物も生み出そうとする日本が海外先進国から見捨てられる時が来る」という描き方は、自己批判的であり革新的だったのかもしれない。

しかし、今の時代背景では同じものを描いても違う見え方になってくる。つまり追い出される側に自己批判が向くよりも、追い出す側の排外主義が批判されるべき時代。

しかも舞台は原作以上に断片的な描き方で、「排外主義者のヨーロッパ人が日本人を追い出そうとしている」というイメージだけ飛び込んでくるような感じがしてしまう。
あれを見て今の日本人が受け取るメッセージって、「日本人に危害を加えようとするわけわからない外人コワイ」くらいのものなんじゃないかなあと。
それってむしろ、日本人が抱く排外主義的メンタリティを強めるメッセージになるんじゃないだろうか。

プラカードを持ったデモ隊という描き方も、暴行の印象の方が強かった原作より現代社会を表面的には取り込んでいる気がするけれど、現代においてこの作品は何に対して批判を向け、何に対して警告するのかという意識が非常に曖昧で稚拙な感じがしてしまった。

もう一つ気になったのは、悟とまりんが「大人になってしまう」ということに関して、まりんが「大人の女」になることに原作よりもさらに強く意味付けしている感じがしたこと。

原作ではまりんが大人になることに関して、ロビンが「胸が膨らんできた」という表現はあるけれど、初潮そのものを意味する表現はない。
そしてまりんだけが大人になるのでなく、悟も過酷な状況を大人の手を借りず自分で生き抜く体験を経て、漫画の最後には、冒頭とは比べ物にならないほどに大人の顔になっている。

まりんが大人になるのがロビンによって早められたというのも、あんなに拒んでいるロビンに求愛されて女っぽくなったということじゃなくて、大人の手を借りられない場所で危機に面したことで、自分自身が大人にならざるを得なくなったという意味ではないかと思う。
当然ロビンに女として見られ危機に瀕することから、女である自分はそれによって危害を受ける存在だと自覚する、という意味も含まれるとは思うけれど…

その辺が、舞台ではあまりにまりんだけに「大人の女になる」イメージを付加されすぎている感じがして。そして悟は最後まで子どものままのような感じがして。

女の子だけ「大人の女」にして、男の子は男の子のままに描くって、なんか吉田秋生の『櫻の園』で、子どもの頃に「ませてるね」と言われて深く傷付いた少女を思い出しちゃうような、女に生まれたがそんなに悪いか!?ってブチ切れたくなっちゃうような、そんな感じ。

私は楳図かずおの漫画全部読んだわけではないけれど、知っている範囲では、そういうところフラットな感じがしているんですよね。
自分の顔の美醜にものすごく振り回される女もよく出てくるんだけど、同じくらい自分の顔の美醜に振り回される男も出て来たりするところとか。

なんかねえ、その辺が、一人だけ完全に「大人の女」の衣装に変わってしまう舞台のまりんを観てるとモヤモヤして、悲しかったんです。


まあそういうわけで、ものすごく期待していた舞台だったし、Open Reel Ensenbleが舞台上で音楽を演奏する手法とか、音楽そのものも素晴らしくて超ステキ!って思ったんだけど、脚本の部分でどーしても納得できなかったのでした。

という話でした。
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