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大学の卒業生企画で、電子書籍に参加させていただきました。

http://www7b.biglobe.ne.jp/~hyperballade/

こちらから誰でも閲覧・ダウンロード可です。
わたくしは、『黒い種』という作品を書かせていただいてます。

3つ上の先輩の企画だったんで、他の作家陣はみなさん大先輩ばかりでアワアワしましたが、
参加させていただいてありがたかったです。
実力派ぞろいなので、ご興味のある方はぜひご覧ください。
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ケンタの世界

 海岸沿いに長く続く堤防の上は、この辺りの子供なら小・中・高合わせて十二年間通う通学路になっている。日の入りを眺めながら、ケンタと姉ちゃんの隣を歩いていた婆ちゃんが、ふと立ち止まって小さな石ころを拾った。ケンタと姉ちゃんも立ち止まる。
 たった今水平線の下に太陽が隠れた、その空に向かって婆ちゃんは思いっきりその石ころを投げた。石はまっすぐ飛んでいくと、弧を描き、落ちる途中で青紫の空に引っかかってキラリと瞬いた。ケンタは驚いた。婆ちゃんの投げた石が星になってしまったのだ。
「すげえ! どうやってやんの! 今の!」
「いぇー、まいったねえ。投げてみんべ?」
 婆ちゃんの手渡してくれた石を、ケンタは思いっきり空に向かって投げた。しかし、それは海の波にも届かずに、砂浜にぽすんと落ちてしまう。
「できねえー。婆ちゃんどうやってやったっぺー」
 大人でも方言を使う人がほどんどいなくなったこの町だけど、ケンタは婆ちゃんと暮らしているので、婆ちゃんの方言がちょっとうつっている。
「ケンタはまだ一年生だでん、しょいねえよ」
「えー。じゃあ姉ちゃんできる?」
「姉ちゃんも無理よ。婆ちゃんは特別」
 姉ちゃんが笑って答えた。
「高校生なのに?」
「ケンタ、婆ちゃんは高校生の何っ倍も年上なんだよー」
「うへえー」
 ケンタはたった今婆ちゃんが作った星を見つめて、ため息をついた。高校生の姉ちゃんよりもずっと年上だなんて、どんなに時間がかかることだろう。そんなに長いこと生きていれば、星を作るなんてことだって、そりゃあできるようになるってものだ。
「わんりょくを鍛えたらさあい」
「わんりょく?」
「腕力?」
「おいよぉ。わんりょく」
 もっともらしい婆ちゃんの口調に、姉ちゃんが爆笑し始め、ケンタもつられて笑った。婆ちゃんは振り返ってニヤリと笑った。もう空は暗かった。婆ちゃんの星は、あとから現れたたくさんの他の星に混じって、もうどれだか見分けがつかなくなっていた。


「部長! 『黒入道』を一刻も早く倉庫に運びませんか!」
 突然の一年女子の提案に、みんなが振り向く。そして沸き起こる拍手。おれは少ししょんぼりしながら問う。
「みんな、そんなに彼を部室から追い出したいのか……」
「当たり前だ!」
「彼がいると怖ろしくてしかたないです!」
 おれは彼のその真っ黒なハリボテの肩をなでてやる。おれだけはお前の味方だからな。落ち込むんじゃないぞ。
「おい部長、黒入道と仲良くしてないで何とか言えって」
「……よし、わかった。じゃあ今日は部室と倉庫の大掃除をしまーす!」
 部室全体に、「えー」の合唱がこだました。
「なんだよ、倉庫が散らかっててこいつが入るスペースないのも事実なんだからな。おれの大切な黒入道を追い出すにはそのくらいやってもらわんと」
 みんながしぶしぶ動き始める。お別れは寂しいが、そろそろ本当に整理が必要だったのでタイミングよかったかもしれない。
 高校のオカルト研究部にしては、十二人という部員数は決して少ない方ではないだろう。それも一学年三クラスしかないこの田舎の学校においてとなると、ほとんど奇跡ともいえる。……というのは言い過ぎか。でもこれで、活動内容も、文化祭の展示が教師や地域の大人にも好評だったり、「きもだめし」や「怪談大会」と称して行う合宿があったり、楽なわりに充実している我が部なのだ。部の設立から今に至るまで尽力してきた、おれの功績は大きいのである。
 だから、本当なら去年の文化祭におれが作った可愛い可愛い黒入道のハリボテ(推定原寸大)を、体育館わきにある、各部の不用品入れ倉庫に運び込まれるのには断固反対してもいいはずなのだが、やはり多数派の意見には勝てない。といっても学年変わった四月後半の今までねばったのだが。
 ちなみに黒入道はこの地域の沿岸に伝わる妖怪で、一説によれば、顔から足のつま先まで真っ黒、しかし普通の人間の男の形をしていて、夜中に人家の扉を叩くものだ。
「みんなが怖がるのも無理なかろう」
「……池端……。いきなり背後に立ってるお前の方がおれは怖いぞ」
 池端淳平は一応オカ研副部長、おれの右腕である。SF小説家を目指しているからという動機で、オカ研を作るおれの誘いに乗ってくれたらしいが、これが妙に親父臭いテンションの男だ。
「こいつら、妖怪やらなんやら抱えて廊下を渡るのか。さながら狐の嫁入りだな」
 一人で笑っている。
「『こいつら』じゃねえよ。お前も一緒に運ぶんだ」
 と言ったところで気がついた。慌てて、部室の隅のごちゃごちゃを整理しつつ、運び込むものを集めている有能な部員たちに呼びかける。
「おーい、廊下を占領しないようになー。あとアヤシイもの運ぶときには土屋に会わないように気いつけろよ」
「アヤシイものって……」
「いろいろあんじゃないか。去年の展示物とか」
 おれの隣で池端がぷっと吹き出すのが見えて、横目でちょっとにらんでやった。


 なぜかいつも、ケンタは先生に怒られてしまう。先生は若くて美人だけど、怒るとコワイ。そんなに悪いことをしているつもりはないのだけれど、本当は自分はとても悪い子なんだろうか、とケンタは考える。
 でも、そんなことないと思う。ケンタは婆ちゃんによると、「きかんぼう」らしい。婆ちゃんに影響されて家族みんなケンタを「きかんぼう」と呼んだりする。けれどそう呼ぶときには、それまで怒っていたみんなの顔が少し優しくなるから、そんなに悪いものではないんだとケンタは思うのだ。
 しかし今日の授業でもまた、ケンタは怒られた。ケンタが消しゴムの滓を丸めて作った消しゴムマンのせいだ。
 消しゴムマンは最初はとても小さくて、ただの灰色の玉だったけれど、授業で出る消しゴムの滓を毎回毎回くっつけて足していくうちに、数日かけて立派な頭と手足のついた体を得た。しかし、その頃からときどき消しゴムマンはケンタの言うことを聞かないようになった。
 まず消しゴムマンは、ケンタの机の上を歩き回って自分で消し滓を見つけては食べるようになった。ただ丸いだけの何もついていない頭の真ん中に穴が開いて、そこから滓を吸い込むのだ。食べるほどに体が大きくなるので、食欲も増して、そのうち隣の席の消し滓にまで手を出すようになってきた。そして昨日のさんすうの時間、とうとう消しゴムマンはケンタの消しゴムを丸呑みしてしまった。
「あ! あー……っ」
 思わずケンタがあげた悲鳴に、先生が振り向く。
「どうしたの、ケンタくん」
「あの、消しゴムが、食べられちゃって」
「まあ、食べられちゃったの?」
 先生と話しているうちに消しゴムマンはケンタの消しゴムを消化してまた大きくなってしまった。ケンタの持っているプラスチックのウルトラマン人形に似た大きさだ。
そして消しゴムマンはケンタの机から飛び出すと、教室中の机を渡り歩いてみんなの消しゴムを食べ始めた。
「先生、ぼくの消しゴムも食べられたー」
「わたしもでーす」
 ケンタは立ち上がって叫んだ。
「やめろよ消しゴムマン!」
 その言葉と同時だった。消しゴムマンの頭に開いた穴は、教室中の消しゴムを吸い込もうとした。消しゴムだけを吸い上げることなんてできないから、教科書やら筆箱やら、クラスのみんなの机に載っていたものがどんどん穴の中へ吸い込まれていく。でも消しゴム以外のものはやっぱり受け付けないのか、体のあちこちからポロポロこぼれ出している。そうこうしているうちに消しゴムマンはとうとう人間の子供くらいの大きさに成長してしまった。
 そのとき、どこから持ってきたのか大きなポリバケツを手にして、先生が消しゴムマンの背後に忍び寄った。そして、その首根っこをつかみ、ポリバケツに詰め込んで蓋をすると、
「ガムテープよこしなさい!」
 前の席の子が、教室の道具箱に入ったガムテープを取って来て先生に渡す。先生は蓋の上からしっかりガムテープで留めると、それをかついでいって、教室の後ろに置いた。
「さあ、みんな自分の教科書やノートを拾いましょう。授業に戻ります」
 みんなバラバラに散らばったそれらの中から、自分のものを探して拾い始める。ケンタも拾いながら、ポリバケツの中の消しゴムマンが気になってちらりとそちらを見ると、そこには先生の怖い顔があった。
「ケンタくん。まだ集中できないの?」
「え、えーっとえーっと……」
「今日の放課後は、『もう消しゴムマンを暴れさせません』と百回書いてから帰ってもらうわよ」
「ええーっ」
 ケンタの教科書だけが、なぜか最後まで見つからなかった。たぶん、まだケンタのだけ消しゴムマンが持ってるんだ。そう思うと、余計に消しゴムマンの入っているポリバケツが気になってしまうけれど、盗み見ようとすると必ず先生に注意されて、今日は何度怒られてしまったかわからない。散々な一日だった。


 学校の怪談というのはまあ定番のようなものであるが、俺たちの通うこの小さな高校にもひとつ、ちょっとだけ変わったのがある。
「死んだはずだよお富さん」、というやつだ。春日八郎の『お富さん』をパクってるあたり胡散臭さを増している気がするが、実はけっこう現代風の幽霊伝説だ。
 何年か前に、病気か事故か、何かの原因で卒業できないまま死んでしまった女子生徒がいた。その死んだはずの女子が幽霊になって校舎をうろつく、という、至ってオーソドックスな内容だが、その女子の名前に「富」の字がつくらしい、という噂で「死んだはずだよお富さん」につながったのだ。
 もうひとつ面白いのは、このお富さん、女子の間では一種の信仰の対象になっているらしい。なんでも、できるだけかわいい便箋にお富さんへの手紙という形で恋の願い事を書いて出せば、願いが叶うこと間違いなし、効果抜群という噂だ。だが手紙を出す場所は一部の女子にしか伝わっていないらしく、おれもまだ突き止められていない。
「で、そのお富さんが、実は『富里』って子だったって話があるんだ」
「……何をうれしそうに、お前は」
 机一つをはさんで向かい合った池端の呆れ顔をよそに、おれはテンションを上げる。
「だってこの小さい町で『富里』なんて他に何軒もいねえじゃん。彼女はおれと、血縁関係にあると考えた方が自然なわけよ」
「で、合宿の話をまとめるんだったな」
 おれの言葉をさらりと無視するわりに、池端の目の前には漫画本がひろげてある。
「人が話してる目の前で漫画読んどいて、何ぬかす」
 ばっ、と取り上げてやると、ちょうど目の高さに持ってきた本の表紙に、おれはただならぬものを感じてしまった。
「ばかめ。それは女の真実が描いてある本だ。お前のつまらん話など聞いてられるか」
「……って少女漫画じゃねーか! 何が女の真実だよ!」
 その少女漫画に「ただならぬもの」とは大袈裟な、と思われるかもしれないが、こういうものに縁のない男子高校生からすれば、表紙の、女の子の髪の毛がやたらフワフワ広がって絡まっている絵だけでも、何というか別世界である。
「だから、ばかの童貞め。少女漫画を描いているのはリアル女だぞ。女子の理想を知ることこそ女子を知る第一歩である」
 な、なるほど? 一理ある気もしたが、だからといってそのために少女漫画読むか、普通? やっぱりこいつアホだよな……。呆れを通り越して呆然とするおれに、池端はぐいっと顔を近づけてきた。
「なあ、富里……女は危険だぞ」
 眼鏡の奥の瞳がマジだ。こいつ少女漫画読んだくらいで悟った気とは、「ばかの童貞」はお前のことだろが。しかし次に池端から発せられた言葉におれは少しひるんだ。
「女には心中願望がある」
「え、何? 心中?」
 池端はおれの手から漫画本を奪い返すと、表紙をトントンと指差してみせる。
「この漫画に描かれているのは、亡くなった双子の姉の幻と会話する少女だ。この子は現実の煩雑な世界から逃避して、姉と二人っきりになれる別世界を模索する」
 おそらく今、おれの顔には漫画さながらにでっかいクエスチョンマークが浮かんでいることだろう。はっきり言ってさっぱり意味不明。
 池端は椅子から立ち上がり、なぜか黒板の方へと向かう。今は教室としては使われていない部屋なので、黒板はあるが教卓がない。
「女子の中にたまに、双子のようにそっくりな仲良し二人組、というのがいるだろ」
 突然話がとぶ。
「ああ、C組にいるよな。バレー部の。髪型も体型もおんなじだから見分けつかねえの」
 どっちもかわいいけどな……。
「実際おれたちの生活の中でも、漫画と同じようなことは起こっているんだ。ああいう二人組のようにな」
 さっぱり話が見えてこない。池端は何が言いたいんだ?
「この漫画の作者は、似たようなテーマで多く作品を書いている。たとえば、男女の双子で、お互いの性を代わりたがっている二人の話。結局、彼らは自分に性というものがあること自体を否定したいのだということに気付く。そしてたどりつくのが、大人になりたくないという結論だ。
 ほかの作家でもいろいろあるぞ。ふつうに男女のカップルでもある。幼馴染みの二人は、二人きりの世界が干渉されることを恐れて家出するんだが、その道中で気づいてしまうんだ。お互いの成長でさえ、『二人の世界』に干渉するものになるってことにな。そして二人は崖の上に立つ。断崖絶壁だ」
 おれはごくりと息を飲む。何がどうして一体、そんなことになってしまうんだ? ついでに言っとくと、こいつの読んでる漫画、少女漫画といえどちょっと偏ってないか?
「まあ結局思いとどまって、家に帰っちゃうんだけどな。そっから先の展開がくそつまらんせいで駄目漫画になってしまった」
 言いつつ池端は、白のチョークで、黒板になにやら殴り書いていく。
      ・自分のコピーの存在
      ・干渉の拒否
      ・成長の拒否
「少女漫画に顕著に現れる、この三つのテーマが何を表すかわかるか」
「あ、えーとそうだな」
「お前にはわかるまい」
 おい……じゃあ聞くなよ。
「これは、『死者の世界』へ向かうベクトルを示唆するのだ」
 池端は黒板に大きく「死者の世界」と書き、少しの間沈黙した。チョークが飛び散って字の回りに貼り付いている。――「死者の世界」なあ。そういえば、妖怪や怪奇関係のモノも、「死者の世界」である。干渉されない、成長もしないっていったら、『ゲゲゲの鬼太郎』の歌だなそりゃ。
 おれがそう言うと、池端は黒板からこちらを振り返った。
「そうだな……妖怪の場合はまた立場が微妙で面白いんだ。あいつらは永遠性を持ち、自由でありながら、時代のニーズに合わせて少しずつ姿を変えているんだからな。人間が手に入れられない、理想の世界のイメージを託されたのが、奴ら妖怪たちかもしれん。そういう意味では『生者』と『死者』の橋渡しがあいつらなのかもな」
 もしかしたら、女子が「お富さん」伝説が好きなのには、そういう意味合いもあるのだろうか。おれにはよくわからないが。
「しかし、『自分のコピー』っつうのはなんだ? なんで双子?」
 池端が眼鏡をついっと直してみせた。
「その辺がだな、オトメの求める『死者の世界』の理想なんだろうな。無自覚で、孤独な『死者の世界』に生きる人間はけっこういるが、女たちは永遠の理想世界をもう少し自覚的に求めているわけだ。それは暗くて独善的なつまらん場所なんかではなく、もっと魅力的な地獄だ。とはいっても、もちろん自分が妖怪には、なれんしな。
愛する人との永遠は誰もが求める。でも永遠はつまり、成長しない、干渉されない……そんな社会性のない関係は自分自身としか築けないだろう?」
 ずいぶんクサイことを言う。だが池端が小難しい大仰な言葉を使うのには、おれはもう結構慣れていた。
 自分以外の人間と一緒にいるという時点で、「成長」も「干渉」も避けられない。誰かと永遠を分かち合いたいなら、自分のコピーをつくるしかないのか。考え込むおれの正面で、池端は黒板の文字を消し始める。
「と言ってもまあ、あのバレー部の二人組がそこまで考えてるわけはないがな。きっと卒業して何年か経てば、そのうち全然似なくなってしまうんだろう。あの美しさは今だけのものだな」
 おれは少し驚いていた。この理屈っぽい奴が、そういう危険で儚いものを「美しい」と思っているのか。
 彼女たちはごく自然に、無邪気に「仲良し」を求めていながら、永遠という破滅的なものに向かって立っているんだろう。
「まあ童貞には少し早かったかな」
「……さっきからお前……、お前だって童貞だろ」
「で、合宿の話だが」
 はぐらかした。はぐらかしたな。黒板の鮮やかな白を消しさっていく池端の背中に食い下がろうとしたそのとき、部室のドアが勢いよく開いた。


 今日の消しゴムマンのことを、ケンタが母ちゃんに話していたら、家の外でブオンというバイクの音がした。町役場に勤めている父ちゃんが帰ってきたんだ。ケンタは父ちゃんによじ登ろうと思って、玄関にスタンバイする。
「ただいまー。おっケンタか」
 いつも父ちゃんは、帰ってきて最初にケンタを見ると、「おっケンタか」と言う。いつだってケンタは玄関で待っているのに、変なの、とケンタは思う。
 左足からよじ登って右足から降りて、今度は右足からよじ登って左足から降りると、父ちゃんは着替えるために二階へと上がっていく。ケンタも父ちゃんのあとをついていく。着替えを済ませた父ちゃんとそのままタタミの部屋でプロレスごっこをするところまでが、一連のお決まりなのである。
「こりゃー。このきかん坊ケンタ!」
 父ちゃんにお腹をめちゃめちゃくすぐられて、ケンタが笑いすぎでへとへとになった頃に、ふと父ちゃんが窓の方を指差した。
「おっ。隣の赤ちゃんがこっち向いてるなあ」
 タタミの部屋の窓は、お隣の家の2階の窓と一メートくらい離れて向かい合っている。その窓から隣の赤ちゃんが、ベビーベッドの上でゴロゴロしながらこっちに目を向けているのが見えた。確かもうハイハイするようになったといったっけ。目が覚めてしまって元気をもてあましているのか、足をバタバタさせたり、なんとかして起き上がろうとしている。
「赤ちゃーん、いぇーっ」
 ケンタが手を振ると、赤ちゃんは頭の上のベッドの格子をつかんで、じっとこちらを見つめた。すると、格子はカタンと音を立ててはずれてしまって、赤ちゃんの手から離れ床に落下した。赤ちゃんは上手に寝返りをうつと、格子がなくなったベッドの端につかまって体をそちらに引き寄せる。それはケンタたちが見える窓の方向だ。
「あれ、ダメだよ! 落ちちゃうじゃん!」
 とうとう赤ちゃんの頭が、ベッドの端からはみだして、がくん、とぶら下がるような形になってしまった。頭が重いから元に戻れないようだ。
「どうしよう! 落っこちちゃう」
「よし、父ちゃんちょっと助けに行ってくるな」
 父ちゃんが走って出て行く。
 すると、二つの窓の間を、黒い風のようなものが横切った。生温かい空気がケンタの鼻の辺りを一瞬むっとさせて通り過ぎた。
 ケンタにはすぐに、前に婆ちゃんから聞いたツンツン様という妖怪のことを思い出した。夕方、生ぬるい風を吹かせてやってくるツンツン様。そのおそろしさに、牛も足がすくむと、婆ちゃんは言っていた。よく意味はわからないけど、牛が怖がっている姿を思い浮かべると、なんだか不気味だ。こいつこそが、そのツンツン様なのだ。ツンツン様は窓の前をゆらゆらと動いて、今にも手を伸ばして赤ちゃんをさらって行きそうだ。
 そのとき、その窓のすぐそばに父ちゃんの姿が現れた。お隣の壁をよじ登ってきたんだ。すると、ツンツン様はみるみるうちにしぼんで小さくなっていった。父ちゃんが窓から入って赤ちゃんの体を抱きとめ、ベッドに寝かせるころには、それはすっかり消えてなくなってしまった。
 ベッドの格子もあっという間にきちんと直してしまって、するすると壁を降りていく父ちゃんを見て、ケンタはすべてがもう大丈夫なんだと思った。
「ケンタ、夕飯にするよ」
 開いた部屋の扉のところで、いつの間にか立っていた母ちゃんが呼んだ。
「あら、ここから赤ちゃんが見えるのねえ。ずっと見てたの?」
 ケンタが、父ちゃんが赤ちゃんを助けた、と話すと、母ちゃんはうれしそうに「よかったねえ」と笑った。


「またお前たちか。もう下校時刻を過ぎてるぞ!」
 おれと池端はやべえ、と顔を見合わせた。
体育教師の土屋は、オカ研を目の敵にしているのだ。下校時刻を守らない生徒を学校から追い出すことで有名な土屋氏だが、オカルトや非現実的な話が大嫌いらしく、オカ研の存在をも疎んでいるようだ。
 土屋は部室にずんずん侵入してきて、ふいに池端の頭に手を伸ばした。池端がとっさによけると、土屋は少し気色ばんだ。
「髪の色を戻せと言ったろう。何度言ったらわかるんだ」
 珍しく、池端の目つきが一瞬険しくなる。何度言ったらわかるんだ、はこっちのセリフなのだ。
「戻すも何も、元々こういう髪なんですがねー……」
 そう返す池端は、いつものぼーっとした調子に戻っている。
「なら証明書を出しなさい」
「担任の谷口先生には必要ないと言われたんですが……」
 池端は髪も目も色素が薄く、親父臭い性格のわりに、外人顔のイケメンだ。多少勘のいい人間が見れば元々の色だということが一目瞭然なのだが、土屋のような頭の堅いタイプには、池端の西洋風の顔が余計目立ってチャラチャラしているように映るのかもしれない。こんな田舎の学校だって、こっそりと少しずつ髪を茶色くするような女子が何人かいるが、頻繁に注意されるのは決まって池端だ。
「池端行こう」
 土屋が怒鳴って返そうとするのを遮って、おれは彼の横を通り過ぎ池端を促す。
「おい、話はまだ終ってないぞ」
 振り返って土屋を見る。自分の眼差しが、冷ややかなのを感じている。
「下校時刻過ぎましたんで、帰ります」
 おれは池端のように穏便にはなれない。怒りのオーラが体から溢れて、土屋に向かうイメージ。睨みつける先の、土屋の表情が固まり、ひやりとした空気が足元へ下がっていく。
「なんだその態度は……」
 おれの肩を、土屋の右腕がつかんだ。そのときふと、足元を何かが通り過ぎた感触がした。
 慌てて下を見るが、何もいない。
「どこを見てるんだお前! ちゃんと先生の目を見なさい。自分が先生に対してどんな態度をとったか、わかってるのか!」
 それを言うなら、こいつは自分が池端に、どんな失礼なことを言っているのかわかってるんだろうか? おれが言い返そうとするのを、池端の声が妨げた。
「そうだぞ、せんせいに対してそういう態度はよくないな」
「はあ?」
 突然何を言い出すんだと思って顔を見ると、池端のやつは妙に生真面目な表情をしている。しかし、おれは経験上わかる。これは、こいつが笑いをこらえている顔だ。土屋の声は突然明るい色になる。
「そうだな。なんだお前、ちゃんと分かってるんじゃないか。池端は勉強は頑張っているんだからなあ、本当はいい生徒なんだとちゃーんと先生は知ってるんだ。あとは髪さえ、な。ちゃんとしようなあ」
 池端は黙って微笑む。素材が良いだけあって素敵な笑顔に見えるが、本当はこれは悪意満ち満ちた笑みなのだと、おれ以外にわかる者はあまりいない。
「じゃあ、今日はもう下校時刻なんで帰りますね、せんせい」
「ああ、気をつけて帰るように。買い食いはだめだぞ」
 そのひとことに、おれは池端が今にも噴き出すんじゃないかと恐れる。案の定眉のはしが少しぴくぴくしている。
 今時珍しい、「買い食いはだめだぞ」という土屋お決まりの呼びかけが、生徒の間では「名言」と呼ばれて大いに笑われていることは、当人はきっと全然知らない。
「さようなら、せんせーい」
おれは半ば池端に流されるようにして、歩き出した。
「あ、さよーなら……」
 そう言って背を向けた。と、その背中でがたんという大きな音がした。
 振り返れば土屋が尻餅をついている。
「……先生、どうしたんですか?」
 土屋はわけがわからないといった表情で、尋ねたおれの顔を見る。
「い、いや? なんだろうな。何かが引っかかったんだが」
 土屋が立ち上がって、そう答えた矢先、今度は引っ張られるように前のめりになって転んだ。
「な、なんだ! 一体! ひ、引っ張ったぞ、お前ら何をしたんだ!」
 え? ちょっと待て、なんでおれたちが。急に矛先を向けられて池端と顔を見合わせる。自分で転んだんじゃないのか? 今の。
 しかしその瞬間、おれの感覚にも、奇妙なことが起こり始めた。――おれの手を、誰かが引いている。扉の方へ導こうとしている。
 背筋をゾクッと寒さが駆けて、身震いした。実は本当に怪奇現象に遭遇するのは、初めてだ。やばい、この得体の知れなさは、本気で気持ち悪いぞ。おそるおそる振り返るが、そこには何もいない。でも、手のひらの感触だけは、いまだにある。――何なんだこれは。ど、どうしたらいい? そして今、反対の手も握ってきた……
「……池端お前、何おれの手握ってんだよ」
「いやな、富里……なんかが、こっちのおれの手を引いてるようなんだが」
 どうやらそいつはおれたち二人の手を片方ずつ引っぱっているらしい。おれが池端にそう告げると、
「そうか。これは一体、何者なんだ」
 いや、それも不思議だがおれたちが手をつないでいるこの状況もかなりおかしい。この、姿の見えない手を引いているやつの格好も考えたら、「かごめかごめ」みたいになってるじゃないか。
「とりあえず気持ち悪い、お前」
 池端の手を振り解くと、今度は制服のひじのあたりをしっかり掴んでくる。
「なんなんだよお前は」
「怖いだろうが」
「怖がってんのかお前えらそうに!」
 ふと気づくと、ひざまづいたままの格好で、土屋の顔が真っ赤に沸騰していた。
「お前らは、先生を騙そうとしているのか。からかおうとしているんだろう、そうだな」
 引き結んだ口のはしがぷるぷると震えている。この教師の怒り方は、「キレる」に近いと噂で聞いたことがある。これは、やばいかもしれない。
 しかしそんなことをしている間に、手を引いているやつは焦れたのか、さらに強く引っ張ってきた。
「わ、わかった行くから」
 目の前の扉をドンドンドンッと叩く音がした。瞬時におれと池端は身をすくめる。扉の向こうに、何かいる……?
 というかまず、いつの間にこの扉は閉まっていたんだろう。土屋はたしか、閉めて来なかったはずだ。誰かが音も立てずにこっそり閉めて、そして今何者かがドンドン叩いている?
 怖と好奇心とがごちゃごちゃにまじった変な気持ちになる。しかし、このまま引っ張られたら、扉に衝突する。しがみついてくる池端を振り払って、おれはゆっくりと扉を開けてみた。
「……だれもいないぞ」
 ふと、一瞬目のはしに、黒い影が映った気がした。まさか、あれは。
「黒入道?」
「黒入道だと?」
 池端と二人、部室の外へ出る。廊下の窓は東側なのでもうだいぶ暗い。闇に沈んだ廊下の奥に、人影が動くのが見えるような気がする。それが先生でも用務員でもなくて、黒入道のように思えてしまうのはなぜだろう。
「おい……富里、見ろ」
 目の前に、おれの右手と池端の左手を掴んだ子供が立っていることに気付いて、おれはびくっと飛び退いた。おかっぱ頭に短い着物姿が、あまりに時代錯誤だ。しかしこの格好は……、
「かぶきり小僧か……?」
「おい、なんだ? その子供は」
 おれの問いに子供が頷くと同時に、いつの間にか扉の前まで来ていた土屋が尋ねた。
「どこから入り込んだ。もうこんな時間だぞ。お前たちも、その子供も、早く帰るんだ」
 かぶきり小僧は、この辺りの暗い夜道に出ると伝わっている子供の妖怪なので、「こんな時間」だからこそいるんだろうが、それを説明できる相手ではない。そういえばさっきは、部室の中が明るかったからこいつの姿が見えなかったんだろうか。おそらく土屋をコケさせたいたずら者も、こいつがその正体だろう。
「かぶきり小僧ということは、一緒に茶でもすれば良いんか」
「水飲め、茶飲め」と誘ってくるという言い伝えのかぶきり小僧に対して、冷静な判断の池端くんである。おれの肩にしがみついたままだが。ところがかぶきりは、池端の言葉には首を横に振った。さらに手を引いて廊下の奥へ導こうとする。
「そっちに行けばいいのか?」
「ちょっと待て! お前ら、まだわけのわからないことを言ってるな?」
 土屋の手が今度は池端の肩をつかまえた。
「どうしてお前たちは、先生にさからってばかりいるんだ。説明してもらおう」
 しかしおれたちに、それに答える余裕はなかった。
「……えーと、……さあ?」
「さあ、とはなんだ! それが先生に対して言う言葉か!」
「みゃあ……」
「みゃあとはなんだ、みゃあとは……」
 そのときようやく背後の気配に気づいた土屋は、振り返り、その格好のまま言葉の続きを失った。
「みゃあー」
 もちろん、「みゃあ」と言ったのはおれたちではない。もうさっきからすでに、おれと池端はその姿を捉えていた。二メートルほどもある巨体を丸め、おれたちの背後に四つん這いになっている。体中毛むくじゃらだけれど、何かヌメっとした感じと、やたらでかい目が不気味だ。
「こいつは……この辺りの者ではないんでなかったか」
 池端が見上げながら問う。
「いや、目撃情報が近くなんだからここらに現れてもいいんじゃん……当時おれ、噂に聞いて怖かったの覚えてるし。当時っていっても、二度目の出現の時だけどな」
「まあ、一度目の出現のとき、おれら生まれてないからな」
「……にしてもこれ、学校に出るようなもんか?」
 これは妖怪っていうより、都市伝説みたいなもんじゃないか。県内の大きな街のひとつで、七十年代と八十年代のある時期話題になった未確認生物。
 なんだかもう驚く気も失ってしまったおれに、土屋が体ごとぶつかるみたいに掴みかかってくる。
「な、なんだ、これは」
「「マツドドン」」
 池端とおれが同時に答えると、
「ふ、ふざけるな!」
 血管が切れそうな赤い顔で土屋が叫んだ。と、池端が何か思いついたように、また悪魔の微笑を浮かべた。
「先生、どうかしましたか?」
「ど、どうかじゃ、ない! お前たちは先生にさからって、変な、変なものを」
「変なものってなんですか? 何かあるんですか」
「……っ!」
 血の上ったすごい形相で、土屋は金魚のようにぱくぱくと口を開いて「マツドドン」を指差した。突然の池端の豹変が、信じられない、といったふうだ。
「え? なんですか? 何かそこにあるんですか」
 しかし池端は、平然としらを切ってみせる。おれは何か不安になってきて、池端をつついてささやいた。
「ちょ、ちょっと。やばくないか? なんか」
「大丈夫だ。見てろ」
 おれが土屋の立場だったら、これは精神崩壊しそうだ、と思ったのだ。池端は何に関して大丈夫だと言ったのだろう。が、ふと土屋の顔に視線を戻すと、顔色が普通に戻っている。
「先生?」
 すると、土屋はにっこりと笑ってみせた。
「……いや、悪い悪い。先生何かおかしなことを言ったかな? いやいや」
「いえ、別におかしなことなんて何もないですよ。少しぼうっとなさってたみたいでしたけど?」
 そう言って返す池端の視線の先、土屋の背後で、「マツドドン」が口を開けて「みゃあ」と鳴いている。
「そうかそうか、悪い悪い、何もおかしなことなんかないよなあ」
「みゃあー」
 その時かぶきりがおれたちの手をぐいっと引いて、何かを指差した。その先の廊下に、赤い風船のような灯りが宙に浮いてともっている。あれは、この辺の昔話にある、「火の玉提灯」ってことなんだろうか。
「ああ、行くの、か」
 かぶきり小僧に引かれて歩き出したおれたちを見て、土屋が後をついてくる。
「そう、そうだ。もう遅いからな。お前たちは、帰りなさい。先生も、途中まで見送ってやろう、な」
 おれは再び池端を小突いてささやく。
「な、なんだこりゃ? こいつ一体、頭ん中どうなったんだよ」
「こういう人間なんだよ。このパターンの奴は、おれは前にも経験があるからな。彼は彼自身の『死者の世界』での秩序内のことしか、理解しないし信じない。秩序が干渉されたり、変化したりするのは絶対許されない。
 今まさに、彼の秩序に干渉するものが入り込んできて、パンク寸前になっていたからな。おれはご親切にも、それらを無かったことにする手伝いをしたのだよ。ちょっと手伝ってやれば、あとは簡単に自分でマインドコントロールするわけだ」
 なんだそりゃ。と、おれは思う。そんな簡単に、目の前にあるものを無かったことにできるものなのか? でも、普段からの土屋の行動は、池端の解説に照らし合わせるとばっちり説明がつくようにも思えた。
 そういえばさっき、池端は言っていた。「無自覚で、孤独な『死者の世界』に生きる人間はけっこういる」と。
「おい、お前ら、あんまりおかしな話ばかりするんじゃないぞ。おかしな大人になってしまうからな」
 後ろを歩く土屋にそう声をかけられ、おれは複雑な気持ちになった。「おかしな大人」、なあ。
 今自分の身に起こっている「おかしな」事件に関しては、不思議とおれはもう、とても落ち着いてとらえていた。土屋がその真逆を行ってくれたお蔭かもしれないが。
 小さい頃から本や地史で読んだり、婆ちゃんから聞かされたりして親しんだ妖怪たちは、おれにとって初めて会う気がしなかった。
 池端はといえば、あれだけ冷静に対応しておきながら、実はまだ怖がっておれの肩をつかんだままでいる。よくわかんないやつだ。
 この廊下にいる妖怪は、いまやかぶきり小僧とマツドドンだけではなくなっていた。
 嬉しそうに「たまご、たまご!」と叫びながら駆けていく兵隊姿の男。
「あれって宿舎に現れるっていうやつじゃなかったけなー」
「まあ学校も似たようなものだろう」
 ロッカーの上から狐が、やたらとでかい口をパックンと開けて威嚇している。
「ロッカーの上って……土手の上じゃなくて?」
「まあその辺は臨機応変ということなんだろ?」
「なんかめっちゃくちゃじゃないか。いいの、こんなんで」
「おれが知ったことか」
 と、向こうから黒い影とともに、生ぬるい風が迫ってきて、俺たちの横をすり抜けていった。
「うわああ」
 池端がさらに強く肩にしがみついてくる。影が通り抜けていった先を振り返ると、牛が怯えて震えているのが見える。
「怯える牛もついてるのか! オプションみたいなもんか?」
「『牛も怯えるツンツン様』だな」
「ははは、なんだ池端、夜の学校が怖いのか。まだまだ子供だからなあ」
 時々入る、土屋の見当はずれなセルフマインドコントロールを適当に聞き流し、コの字型の廊下を曲がって、特別棟から教室棟に入っていく。火の玉提灯は、常におれたちの二メートルくらい先に浮いている。そして二年B組の教室の前でそれは止まった。池端のクラスだ。おれのクラスはその先、二年A組。
 火の玉提灯に追いついたおれたちのために、二年B組の扉を何者かが開けてくれる。
 そう、暗闇に紛れて姿がよく見えない、そいつは、真っ黒な、黒入道ではないか。しかもよく見るとおれの作ったハリボテの黒入道くんである。
「やあ、ごめんな、追い出しちゃって」
 おれが声をかけると、黒入道は静かに首を振った。ずいんぶん健気なやつだなあ。
「どうした、教室に何か用か。忘れ物か。待ってるから早く取ってきなさい」
 土屋の声が静かな廊下にやたらと響いた。
 おそるおそる、おれと池端は教室に入る。もう月灯りが差し込んでいる。逆光に照らされて、誰かが立っている。その人はそっと、こちらに近づいてきた。だんだん姿が明らかになる。スカート、女子の制服だ……でも、うちの制服はセーラー服じゃない。
「あれは、昔のうちの制服か?」
 池端がつぶやいてはっとした。そういえばうちの学校、七年前に制服が変わったのだった。じゃあ、あの女の子は……
「まさかお前の好きなお富さんじゃあるまいな?」
 彼女は顔が見える距離まで近づいてきた。そして、まるでおれが目に映らないかのように、横を通り過ぎた。
 

 姉ちゃんはいつも部活で遅く帰ってくるから、ケンタが寝る時間にはいないこともよくある。だけどその日、ケンタが夜中に目を覚ましたときにいなかったのは、ちょっとおかしいと思った。そのうえ、いなかったのは姉ちゃんだけではない。父ちゃんも、母ちゃんもいない。婆ちゃんだけが、居間に静かに座っていた。こんな時間に婆ちゃんが起きていることも珍しい。やっぱり、何かが変だとケンタは感じた。なにより、家の中が静か過ぎて、ケンタの家じゃないみたいだった。
「いぇー、寝られねえだん?」
「うん……みんなどこ行ったの?」
「ああ、あんでんねえ、あんでんねえさ」
 何でもない、と言われても、どこに行ったか話してくれないのに、安心できるわけない。
「明日父ちゃんと母ちゃんが、ちゃんと姉ちゃん連れて帰ってくっから、布団かぶって寝ちゃったい」
 婆ちゃんはそう言ってケンタの手を取ると、ケンタの寝床まで連れて行った。婆ちゃんがこんなにはっきりしないのなんて、初めてだ。
「父ちゃんと母ちゃんが、姉ちゃんを連れて帰ってくるの?」
「おいよお。明日はいい日ださあ」
 婆ちゃんの「明日はいい日ださあ」は強力だ。婆ちゃんがこう言ったときには、必ずそのとおりになるのだ。でも、今日はなぜか、その言葉を聞いても不安がケンタの側から離れていってくれない。
 ――姉ちゃん、迷子になっちゃったのか?
 父ちゃんと母ちゃんは今、姉ちゃんを探しているんだろうか。
布団の中で目を閉じる。すると、姉ちゃんの姿が浮かんできた。高校の教室で一人、月明かりに照らされている姉ちゃん。
 ――今そこにいるの? 姉ちゃん。
 ケンタの目がぱちりと開いた。大人に知らせなきゃいけない。姉ちゃんがいる場所は、あそこだ。居間に出て行くと、婆ちゃんの姿がなかった。婆ちゃんも、姉ちゃんを探しに行ったんだろうか。
 ケンタは心を決めた。自分が姉ちゃんを、迎えに行ってあげなければ。パジャマの上にお気に入りのジャンパーをはおる。玄関でいつものスニーカーを履く。ドアにかかっていた鍵とチェーンには、靴箱の上に乗ると手が届くことを、前から知っていた。
 しかしケンタは、外に出た瞬間、立ちすくんだ。こんな夜中に外出するのは初めてだった。
 夜、家の外は、オバケでいっぱいだ。
 婆ちゃんが話して聞かせてくれたヨウカイや、最近近所で出るって噂のユウレイや、絵本やアニメに出てきたやつ、ケンタの夢に出てきたやつも、夜道にはうようよいる。思わずケンタは目を瞑る。すると目蓋の裏に、高校にいる姉ちゃんの姿がまた浮かんできた。そうか、姉ちゃんはオバケがいるから家に帰ってこれないんだ。そう思うとよけいに、やっぱり迎えに行ってあげなければならない気持ちになった。
 ケンタはぎゅっと両方の拳を握り締めると、オバケたちの間をくぐって、夜道を駆け抜けていった。
 

 デジャヴュ。固まってしまった。
 月明かりに照らされた夜の教室に、一人の女の子。この光景に、おれはなぜかとても、覚えがある。でも、一体こんなものいつ見たっていうんだ。姉が高校生のとき、おれはまだ小さくて、あの日も結局おれは、校舎に入れなかったんじゃないか。
 姉は生まれつき心臓に病気を抱えていた。死んだときは今のおれと同じ、高校二年生。演劇部の部長をやっていて、忙しそうだけどいつも楽しそうだった記憶がある。十年は生きられないと言われていたけれど、それが十七年に延びて、でも、ある日それは尽きてしまった。部活の最中に倒れたのだという。
 その日おれは、夜中に起きてしまって、家に婆ちゃん以外誰もいないことにびっくりした。姉はそのとき手術の真っ最中だったのだろう。
 ところが何を勘違いしたか、おれは姉が高校にいると思い込んだ。あの時のおれの行動は、今じゃ自分でもナゾだ。おれは婆ちゃんがトイレに行っている隙に外へ出て行った。姉を迎えに行かなきゃならないと思ったのだ。
 結局婆ちゃんが一人でおれを探し出して連れ帰ってくれたらしいが、姉が大変なときにおれまで行方不明だなんて、あの時の婆ちゃんの心地を考えるとほんとにとんでもないことをするガキだったと思う。
 姉の葬式の日、大人たちがおれの脱走話に大笑いして、笑いながら、泣いていた光景を覚えている。
「おい、こりゃ、お富さんかな。そうじゃないか、富里?」
 はしゃいだ声で、池端が話しかけてくるが、おれは金縛りのように声が出せない。 
 ずっと、そうだったらいいって思っていた。今でも姉が学校にいて、女子たちに愛される存在でいてくれたらいいのにって。でもそう思うことは不謹慎なことでもあるのがわかっているから少し後ろめたかった。
 でも今、お富さんかもしれない彼女を目の前にして、おれは、わからなかった。あの人の顔をもう忘れてしまっているということを、今になって深く感じた。姉ちゃんが、お富さんかどうか、判断できない。
「富里……友香……」
 その声は土屋だった。部屋に一歩踏み入れた場所で、呆然と彼女を見つめていた。
「富里友香」は、おれの姉の名前だ。
 固まっていた指先が動いて、おれが彼女を呼ぼうとした、そのとき、
「いい、いい加減にしろおおお」
 突然の狂ったような叫び声に振り返る。土屋が血相を変えて、ドンと壁を殴りつけた。
「こんな悪ふざけを、お前らは、ふざけて、富里はしん、死んだ!」
「せ、先生?」
 池端がおそるおそる歩み寄った。その瞬間、この男は狂っていたとしか思えない。土屋の両手が、逃れる間もなく池端の首へ向かっていったのだ。
「死んだだろう!」
「池端!」
 池端が黒板に横から叩きつけられそうになる瞬間、おれはただ叫ぶことしかできなかった。


「ケンター、ケンタどこさ行ったー」
 婆ちゃんは堤防の上を歩きながら、ケンタを探していた。すると、父ちゃんと母ちゃんがちょうど向こうから歩いてくる。
「あら、お義母さん、どうしたんですか」
「トイレ行ってる間にケンタが出て行ってしまったださ、申し訳ねえよ」
 姉ちゃんを探していた父ちゃんと母ちゃんは、目を丸くした。
「そりゃあ大変だ、ユカだってまだ見つかってないのに」
 婆ちゃんは立ち止まり、足元に落ちていた石ころを手にする。
「ああ、そうだな。星を作ればケンタもユカも、気付くかもしれない」
「おいよお」
 婆ちゃんは思いっきり高く小石を放り投げた。ところが小石は弧を描く間もなく、へろへろと砂の上に落っこちる。
「何やってんだい母さん」
「あんだぇ、おかしいねえ」
 婆ちゃんはもう一度小石を投げてみる。しかし何度やっても同じように、石は石のまま、星にならずに砂の地面へと落ちる。三人の大人は途方にくれて、星たちを見つめた。
「やっぱり、ケンタがいないとダメかね……」
「そうですねえ、ケンタがいなきゃダメなのかしらねえ」
「ケンタ。お前が帰ってこないと、世界が変わってしまうよ」


 影のように黒い腕が、背後からかぶさるようにして土屋の両手を絡め取った。それは黒い蔦のような形に変化してくるくると土屋の腕に巻きつき、とうとう繭のように腕全体を覆ってしまった。
「黒入道!」
 池端はちょっと咳き込みながらも、無事のようだ。土屋はというと、いつの間にか気絶して倒れていた。おそらく恐怖で気を失ったんだろう。黒入道の腕がするすると元へ戻っていく。
「お前、助けてくれたのか」
「……黒入道くんは部室から追い出すべきでないとおれは思う」
 咳き込みながらも調子のいい池端に呆れていると、黒入道がおれの後ろを指差した。
 おれの視線は、黒い指から、その先の、彼女へと移った。
 おれに背を向けたまま壁に向かって、彼女は口を開いた。
「ケンタ。」
 ――「健太」、そう、言ったのか?
「なんだ? おい、お富さんがお前の名を呼んどるぞ」
 池端の間の抜けた声を聞き流しながら、おれの心臓はばくばくと鳴っていた。そうだ、この人は姉ちゃんだ。どうしよう、なんと言ったらいい? しかしそのとき、壁際で小さな影が動いた。
「姉ちゃん!」
 壁にぴったりとくっついて座っていたようだ。飛び出してきた子供は、姉に抱きついて、急に安心したように、泣いた。
「怖いのによくがまんしたね、迎えに来てくれたんでしょ。ありがとう」
 姉が子供に話しかけている。これは、この子供は、この光景は……
「一緒に帰ろ、ケンタ」
 子供は黙ってうんうんと頷いた。そして姉と手をつなぎ、二人は廊下へ消えた。
おれは、ただ、呆然とそれを見守っていた。


 名前を呼びつかれて、婆ちゃんは座り込んだ。足元に転がる石をしわしわの手で撫でてみる。この中のどれかが、星になってもいいはずなのに。
「おい母さん、大丈夫かい? 疲れたんなら家へ帰って休んだ方がいいよ」
 父ちゃんが心配して声をかけた。
 だが、婆ちゃんはそのとき、手にした小さな石ころを、夢中でじっと見つめていた。
「ああ、これ、こん感じだ」
「母さん?」
 ニッコリ微笑んで立ち上がった婆ちゃんの手の中に、一つの小石。
「家にもろっどお! ケンタとユカが待ってるよー」
 婆ちゃんは、海岸で探していた母ちゃんにも聞こえるように、大きな声で叫んだ。
「何、ほんとかそりゃ」
「ほんとですかあ、お義母さん!」
「まちげえねえ」
 そう言うと婆ちゃんは、手の中の石ころを、夜空高く放り投げた。


 通学路の途中の長い堤防の上で、おれは小石を拾い、水平線にのっかって横に引き伸びた夕日へ投げてみる。小さな砂浜なので波打ち際までとどいて、ポチャンと音を立てる。
 おれが小さい頃婆ちゃんはよくここで、小石を投げるふりをしてどこかへ隠してしまい、そのまま空を指差して、「ほら、あの星が今投げた石ださあ」、とかいう冗談をやってくれた。そういうのがやけに上手な人だった。
 小さい頃はすっかりだまされて感心していたものだっけ。なにしろ、婆ちゃんの言うことは、明日の天気にしろ仲直りの仕方にしろ、絶対間違いがなかったから、疑うことを知らなかった。中三の頃に逝ってしまったから、もう二年経つのか。

 さて、あの夜の後始末について、何から話したらいいだろう。
 姉と「ケンタ」が手をつないで帰っていったあとを追って廊下に出ると、そこにはもう、二人の姿はなかった。
 そのうえ廊下にも教室にも、それまでいた全ての妖怪やら未確認生物は姿を消していた。唯一黒入道だけは元のただのハリボテに戻って、二年B組の教室に転がっていた。そんな中でおれと池端は、気絶した土屋のために保健室の先生を呼んできたり、黒入道を部室に運んだり、文字通り後始末をして帰路についたのだった。黒入道はこれで部室に舞い戻ることになったので、健気なようで彼はなかなか策士なのかもしれない。
「おい、富里」
 月夜の道で、池端が口を開いた。
「おれはどっから説明してもらえばいいんだ」
「なんか色々おかしいぞ質問……」
 そうはいっても、おれに説明できることは、「富里友香」はおれの亡くなった姉の名前だということだけなのだ。おれたちの目の前に現れたものが何だったのかは、おれ自身も想像するしかない。だけど、あの「ケンタ」、おれと同じ名前で呼ばれたあの子供の姿に、おれは姉の死んだあの夜のことを思い浮かべる。
 あの夜、おれはもう閉まってしまった高校の門の前で、座り込んでいるうちに眠ってしまった。婆ちゃんが眠っているおれを見つけておぶって帰ってくれたらしい。
 それなのに、なぜか教室で二人が出会う光景に、おれは既視感を覚えていた。
 幼いおれは高校の教室にいて、オバケが怖くて震えているところを、姉ちゃんが見つけてくれる。そして「一緒に帰ろう」と言ってくれるのだ。校門の前でうずくまり見ていた夢が、そんな夢だったのかもしれない。
 そう話すと、池端は黙って目を細めていた。

 もうひとつ、土屋に関しての話がある。あのとき明らかに様子がおかしかったので、母に確かめたのだ。
 おれの予想通り、土屋は姉が亡くなった当時の担任だった。そして姉の死の後自ら謝罪にきたという。演劇部が遅くまで活動するのを許してしまった自分の責任だといって、「腹を切って詫びたい」とホントに言ったそうだ。彼はそのころから、そういう人間なんだろう。
 下校時刻の鬼となったのも、そのときのことが原因なんだろうが、そんなものはほとんどジンクスに近い馬鹿げた話だと、おれは思ってしまう。土屋の気持ちは痛々しいし、わからないではないが、腹を切られたところで解決するのは土屋の世界の問題だけなのだ。でも、彼にとってはそれで良しとされる。
 数日後、職員室前の廊下ですれ違ったとき、彼はおれに満面の笑みで、「今日も早めに帰るんだぞ」と言った。池端の言う、「死者の世界」という言葉が初めてわかった気がした。

「とおっ」
 掛け声が聞こえて、小石が飛んでいき、波に落ちた。見ると、いつのまにか池端が隣に立っていた。
「お前はほんっと、いつのまにかいるやつだな」
「まあ、小説の構想に行き詰ってな。息抜きだ」
「フーン」
 おれはまた石を投げる。ポチャンと音を立てる。ふと、あれからずっと気になっていたことが、口をついて出た。
「なあ、あれは、おれの『死者の世界』だったのかな」
「ああ?」
 池端が石を放り投げながら、間抜けな声を返してくる。ポチャンという音とともに波間に落ちる小石。
「そうだな、あれは富里の少女漫画かもな」
「おれ自身が、ああいう永遠を望んでいたのは、確かだと思うんだ。姉ちゃんがお富さんだったらいいって実際思ってたし」
 おれもやっぱり、「死者の世界」を求めている。おれにも、土屋のような面があるのかもしれない。
「富里。『死者の世界』に憧れるのと、実際に『死者の世界』に居るのとは、全く違うぞ」
 おれが投げた小石がポチャンというのと同時に、池端がおれを見つめて言った。
「生きている奴しか、死に憧れることはできないんだからな」
 そうか。それもそうだ。
「それに、あれは現在のお前のものではないかもしれんからな」
「あ? なんだそりゃ」
 池端は急に、恨みがましい目になってにらんできた。
「だってなんでお前なんぞの妄想が、現実にまで影響してくるっていうんだ。だったらおれの妄想を実現してくれたっていいものを」
 池端が投げる。小石がポチャンと音を立てる。
「なんか、おれがエライんじゃないか?」
「なわけなかろう。お前じゃなくて、『ケンタ』だったらわからんがな」
 ポチャン。ポチャン。……え? おれじゃなくて、「ケンタ」?
「あの、教室で膝を抱えていた子供だよ」
「あれは、昔のおれじゃん?」
「昔のお前は、お前から離れて、死者として永遠を手に入れたのかもしれんぞ。現在ここにいるお前が生き続けることを代償に」
 それは、おれが、姉を永遠にしたかったからだろうか。永遠はおれたちの手を離れたところで、こっそり実現しているのだろうか。
「そうだなあ、もしかしたら一瞬一瞬、おれやら、お前やらが『コレが世界』って認識するごとに、それぞれ別々の『世界』が生まれて、おれたちの与り知らぬ場所、次元の違うどこかで、人間の認識の数だけの『世界』が今も続いているのかもしれない」
 池端がまた複雑なことを言い出す。
「それが、パラレル・ワールドという発想ではなかろうか?」
「フーン」
 おれが小さい頃見ていた、不思議なことがたくさんある世界は、今でもどこかで引き続き、不思議な夢を幼いおれに見せ続けているのだろうか。
 大きく振りかぶって、池端が小石を放り投げた。ポチャンという音。
「……て感じの小説を書こうと思ってんだがな」
 ガクッとよろけるおれをよそに、池端は次の石を物色している。おれもしょうがないので、投げる石を手にする。
 おれと池端は、夕日が沈んだ青紫色の空に、二人同時に、高くその石を放り投げた。ポチャンという水音は波にかき消されたのか、よく聞こえなかった。
 帰ろうと背を向けたおれの後ろで、池端が言った。
「あ、一番星……と、二番星、だ」




輔仁(大学でやってる文芸賞)落ちたのでここに載せられることになりました(笑)。今読み返すととても下手くそだ。
でもやりたいことはやり切っているかも。もうちょっと文章が上手ければなあ。

読んでる人が登場人物に感情移入して、読んでてつらくて胃がキリキリしてくるようなものが書きたかったんだけど、選評では「深刻にならずに書いている」って言われてた。
深刻さが足りなかったかなあ。



『かたっぽの宇宙』



徹巳(てつみ)が、たしか三歳くらいの頃だった。
――どこまで行ったらおうちに帰れないの、と父に聞いたことがあった。テレビか何かで「もうあの場所には帰れない」とか、そういう台詞を聞いたのかもしれない。どこかすごく遠い場所に行ってしまったら、家に帰れなくなるんだろうかと、それは不安でもあったけれど、少しの憧れもまじった空想だった。
あの時お父さんは、なんて言っていただろう。


 
だんだんと、星が明るい季節になってきた。十二月五日、水曜日。自転車を漕ぐコートの隙間に風が冷たい。紗央里は小さく「ピエ・イエス」を口ずさむ。クリスマスコンサートで歌う曲の一つだ。澄んだメロディは、捉えようとして捉えられないままの気持ちを抱え、焦る自分をなだめていくようだ。
お父さんは霧の中に消えた。
 紗央里の中でのイメージでは、そんな風だった。何でもないことのように、ふいに居なくなってしまったから、「今まで居た人が居なくなること」を実感できないままだ。とても大きなことのはずなのに、よくわからないまま過ぎてしまう。このまま過ぎてしまうのだろうか。
 自転車に乗ったまま車庫につっこんだ。魚の焼けるにおいが家の中から漂ってくる。
――徹、もう夕飯できたのかな。
兼業主夫をしていた父のかわりに、弟の徹巳が家事をやっている。それなのに姉の自分が部活でこんな時間に帰ってくることが、紗央里のちょっとした罪悪感だった。紗央里が今の学校を受験したのは聖歌隊に憧れたからだということを、家族みんなが知っていたし、母も徹巳も、紗央里を責めたりしない。けれど、自分だけが家族のために何もしていない今の状況はじれったい。「部活が忙しいから」という言葉を浮かべるたびに自分を言い訳がましく思ってしまう。
 
炊飯ジャーの蓋を開けてちらりと振り返ると、エプロンを冗談みたいに付けた徹巳が自分の茶碗を持って「早く」と目で訴えてきた。
「お腹すいたあ。紗央里、早くどけ」
「はーいはい。……徹また大盛り食いすんの?」
「俺が炊いたんだもん。文句言うなよ」
「デブになるぞ、デブに」
その言葉に徹巳はデコピンで応酬しようとして、一瞬掴みあいになり、すぐ笑って手をはなした。デコピンは最近テレビの罰ゲームで見てから徹巳のお気に入りらしい。
二人だけの食卓は、もうお互い慣れてしまって、ずっと前からこうだったような気がしている。双子のように育ってきたからもともと仲が良いのもあるかもしれない。というのも二人は、実際は年子なのだが、誕生日の関係で同学年になってしまっている姉弟なのである。
――でも、ここにいつも三人いたのは、そんなに前のことではないんだ。
そう思って紗央里は少し、自分にぞっとする。お父さんがいなくなって崩壊した家族のバランス。それが、簡単に修正が効くものだったとしたら、そんなに残酷なことはないのだ。ときどきそのことは紗央里の心臓を持ち上げて、苦しくさせる。
「紗央里さ、トマトジャムとトマトピューレどっちがいいと思う」
 鯵の開きをつつきながら、徹巳が突然聞いてきた。
「え? 何」
「トマト、お母さん注文してたのに、スーパーで買っちゃったんだってさ。余るじゃん」
「……徹ってさ、もしかして料理好き?」
いぶかしそうな紗央里に、徹巳は
「うーん、まあ……。紗央里とちがって料理のセンスがあるからね」
 とニヤリと笑ってみせた。
「……どうせ、せいぜい炒飯とカレーですよう」
 この食卓が明るいことは、ひとつの救いであるから、二人は崩さないように、バランスを取るのがだんだん上手くなっている。それは、過去を考えると残酷なことでも、未来を考えればきっと、その方が良いことなのだ。
今の紗央里にとっては、過去よりも未来の方が大事だった。感情が振り返ろうとするお父さんの姿は、見ないふりをしてやり過ごしてしまったとしても、それはそんなにいけないことだろうか。

 お母さんは十一時過ぎに帰ってきて、かなり酔っていた。こんなに正体なくすほど飲むなんて珍しい。紗央里がとりとめのない話を適当に受け流しながら、水を汲んで手渡そうとした、そのとき、手の中のコップから水がこぼれかけた。
お母さんの目に、涙が溜まっている。
「……ごめん」
「……ぷっ、何が……酔っぱらいだなあ」
 つい笑ってしまったけれど、おかしかったからじゃない。親に謝られるのって、怖い。泣かれるのも。親も一人の人間なのだと、もうけっこう前から、理解してはいるはずなのに。母の喉から泣き声がもれた。
「だって……、お父さん、ねえ、私のせいで出てった、から、ごめんねえ」
やっぱりそこへきたか。冷静でない言葉だとは思うけれど、どこか本音なんだと思う。しゃくりあげる声が、静かなリビングでは響いてしまう。紗央里は逃げ道を探す。
「別にお母さんのせいじゃないんじゃん?」
わざと軽い口調になってる。
「お母さんの、せいだよお……。もっと普通の、家事とかちゃんと、しないと、ね。私、家事なんにも、やってなくって、迷惑かけちゃって、ごめんねえ。徹巳にも紗央里にも、ほんと、ごめん……トマトも買い間違えちゃって、ごめんなさい……」
泣き方もオーバーになってきてるし、支離滅裂だ。……わかってる。弱って見せたいんだ。
「トマト関係ないじゃん。お母さんは働いてるんだし……」
「だってトマト、余っちゃうじゃない? お母さんのせいよお。ごめん……ごめん……」
 なんとか水を飲ませて、しばらくすると落ち着いてきた。最後のコップに残った水を飲み干すと、お母さんはいきなり「寝るわ」と言って立ち上がり、寝室へ入っていった。
明日の朝は起こしてやらなきゃならないかも、と、紗央里は一つ、息をついた。

 東側に面した徹巳の部屋のベランダからは、ちょうどふたご座が正面に見える。天体望遠鏡の先に見つめているのは、双子の片割れのカストル。望遠鏡で見ると、星が二重に見える。本当は、カストルは六重連星なのだけど、肉眼だと一つ、家庭用の天体望遠鏡なら二つ見分けるのが限界だ。
……徹巳は想像する。片割れのポルックスにとっては、双子だと思っていた相手が実は六人いたという状況である。ポルックスが近づいてみると、後ろから次々と連なって出てくる、六人のカストル達……。
笑みを押さえられずに望遠鏡から目線をはずすと、ふいに気配を感じて振り向いた。部屋のドアのところに紗央里がぽかんとして立っていた。
「な、んだよ……! 黙って見てんなバカ」
「いや、徹が宇宙に行っちゃってたから、声かけたら悪いじゃん」
「なんだそれ」
 見られたことと、照れ隠しに大声を出したことが、両方恥ずかしくて、徹巳はぼそぼそと呟いた。
「お母さん帰ってきたよ。ご飯食べてきたって」
「あ、そう」
わざとぶっきらぼうに応えている。自分で照れ隠しだとわかっているから余計に恥ずかしい。
「あとさ。土曜、やっぱり、〝家族会議〟やるってさ」
 寝に行く直前に、母は紗央里にそう告げていった。こういう、妙にしっかりしているところがあるから、お母さんは仕事ができるのだろうか。……といっても人からそう聞いているだけだけれど。
「あ、そう」
今の応えは、照れ隠しではない。徹巳はそれしか、応えようがなかった。
母は今までに、何度か父との話し合いを設けてきたらしいが、その場に二人が呼ばれるのはこれが始めてだ。二人とも、薄々わかっている。お母さんはきっともう、決着をつけたがっている。
「オリオン座?」
「ちがう」
「何見てんの?」
「……さあ」
「なんだよ。拗ーねちゃった」
 うるさいと言って紗央里を追い払ってから、望遠鏡を片付けた。土曜日のことを考えると頭の中がいっぱいでどうしようもなくなってしまう。考えずに過ごすにはどうしたらいいんだろうか。
 ノートを開いた。日記ともいえないような、走り書きがたくさん書いてある。頭の中を言葉にしようと思ったけれど、何も浮かばない。

 カストル

 少し考えて、シャーペンの芯を出したり縮めたりしてから、

 カストル  ポルックスは驚いただろう

 ふと、紗央里のことが思い浮かんだ。双子だと思っていたのに、双子じゃなかっただなんて、まるで紗央里みたいな変なやつだ。
そう、小さい頃は、同じ学年にいる紗央里とは双子の姉弟だと思っていた。紗央里も同じように思っていたらしい。
実際、小さい頃の二人は似ている。もちろんほぼ一年分の成長の差があるのだが、今になって写真で見ると、一人ずつ写っているものでは見分けが付かないくらいだ。
昔の自分の写真を見て自分なのかわからないのは、妙な感覚だ。小さい頃の自分の姿なんてそんなに覚えていないし、時々知らない子供の写真を見ているような気もしてくる。ふと、この子供はどこへ行ってしまったんだろう、なんて妙な気持ちが浮かんできて、我に返ったりする。
もしかしたら、「おうちに帰れないほど遠いところ」へ行ってしまったのだろうか。あの、双子の子供たち。
お父さんがもう帰ってこなくなったのも、そんな場所へ行ってしまったからなのか。
そんな思いは、言葉には上手くまとまらないまま、徹巳はノートを閉じた。



「高校のサッカー部では、中学から続けてきた徹巳は有利だよ」
ああ、これは、高校入学の頃の父の口癖だ。中学では徹はレギュラーと補欠の間を行ったり来たりする状態だったから……。
お父さんはソファの前の床に座って、寄り掛かるような格好で上機嫌で酔っている。ダイニングテーブルの端の方に立って、それを見つめている。
「お父さんは運動音痴のガリ勉だったけど、徹巳は運動ができるよね」
このセリフは、酔ったときの口癖だったか。確かに徹は他の男の子たちに劣らない程度には運動もできた。……でもきっと徹は、星の方が好きみたいだけど……。
いつのまにか紗央里は、望遠鏡を買ってもらった日へと移る。「二人に」と買ってもらったが、紗央里は最初のうちだけはしゃいで、結局自分では使い方も覚えないうちに飽きてしまった。でも徹巳はその後もずっと、暇さえあれば望遠鏡を覗いていた。小学校で星博士と呼ばれて嬉しそうにしていたこともあった。いつの間にか望遠鏡は徹巳一人の持ち物になっていた。
――徹は、お父さんのことが、あまり好きじゃないのかもしれない。
紗央里から見ても、お父さんは徹巳の気持ちを理解していない。徹巳は、もしかして、自分を責めたりしているだろうか。紗央里が抱いているのに似た苦さを持っているかも。
いつのまにか、「お父さんを含む家族」が修復することを、考えなくなっていた。無理だと決めてしまったんだろうか。お父さんが帰ってこないつもりだということがわかってからも、しばらくは、きっと帰ってくるに違いない、そうなるようにしなきゃいけないって思い込んでいたはずなのに。ここ数週間の紗央里は、「お父さんの居ない家族」の形態が安定して、壊れないように、という思いだった。
どうしてそんなに簡単に切り捨てられたんだ。感情が歪んで崩れていく像がちらちらと紗央里の目蓋の裏を責める。――お父さんだって勝手だったんだ。……でも、私や徹の、隠していた気持ちが、もしかしたら、お父さんを霧の中に、追いやったんじゃないだろうか。

考えているうちに居眠りしてしまっていたらしい。夢と思考が半々に混じっていたような夢。
「田尾さん……!」
小突かれて目覚めると、前の席の村野さんがプリントを差し出して「どんまい」という感じに笑っていた。
小さくなるような思いで照れ笑いを浮かべ、プリントを回す。十二月六日、木曜日。この六限目が終われば部活の時間で、今日もまた「ピエ・イエス」が歌えることが紗央里はうれしかった。
聖歌隊をやめられない理由はありすぎるほどあったが、本当に一番の理由はこれなのかもしれない。「ピエ・イエス」が自分を支えている。つらいとか、悲しい気持ちに苛まれているなんていう深刻さはないけれど、これがなくなってしまったら、心が折れそうな予感がする。

フォーレ作曲『ピエ・イエス』。「レクイエム」の中の一曲。レクイエムは、つまり葬儀ミサ。死者を送る儀式・レクイエムには規定のテクストがある。しかしフォーレは、規定の曲のひとつ、死の恐怖を表現する「怒りの日――ディエス・イレ」を削除して代わりに典礼文からこの「慈悲深き主イエスよ――ピエ・イエス」を挿入した。
Pie Jesu, Domine, dona eis requiem.
 慈悲深き主イエスよ、彼らに安息を与え給え。
Dona eis requiem, sempiternam requiem.
 彼らに安息を、永遠の安息を与え給え。

 シスターからこの歌詞と解説が配られて、三年の部長が読み上げた。その後で、シスターが穏やかに付け加える。
「フォーレはこのレクイエムの完成前に相次いで両親を亡くしているんです。このピエ・イエスに込められているフォーレの気持ちを考えながら歌ってみてください」
 ひどく個人的だ、と紗央里は思った。神サマを讃える、荘厳な「聖歌」というよりも、もっと切実な、まるで感情の吐露だ。自分の大切な人が死後の世界で苦しみなく、永遠の安息の中にいてほしい、だなんて。
なんだか、妙に不安で、嫌な気持ちだった。親が一人の人間だと実感するのと似ているかもしれない。フォーレが一人の人間だと実感するのは、ちょっとそわそわして、落ち着かない。
その日の練習は、周りのみんなの声がうまく聴こえない気がして、声がちゃんと出せなかった。
後悔で頭を曇らせて、帰り道、自転車の轍に、この胸でゆらゆらする気持ち悪さを少しずつ、引きずり残して走る。暗い住宅街に人影はない。今日出なかった、高いファの部分を小さく歌ってみる。
――なんだ、普通に音、届くじゃん……。
遠くに明るく光る、あの赤い星は、火星だろうか。

徹巳の部屋のドアは今日も開けっ放しで、電気は消えている。見ると、案の定ベランダで望遠鏡を覗いていた。
サッカー部に入っていた頃は忙しくて星を見ることも少なくなっていたけれど、お父さんが帰ってこなくなって家事のためにサッカーをやめてからは、毎日のように望遠鏡を覗いているみたいだ。夢中でレンズを調整していた徹巳は、突然ふっと振り返った。
「なんでいっつも黙って見てんだよ……」
「いや……なんとなく」
「なんか用?」
 別に今日は言うことがあったわけじゃない。何か、言ってしまいたい気持ちがあるようにも思うけれど、何が言いたいのか紗央里は自分でもよくわからない。
「……あのさ紗央里……」
迷っていたら、徹巳の方から話しかけてきた。
「何?」
「いや……。あー、紗央里は宇宙って行ってみたい?」
「宇宙? えー、どうだろう……宇宙人がいるんだったら、会ってみたいかも。火星人って、結局いないんだっけ」
 もちろん現在火星に火星人がいるか、という話ではなく、生命体の存在が証明されたかどうかについてのことだ。
「まだ未解決。生命体は存在したかもしれないし、しなかったとも言える」
「ふーん。……あ、でも、ロックは宇宙にいるんだよね?」
徹巳が大きく振り返る。
「ロックが? なんで」
それは、昔家で飼っていた犬の名前である。つらい病気をして四年前に死んでしまったけれど、名前に似合わずおとなしくて優しい、臆病な犬で、家族のアイドルだった。
「あの子いつも夜空を眺めてたから、もともと星から来たんじゃないかって……コレ徹が言ったんだよ」
「そんなこと言った?」
「ばっちり覚えてる」
 徹巳は考えてみるけれど、思い出せない。たしかに紗央里よりは、自分が言い出しそうなことではある。
 ――でもきっと、いるのは火星じゃないよな。
 軍神マルスだなんて、全然ロックのイメージじゃない。まあ、実際は、火星は生物が住むには好環境の星なんだけれど。
「……で、紗央里何か用?」
「あ、いや別に見てただけです」
 紗央里が行ったあと、徹巳は急いでもう一度、望遠鏡を調整しなおした。そうだ、今は火星人どころではないのだ。慎重に、ひとつひとつ、間違いがないか確認した。覗き込んでみる。
 ――やっぱり……ない!
 さっき実は、紗央里に言おうとして、とっさに別の話題にすり変えた。
 ――うそだろー? ポルックスがない……。
肉眼で見ても、確かにないのだ。雲や大気の状態で星が隠れてしまうことはあるけれど、周りの星々がくっきり見えているのに、一つだけ抜け落ちたようにないだなんて、ありえるんだろうか。
――これはもしや、すごい発見なんじゃないか。
……いや。
徹巳は思い直した。きっと何かそういう現象があるんだろう、たぶん。こんなことは大したことではないんだ。
心の中の大半はその意見に同調しているけれど、何か、どうしてもそわそわしてしまっている。小さい頃から徹巳は、不思議なことに遭遇したかった。何でもないんだろう、ということを前提としておいていい。空想は自由だと思う。――ポルックスはどこへ行ったんだろう?
徹巳のノート。

ポルックスが家出した。どこか遠くへ? どんな気持ちで?

そう書いたあと、徹巳は、空想が自由を失ったのを感じた。



「聖書」の時間はいつも退屈だが、今日はとくに何も頭に入りそうになかった。
 十二月七日、金曜日。明日になれば、当たり前だが、土曜日がやってくる。お父さんが仕事場にこもるようになった頃から、久しぶりの再会だった。
 母と同じように、紗央里は、結論を望んでいる自分に気付いていた。もう、希望の少ない未来に期待して待つのは疲れた。平和な日常に戻りたい。
だけど明日、父と再会しても、そう思えるだろうか。また小さな希望にすがりたくなるのが怖い。現実的にどんなに考えてみても、新しい家族を再建する方が、お互いを泥沼にはまらせずに前へ進む方法なんだ。
――皆、これを取って食べなさい。これはあなたがたのために渡されるわたしのからだである。
――皆、これを受けて飲みなさい。これはわたしの血の杯、あなたがたと多くの人のために流されて罪のゆるしとなる新しい永遠の契約の血である。
シスターが抑揚なく、ミサ奉献文とかいうものを読んでいる。机に前のめりになっていると眠くなってきて、ノートの端に丸やら星マークやらをいくつも書いてみる。今、なんて言っていた? 「新しい永遠の」……? キリストサマは復活して、永遠をくれたのだろうか。ピエ・イエスは、「永遠の安息」をしきりに求めている。
「新しい永遠の安息」、それはこの世にはないものだということは、紗央里はなんとなくわかった。家族は永遠ではなく、「新しい家族」にしても、それは同じなんだ。それでも紗央里は永遠ではない家族を、新しい姿でも、復活させたいと願っている。
放課後の音楽室に来て、足を肩幅に開き、お腹に両手をあてたそのときも、紗央里の頭の中では解けない矛盾が、薄い灰色の雲になって覆っていた。
教室の後ろの段になっているところに、みんなでずらりと並んで歌うのは、練習始めの恒例だ。ピアノの音、発声練習の声、少しずつ雲が途切れて、光がさすように入り込んできた。高音がきれいに、紗央里のお腹の奥から出ていく感覚。ほどよく心地いい、腹筋の疲れを感じる。

 ピエ・イエス、ドミネ、ダナ、エイス、レクイエム
 ――安息を、永遠の安息を与えたまえ。

 周りの声に耳を澄ませ、自分の声がぴたりあてはまるように、そこに重ねていく。今日は声が出したいように出る。気持ちがいい。もっと、もっと、お腹の底から。
 ふいに、目の前がぐらりと傾いた。
足がもつれて、紗央里はその場で尻餅をついていた。
「大丈夫?!」
「紗央里どうしたの」
「保健室いく?」
ざわめいて友達が駆け寄る姿が、なぜか外の世界の出来事のように見える。声を合わせて歌うことは、この聖歌隊のみんなにとって、信頼をたしかにしていくことだったはずだ。本当に、どうしたんだろう。すごく気持ちが良かったのに。酔ったんだろうか?
「たぶん……ちょっと休んでれば平気」
 椅子に座って、練習を再開するみんなを見ながら、大きく息をついてみた。
あんなに気持ちよく歌っているように感じていたのに、今になって、記憶の中のさっきまで歌っていた自分は、なんだか必死で痛々しいものに見えている。怖いから、必死で歌ってたんだろうか。どんなに歌っても、不安と恐怖は忘れられない?
窓の外には、夕焼け空が広がっている。
――一番星見えるかな。
不安に震え、怖れながら、それでも自分は永遠の安息を求めて歌うんだろう。フォーレもそうだったんだろうか。
本当は、一番怖いことは、お父さんを目の前にして、気持ちが全然揺れないことだ。

 目の前に走る細い十字路を横切っていた人影に、徹巳は、立ち止まった。学校から帰る道のりの、半分くらい来た場所だ。なんだっけ、今の子供。なんだかとても覚えがある気がする。
 はっとした。
あれは、あの顔は、小さい頃の自分の姿と、そして紗央里に似ていたんじゃないか。あのどこかへ行ってしまった双子に……
 気付いて、徹巳は思わず子供が駆けていった路地を覗き込んだ。もうその姿は見えない。その先の角を曲がって行ったのかもしれない。――それか、戻れないほど遠い場所へ、また帰っていったのか。
 徹巳は空想する。あれは、もしかしたら家出したポルックスかもしれない。そんな風に考えてみるんだ……。――ポルックス、君はこんなところで何してるんだ?
 その問いを投げかけたい相手が、ポルックスではないことに徹巳は気付く。
明日は、問わなくてはいけないんだろうか。自分の放った言葉がお父さんの心をどんな形にしてしまったのか、確かめなくてはならない? それは、考えるほどに怖くてたまらない。
 ――ポルックス、君は元の場所に、きっと帰るんだろう?
家の門まで来たところで、電話のベルの音に気付いた。家の中から聞こえている。一瞬、走って取りに行こうかと思ったけれど、家電に急ぎの連絡が来ることは希なので、そんなに焦らずに徹巳は玄関の鍵を開けた。
 電話はまだ鳴っていた。やはり少し急いで靴を脱ぎ捨てると、廊下の角に据えられた棚へ走りより、受話器を取った。
「はい、田尾です」
「……徹巳か?」
 ――息が止まりそうになった。
「お父さん?」
「ああ……。今、大丈夫? 少し話す時間、あるか?」
「……うん、あるよ」
「そうか……うん。お父さんなあ、明日、急に用事が入って、行けなくなった」
 徹巳は黙ってしまった。肩透かし。こういうことを言うのか、と妙に納得している。そうか、お父さんは怖いんだ。怖くて逃げるんだ。……でも、怖いのはお父さんだけじゃない。自分もとても怖かったし、紗央里だって、お母さんだってきっと、明日が怖かっただろう。でも、がんばろうとしていたのだ。
「徹巳? 聞いてるか? すまんなあ」
「……」
「すまんなあ……。なあ、徹巳、あのな、前に徹巳と会ったときのことでな、お父さんいろいろ考えたんだ」
 徹巳の心臓が、一度だけ大きくはねる。あの時、きっと自分は、ずっと心の中で抑えて育ててしまった小さなナイフを、お父さんにふりかざした。徹巳の反応がないのを、気にしているのかいないのか、そのまま父は続けた。
「あのな、お父さん、少し前からずっと、思ってたんだ。俺は〝お父さん〟なんて人間じゃない。〝版画家・田尾晴邦〟なんだ、って。わかるかな。家で主婦みたいなことをやってて、外で働いてるお母さんはいろんな人に尊敬されてるし、とてもそれがつらかったんだ。
 でも、な。徹巳だって、〝お父さんの息子〟である以前に、〝徹巳〟っていう人間なんだもんな。お父さんそれずっと、忘れてたかもしれないなあって。お前が俺の人生を、生き直してくれるみたいに、思ってたかもしれない。このあいだのお前の言葉を聞いてそう気付いて、なあ……すまんかったと思う、本当に」
 徹巳は耐え切れず、がちゃっと音を立てて受話器を置いた。手が震えていた。もう、お父さんは帰ってこない。それがわかってしまったから。お父さんはもう、息子としての自分を、家族を、求めていないのが、よくわかったから。
 徹巳の隠したナイフが傷つけたのは、お父さん自身じゃなく、お父さんと徹巳の、重なり繋がっている部分だ。徹巳がそこに亀裂を入れ、今父が引き裂いて、完全に二つに分かれた。

 お母さんは怒り狂った。お父さんは卑怯だと言い、ずるいと言い、勝手だと言って、ひとしきり怒りを撒き散らしてしまうと、顔を覆って座り込んだ。泣いているみたいな、頭のつむじしか見えない格好は、さっき同じことを話したときの紗央里の姿と全く同じだ。それでも徹巳はさっきと同じようにその姿に動揺して、何も言えずにまごついてしまう。 徹巳には絶対にできないまっすぐな感情表現を、同じ家族である二人がどうしてできるのか、不思議だ。
「もう……どうすんのよ。もうやだ。めんどくさくなってきた」
「お母さん泣いてる?」
紗央里が聞く。
「泣いてない」
 頭を上げたその表情には、たしかに感傷はない。目は少し赤いけれど。
「お父さんは、怖がってるのよ。お母さんのこと。叱られる子供みたいに、怖がってるのよ。お父さんのお母さんになった覚えなんてないのに。……馬鹿みたいよ」
 ずんぐりした背中を丸めて叱られた子供のように母の話を聞く父の姿は、容易に思い浮かぶ。お互い対等に話したいと思っているのにそれができないのは、どちらが悪いのでもないし、どちらも悪いともいえた。
「ごめん。お母さんうまくやれなかったんだと思う。早く決着つけて、落ち着けるようになんとかするから」
「別れるってこと?」
……言った徹巳自身が、はっとしていた。言葉が勝手に出てきてしまった。
母が、目をふせる。二人が黙ってそれを見つめる。
「……ごめん。お母さんどうにもできなくて……」
「お母さんのせいじゃないよ」
 徹巳は慌てて声を上げる。隣で紗央里が息を飲む気配がわかる。
徹巳は思う。あの日のことを、ずっと言えなかったのは、どうしてだろう。後ろめたかった。二人が自分を責めるわけないのに、責められる気がして怖かった。自分もお父さんと同じなんだろうか?
「……おれのせいだよ」
 徹巳の意外な言葉に、母も紗央里も反応できずに黙った。続きを求める二人の眼差しが徹巳に集まる。
「本当は、一度だけ、お父さんに会ったんだ。お父さん帰ってこなくなった後に、一度」

それは、仕事場にこもると言って父が家を離れてから、三週間経とうとしていたときだった。最初は一週間くらいと言っていたのにも関わらずだ。連絡は母の方からしないと何も言ってこないし、電話にもあまり出ない。出ても、適当にごまかして流してしまうらしい。明らかに、父の行動が普通のものじゃなくなっていた。
 徹巳はその日、父の仕事場のすぐ近くまで、行ったのだ。
何か言おうと思ったわけじゃないしどうするつもりかも決めていなかった。ただ、何かしないと気が済まなかったから。結局アトリエの入っているビルの前まで来て、ただ立ち尽くした。
急に、お父さんに会ってしまったらどうしようという気持ちになってきて、急いで帰ろうとしたとき、数メートル先のコンビニから、ビニール袋を提げた森の熊さんみたいなひげ面の男が出てきた。一目でわかった。父だ。顔を上げ、徹巳の姿を見とめた。
 そのとき父は、目を見開くと、ぎこちなく徹巳に近づいてきて、「どうした、会いに来たのか」と聞いた。それから、「上がってゆっくりしてくか」と聞いてきた。徹巳は「いや、いい」と首を振った。
喉元まで上ってきているものがあった。吐き出そうか、迷っている。
「そのー、徹巳、どうしたんだ急に」
「……お父さんこそ、どうしたの」
 上りつめたものは、とうとう出てきてしまった。
「なんで帰ってこないの」
「それは……お母さんから聞いてないか? 仕事がなかなか終らんからなあ?」
 お母さんからは、「はっきりしたことを何も言ってくれない」って、聞いている。
「……おれ、サッカーやめたから」
急にどうして、今こんな話を切り出したんだろう。動揺させたかった? 傷つけたかった?
「……なんでだ?」
「家事、誰かやんなきゃいけないし。お母さんも紗央里も忙しいし」
「そんなの、紗央里は部活なんだから、お前だって一緒だろう」
やっぱり。サッカーのことになるとお父さんは、むきになる。
「……紗央里のは、好きなことじゃん。おれは好きなことやってたわけじゃないから」
 ――皮肉だ。今までずっと、傷つけないために、がっかりさせないために、ごまかして、口にはしなかったのに。どうしてここにきて暴力のようにふるってしまったんだろう?
父は黙ってしまった。徹巳がサッカーを好きじゃないことを、父は実際、知っていたのだろうか。
「お父さんだって、勝手に好きなことやってるし。おれだって勝手に、好きなことやるよ」
でも本当にナイフの刃となったは、その一言だったかもしれない。
間違っていても、理解が足りなくても、父が徹巳との家族の繋がりと思っていたものは、拘束することだったのかもしれないのだから。

「……だから、おれのせいも、あるかもしれないんだ。ごめん」
「どうして謝るのよ……。徹巳は悪くないのよ。お父さんが、悪いんだから……」
 お母さんはそう言うけれど、紗央里には少しだけ徹巳の気持ちがわかってしまった。そのとき徹が、お父さんに向けたのは、悪意が大分、入り混じったものだったんだ。
――どうして、私からお父さんに言ってやらなかったんだろう。
紗央里は前から、徹巳は何が好きで、何がやりたいのか、知っていたのだ。紗央里から父にそれを言うことは、徹巳自身が言うことよりもきっと簡単だった。少しの勇気だけで、悪意も無く、できたはずだ。どうしてそれをしなかったんだろう。
小さい頃からいつもお互いのできないことは、補い合ってきたのに。徹巳のできないことは紗央里の仕事だったし、その逆もよくあった。いつの間にか、自分のことに夢中で、手が回らなくなっていた。
 ――永遠じゃないんだ。
 家族は永遠じゃない。もうすでに、心は昔のようにくっついていない。それでも私たちは、家族を必要とする。紗央里は、必要としている。



望遠鏡のレンズの中に、たしかにポルックスがいる。
 ――ちゃんと帰ってきた。
 双子だと思っていたカストルが、偽の双子だったことがショックで家出したポルックスは、迷子になったのち、やっぱり元の場所へ帰ってきた。そんなストーリーが徹巳の頭の中に浮かび、微笑する。
 お父さんは今、きっと迷子なんだろう。――でも、ポルックスのようには、元どおりここへ帰ってこられない。なんとなく徹巳はわかっている。父が壊してしまったものが、大切で大きなものだったから。元のままに作り直すことは、できないものだったから。
 またいつものように、気配に振り向く。もうだいぶ慣れてきた。
「黙って見てないで、入ってくれば」
「あ、はい」
 紗央里はベランダに出て、徹巳の隣でフェンスにもたれた。さっきの徹巳の告白に、何か言ってやりたいと思っているけれど、何も言葉にはならない。
「あのさ、こないだ言ってた、ロックの話さ……」
 徹巳の方から先に口を開いた。
「あ、うん、何?」
「うん、やっぱりおれ、自分が言ったことは覚えてないんだけどさ。いっこ思い出したんだ。ライカ犬のこと」
「ライカ犬?」
「まだ人類が宇宙に行ってない時代に、ヒトよりも先に初めて宇宙に行った犬……。ロシアの、人工衛星スプートニクに乗せられて。最初から、帰ってくる予定はなかったけど」
「えー……」
徹巳は夜空に浮かぶライカを探すように天へと瞳を彷徨わす。つられて紗央里もつい、探してみる。
「ライカのことは、人間の都合で殺された、悲劇なんだけど。でもライカのこと考えると、犬は人間よりも宇宙に近いような気がするんだ……。ロックもきっと、宇宙にいるよ。ライカと一緒に」
「そっかあ……」
 宇宙に届くことができるきれいな犬たちの命は、星と星の間を旅する。それは、永遠という言葉で表せるんじゃないだろうか。永遠は、そこに、ある。
 徹巳は思う。僕らがあの迷子のポルックスに似ていたころ、きっとその瞳は、犬の瞳のようにただ真っ黒だった。でもそんな双子の兄弟はもう、僕らにはいない。宇宙へはもう、帰れない。自分も、紗央里も、お父さんも。
「思い出した!」
 紗央里が突然小さく叫んだ。
「詩が、あったでしょ。徹が書いた……」
「え……?」
「ロックが死んで、私が落ち込んでたときに、見せてくれた……ロックの詩。たしか、そのときだよ。ロックが星から来たって、徹が言ってたの」
「そうだっけ……?」
「そうだよ! あれ、今、ないの?」
「いや、たぶん、取ってあるとは思うけど」
「どこにある?」
「え、何? 本気で探すの?」
二人は部屋の灯りをつけて、探し始める。引き出しの奥にしまった、古いノートの中に書いてある言葉。
「あっこれ?」
「それ違う……たしか、こっちのノートに……」

――そうやって、いつも探しては、彷徨うのだ。
いつのまにか無くしてしまった、自分のもう片方を探して。「もう片方」なんて、本当は最初から、いなかったかもしれないのに。
はるか遠くの帰れない宇宙に残してきてしまった、自分のかたっぽ。永遠の中にいる、もうかたっぽ。いつかまた出会えるだろうか? いつか、宇宙に帰る日。



〝世界は大きくてまいる
 と、隣にいる君に語る
 まっ黒い天井に
 星がタテノリでうたう
 宇宙船が出てきそうだけど
 隣にいる君は地面ばかりを探している
 学校の屋根に
 宇宙が、がんと当たっても
 人類は滅びない
 君も滅びなくて、幸せにしてる
 君は君の 病気を恐れない
 だから君は 病気で死なない
 こうやって二人は考えていることがばらばらで
 というか、君は何も考えていなくても
 今日は美しい夜なのだから
 君も幸せに違いないと思う
 黒い毛並みを撫でてあげる
 病気に手を当てて祈ってあげる
 君は嫌がって首を振る〟



 微小な星が、明け始めた薄暗い空を横切った。それは一瞬のはずなのに、スローモーションで徹巳の頭を駆けて、流星の通ったあとの空だけカーテンを引いたように、明るく輝いていく。左手を伸ばし、星が落ちていく場所にちょうど出会うように、指を合わせた。小さなかけらが徹巳の指に触れると、光は体に入り込み、徹巳はまぶしい朝日の一部となる。

 紗央里は誰もいないリビングで、ホットコーヒーを飲んでいた。十二月八日、土曜日。階段を降りてくる足音が聞こえる。これは徹巳の音だ。
「あれ、もう起きてたの?」
「うん、今日練習休む必要なくなっちゃったからさ……歌ってこようか休もうか、迷ってるとこ……」
「そう」
 徹巳は冷蔵庫から取り出したリンゴを剥き始める。紗央里は甘い香りに期待する。
「ね、詩、見つかった?」
「いや、まだ。どこやったんだろ……ノートに書いたつもりだったんだけどな」
「見つかったら見せてよ」
「あー……もうなんか、別によくない?」
「あれ私、気に入ってたんだよー」
 正直言うと、だいぶ昔に書いた詩を見せるのはちょっと気恥ずかしいのだが、そんなこと紗央里に言っても、「なんで、いいじゃん」とか言って流されるだけなんだろう。
「よし! やっぱり歌ってこよう!」
 リンゴをひとかけ食べたところで紗央里がつぶやいた。ふと、徹巳の頭の中に、あの流星がまた横切った気がした。あれは、夢だったんだろうか。
「おれ、天文部入ろうかな」
 紗央里が徹巳の顔を見る。
「いいじゃん」
「うん……」
 高校に入ってから、特に仲の良い、話のできる友達がいなかった。クラスメイトやサッカー部のやつらとは適度に上手くやっていけていたけれど、星の話とか、好きな作家や画家の話とかできるやつなんていなかったから。
でも、それだけじゃなく。徹巳自身、友達をつくること、他人と繋がることを、そんなに大事に思っていなかったんじゃないだろうか。
 今朝の、あの寝ぼけていたのか、夢だったのかよくわからない体験を思い出す。朝日の中で、世界中、自分の知らない場所にもたしかに人が生きていることを感じた。その中に自分も紗央里も母も、父も、いる。もっとちゃんと、人と話がしたくて、胸がそわそわした。なんだったんだろう、あれは。
 準備を済ませた紗央里が階段を駆け下りてくる。
「じゃいってきまーす」
「あーいってらっしゃい……」
紗央里が開いた家のドアの間から、日の光が射し込んだ。
二人の視界は一瞬、朝の光だけを映して、まぶしく輝いた。
                                     
左足の魔法


蟷螂の斧――たしか故事だと思うが、「身の程知らず」とかいうような意味だったろうか。かまきりは自分の力の小ささをわきまえず、はるかに大きな相手にも鎌を振りかざす。今まさに、目の前で僕に鎌を向けるかまきりは、その言葉を彷彿とさせた。

日曜の昼間、なんとかひねり出したやる気でやっと片付けた、1週間分の洗濯物を干そうと狭いベランダに出たときに、こいつに出くわした。
「おお……っ」
 ついつい僕の口から漏れた歓声だ。鮮明な黄緑色の体は大きさも十分で、かまきりの中では上等な方だろう。シャープな体と大きな鎌がかっこいい。子供の頃に捕まえたなら、周りの少年たちを少なからず羨ましがらせることができたはずだ。大人になっても社会人になっても、こういう折には、子供の頃と同じ興奮が当時と同じ表情をして、ひょっこり顔を出すのである。
僕の指先は誇らしげにかかげる鎌とその頭上を高く越え、そいつの胴体をつまんだ。ベランダで育てている、知り合いにもらった名前のわからない観葉植物の根元に、その体をそっと下ろす。
胴体のがさがさした柔らかさに、覚えがある。子供の頃の記憶を掘り起こすほどに、それは懐かしく、直覚的な感触だ。


小さい頃、僕の実家の近所には、1人暮らしの変わり者のじいさんがいた。変わり者といっても週に1度近所の人に太極拳を教えていたくらいだから、よく話に出てくるような人間嫌いとか、村八分にされてるような変人とかではなく、ただ、その半生や出自については誰も知らない。日常からはみ出さない程度に、少しだけ、不思議な人物だった。
だけど、彼が本当は魔法使いだということを、僕だけが知っていた。……もちろんそれは、当時の僕にとっては、真実だったという話だ。

ある日、住宅街の真ん中にある小さな公園の草地で、幼い僕は虫をつかまえて遊んでいた。確か小学校2、3年生くらいの頃だ。アリの体を2つに引きちぎっても動き続けることが、単純に面白く、そのことにグロテスクさを感じないくらいに幼かった。
そしてそれは少しエスカレートした。――かまきりの足だ。
まるで今日僕が出会ったのと同じような立派なかまきりだったと思う。子供のときほど美的感覚というものは、驚くほど価値観につながっている。その完璧に整った容姿に、僕は見とれ、そして、奇妙に、それを破壊したくなった。
むしり取った左足は、しばらく僕の指の間で動いた。足を取られた本人は、僕の手から、まるで意に介さないように飛び出したが、すぐに転び、立ち上がれずにもがいていた。
僕はそのとき初めて怖れた。
ふいに背中に気配を感じて、振り向くとじいさんが僕を見下ろしていた。
僕らはどのくらいの時間、その重い沈黙の中で見合っていただろう。実際それは、一瞬だったのかもしれない。じいさんが口を開いた。
「もう、ありゃあもうすぐ死ぬなあ」
 悲しそうにも、残酷そうにも、何も考えてないようにもとれるような、そんな表情だった。僕は反応できなかった。不安がどこまでも大きくなっていくのを、幼さゆえに全身で感じてしまっていた。すると、じいさんは急に破顔した。
「まあ、ええわ、ええわ。わしが魔法で人間にしといたるわ」
 ――驚くというより拍子抜けした。いくら子供でも、さすがに、何言ってるんだこのじいさんは、と思う。ずっこけついでに、自分のことを「わし」と呼ぶ老人に初めて会った、とかいう関係ないことを考えていたことを覚えている。じいさんは続けた。
「わしは本物の魔法使いやぞう。まあ、せやからな、人間にしたったら足1本くらい無くても生きてはいけるやろ」
 そのあとじいさんが本当に魔法をかけたかどうかは見なかった。僕が、そのまますぐに駆け出し、家に帰ってしまったからだ。

 しかし、その数ヶ月後には、僕はじいさんの魔法を半ば疑いながらも、半ば信じるようになっていた。それはうちの斜め向かいに理恵が引っ越してきたときのことだ。彼女はその頃まだ2歳くらいの赤ん坊で、生まれつき、左の足首から先がなかった。


 その理恵と、実は偶然にも、来週会うことになっている。
理恵は今東京の大学に通っていて、独り暮らししている。同じ東京にいるからといって普段はめったに会うことはないが、理恵の父親で、大学教授をしているおじさんが仕事で東京に出てくるというので、久々に3人で会って飲もう、という話になった。
 電話で久しぶりに聞いた理恵の声は、相変わらず明瞭でよく通る。元気そうで何よりだが、口が達者すぎて僕なんかではついていけないときがある。そんなときに曖昧に相槌を打ってばかりいると、「はあ、っていうのは、タケくんの口癖やったっけ?」なんて笑われてしまう。昔と変わらない会話が幼馴染とできるのは、素直にうれしいことと思うべきか。
 理恵の左足を自分がちぎってしまったような気がして、子供の頃の僕はいつも、何か彼女を助けることはできないかと、迫られるように考えていた。それがきっかけもして家族ぐるみでの付き合いが続いているのだから、結果的には悪くなかったのだろう。
今となってはあれは、じいさんの一風変わった思いやりに偶然が重なったのだろうと理解しているが、それでも、生き物を傷つけることには独特の怖さを感じてしまう。
「これはもしかしたら理恵かもしれない」、とまでは思わないが、そう思ったとすれば、とても足をむしり取るなんてできないだろう。
今かまきりは、蟷螂の斧をこちらに向け僕を威嚇し続けている。
「……やんないよ」
 思わずつぶやいた。


「それはたぶん……オオカマキリか、チョウセンカマキリ」
 同僚に、昆虫に詳しいやつがいるとは知らなかった。社食で何人かの友人と飯を食いながら話していて、昨日のベランダのかまきりのことを言ったら、意外な食いつきがあった。
 そのかまきりはというと、夜に洗濯物を取り込むときにはまだベランダにいたが、今朝出る前にちょっとのぞくと、姿が見えなくなっていた。
「なんだお前、そんなこと詳しいの」
「ん、ちょっと好きなんだよなー。小学生の時とか、図鑑丸暗記して、昆虫博士とか言って自慢したりして……」
 たしかに、そういうやつはクラスに1人くらい必ずいたものだ。
「大きいんならたぶん雌かな。ふつう雌って体重くてあんま飛ばないけど……どうやって来たんだろうな。えさはやった?」
「いや……、飼うわけではないし」
「あーそっか。でもベランダじゃそいつ、えさが手に入んないだろ。かまきりは肉食だから」
「へえ……」
またベランダで見つけたら、どこか草地にでも放したほうがいいか。
「生きてる虫なら何でもえさになるよ。雌だったら、雄のかまきりも食うし。交尾中とかに……」
「ええ? それはすごいな。共食い?」
 うっかりのまれた。えさも何も、もういないかもしれないし、飼うつもりはない。その旨を再度伝えると、
「ああ、そうだよな……」
 そう言いながら、盆を持って立ち上がり、
「うちの近くでけっこうバッタとか捕まえられるんだよな……」
 もしまだベランダにいたら譲ろうかと僕が言うと、「いや、それはいいよ」とかなんとか言って、彼は去っていった。


 夜、アパートに帰ると、ちょうど部屋に入った瞬間に胸で携帯が震えた。着信の表示のあとに、理恵の名前があった。
「もしもし、理恵ちゃん?」
「あ、タケくん。今平気ですか」
「ああ、ちょうど家に帰ったとこやから。何かあったんか」
地元では家族のように仲良くしていたけれど、五つも歳の離れた幼馴染だ。そうそう何かない限り、連絡を取り合うこともない。
「土曜日のことでちょっと……お父さんな、今ちょっと、ダウンしてるんて」
「えっ」
 ネクタイを外そうとしていた片手が、悪い想像に一瞬かたまる。
「や、ただ疲れが溜まってるだけみたいなんやけどね。ちょっとここのところ大変やったみたい。もともと偏頭痛あるし、お母さんが心配しとって。つらそうやったら学会パスしてもらって、3人で会うのも流れるかもって。……お父さんは平気って言ってるらしいんやけどね」
 そういって理恵は少し笑った。
「そっか……まあ残念やけど、しょうがないよなあ。おじさん忙しいんや?」
 いかにも大学教授といったふうな、ちょっと俗世から離れた雰囲気のある理恵の父親が、僕は昔からけっこう好きだ。面白い話をいろいろと聞かせてくれるけれど、すぐに脱線してあちこち話が飛ぶので、何を話そうとしていたか忘れてしまってはよく照れていた。
 悠々と生きているように見えて、実はかなり忙しく働いているらしい。研究者も決して楽ではないようだ。
「まあちょっと休めば平気やと思うんけどねえ。うちのお母さん特別心配性やし。……でね、」
 理恵の声に、ここからが本題、というような色が混じった。
「もしお父さん来られなかったら、せっかくやから2人で飲み会せえへん?」
 身構えたわりには、大した話ではなくて力が抜けた。
「え、別にいいけど……。そうやな、理恵ちゃんとも、もう半年以上会ってないなあ」
 正月に会ったときは、玄関先で「おめでとうございます」を交わしたくらいだったと思う。
「でも、いいんか? 女子大生がおっさんとサシ呑みして援交と間違われんかなあ。彼氏とか、怒ったりしないの」
 理恵が電話口で吹き出すのがわかった。
「彼氏なんていません。何ほんまにおっさんみたいなこと言ってるのよ。五つしか違わないやない!」
 きれいな声なのに相変わらずの豪快な笑い方だ。
 電話を切ると、缶ビールを開けた。かまきりのことが少し気になったが、もうどっちにしろ、暗くて見えないだろう。それに今は、豪快に笑ったあと、急に真面目な口調で「タケくんはいつもどっか私のこと、赤ちゃんのままやと思ってるのよ」と言った、理恵の言葉の方が僕の思考を捉えていた。――いや、きっとあれは、なんでもないんだ。

明日かまきりが見つかったら、どうしようか。うちの近所に虫のいそうな草地なんてあっただろうか。本当に同僚にやったら、けっこう喜ぶかもしれない。でもそれは、少し嫌なかんじがする。この特殊な、かまきりとのコミュニケーションを、僕は独り占めしたいのかもしれない。だからといって飼うのはさすがに無理だし、そこまでしたいとも思わないのだが……。
――えさに虫をやらなきゃならないのはちょっとな……
もしかしたらその与えた虫のほうが理恵かもしれないじゃないか。そう思いながらもなぜか思い浮かべたのは、雌かまきりの理恵が、雄かまきりの自分をもぐもぐ食べるところだった。……いや、何かおかしい。どこから思考がおかしくなった? だいぶ眠気と酔いがまわってきたみたいだ。
じいさんが言う。
――お前の今までの悪い行いを全部償うために、お前の大事にしとる理恵ちゃんを魔法でかまきりに変えるのや。
あれ、それじゃ逆だ。かまきりが理恵になったんだ。
じゃあ、僕のベランダにやってきたあいつは、一体何者だろう。
……もしあれが理恵だというなら、僕は理恵のために虫を捕ってあげてもいい。昔みたいに、いつも心配して、いつも気にかけていよう。でも、……あれが、本当に理恵なら、僕はあの左足を、むしり取ってしまいたい。


朝日が、カーテンの隙間から暑苦しく入り込む。コップに注いだ豆乳を片手に、僕はベランダの窓を開いた。植木鉢を覗き込むと、そいつは1枚の葉の先にいた。ベランダから外を眺めるように、妙に絵になる格好でぴんと胸を張っている。
 ――さて、どうしたものか……。
 昨夜の酔ったいきおいの妄想だか夢だかは、少し覚えている。理恵であるかまきりを、僕は、バラバラに分解していった。我ながら趣味が悪い。あれは実のところ、限りなく性欲に近いので、理恵は関係なかったのだと思いたい。
 今、朝日の中でこのかまきりを目の前にして、そんな欲望は全く湧いてこないわけだが、それにしてもどうにかしなければ、と手をのばした瞬間だった。
 彼女は薄い翅をはばたかせて、夏の空の中に飛び出していった。


 2次会と称して僕の家になだれこんだあと、缶ビールを酌してくれる、その手は昔とずいぶん違っていて、時の流れをやたら実感した。少しそれは切なくなる。
「タケオくんは昔から利口な子ォでした」
 そういっておじさんは僕のコップに自分のコップをコチンと合わせて飲みほした。今日何度目かの、このセリフである。
久しぶりに会った理恵の父親は、僕の記憶よりずっと老けている気がする。彼に会うのは1、2年ぶりだけれど、その間に彼に関するイメージは、僕の少年時代の頃のものに戻ってしまっていたらしい。それでも元気そうではあって安心した。2日ほど休みをとって、復活したそうだ。
「理恵ちゃんのほうが成績優秀やったやないですか。生徒会長でしょ」
 当の理恵は、さっきからうちの冷蔵庫を勝手に開けて、「空っぽやない。ちゃんと食べてるの」とか「なんでこんなの取っとくの」とかぷりぷりしている。理恵が怒り上戸だとは知らなかった。
 床に伸ばされた理恵の足はとても自然で、ぱっと見ただけでは特殊な義肢をはめているようには見えない。僕は、それを眺めながら、理恵の本当の左足が見たい、と唐突に思う。
「理恵ちゃん、そろそろ帰らんと。もう遅いから送ってくよ」
「お父さんは泊まってくのにずるいなあ」
「なんや、それ」
 言いながらも、僕が上着をはおると、理恵は素直に鞄を手に立ち上がった。
「今度ほんとうに、私もタケくんちに泊めてよ」
 思わずおじさんの方を振り向くと、いびきをかいて眠っていた。

 僕よりも先に玄関に座って靴をはいている理恵のうしろ姿は、説明を拒否している。肩にギリギリ届く長さの髪は、うつむくと首筋が少し見える。

 僕は、
――足、痛くなったりせんか?
と言おうとした、その声を飲み込んだ。

頭の中を、翅がばさばさ音を立てているような気がした。









この間合評会が終わったばかり、まだ湯気立ってるかんじ?の小説でした。例のごとく(?)ダメだ、直さなきゃと思ってるところもそのまんま出してます。

本当は、ごく普通の人々の中にも潜む、暴力的な暗い欲望について書きたかった。そして、その欲望の対象は、愛情の対象によく重なることを。
でも伝わるようにうまく書けなかったなあ。がんばってやり方を変えてみよう。

それから、書いたあとにしばらくして更に追求したくなったのは、
……この暗い欲望は人間の悪の象徴的な一面であり、しかしそれが愛と関わることは、もしかしたら、そこに希望の意味が見出せるのではないだろうか?……
ということ。


なんか、1つのテーマを見つけました、私は。
でもまたこの追求は、輔仁の応募作と学祭用の作品を仕上げてからになりそうです。自分の中であっためて大事にしましょう。
出してみようかと思います。

なんで出す必要があるのか、っていうところにくると、難しいんだけど…やっぱ人に見てもらえる機会が増えてほしい気持ちはあるし。
本当は中高生とかに読んでほしんだよね、私は。なんの作品にせよ。


まあそんな感じで。アレここに出しちゃいます。




『 河童 』



 今、私には一人、親友と呼べる人がいる。
 その人は小野さんという。小野さんは天才であり、それゆえに繊細でもある。彼女のそんなところが私は気に入っているのだが、だからといって小野さんが、他の友達と比べて特別好きなわけではない。
 小野さんだけを親友と思う理由は、彼女と経験したこの一年のことを整理しなければ、私自身にもよくわからないのである。
 国道沿いのガードレールの、ちょうど凹んで黒焦げになっているところが目印。そこを乗り越えてうすっぺらい林の中を進むと、湖に出る。私の住む市のたったひとつの名物であるその湖は、岸辺をもう少し先まで行くと公園になっているが、この国道沿いはただの林だ。しかしこの林がなかなか落ち着いていて良いスポットなのだ。
 ここに、一年と数ヶ月前から一軒の小屋が建っていることを知る人は、おそらくあまり多くない。それは小野さんの仮の住処である。
 小野さんが河童になってしまったのを私が知ったのは、実際にそれが起こってから結構経ったあとだったと思う。あのときの彼女のメールは今でも私の携帯に保護をつけてとってある。私が大学受験に失敗した春のことだ。

 1年前の、2月某日のこと。4校目の合格者発表の帰りに立ち寄った地元デパートのフードコートで、たくさんの友人たちにメールを送った。
 この日、私のそれから1年が決定したことの報告である。久しく会っていない中学の頃の友人などは、私の浪人生という肩書きに驚くかもしれない。あの子たちにとって私は尊敬すべき博学な優等生だったはずだ。小さな田舎の中学で、私のあだ名は実にオーソドックスに、「ハカセ」だった。びっくりする彼女たちを想像するのは妙に快い。落ちたことは残念と思うけれど、絶望よりも、両手で抱えてこぼれないように頑張っていたものを、全て一気に手放した感覚だった。呆けた気持ちがだんだんと、ある種の安堵に変り始めていた。
 普通の味、としか言いようのないパスタを食べているうちに次々と返信が返ってきた。励ましの言葉は平凡だが、うれしいと感じるのは人とのつながりを確かめられたからだろうか。
 鞄からCDプレーヤーを取り出し、イヤホンを装着する。普段あまり聴くことのない、人気歌手の曲をなぜか無性に聴きたくなって、帰り道に借りてきた。キレイな女性の歌声が午後のゆるい空気に溶けていく。そんなとき、思い出したかのようにまた携帯が震えた。
 ディスプレイに表示された小野さんの名前に妙に納得した。みんなより一歩遅い返信がマイペースな彼女らしい。
 小野さんは私を「ハカセ」と呼ぶあの頃の友人達の中で、ひときわ変な人だった。はみ出し者とはよく言うが、彼女は想像の範疇を超えて限りなくはみ出し続けるようなイメージだ。あの頃は小野さんの言葉がとにかく面白くて、いつも付け回していたと思う。「ハカセが懐いている」などと言われたくらいだから、傍目にも明らかだったのだろう。

 驚いたことを順に挙げていくと、まず、彼女が高校を辞めたという知らせだった。それから、今は理由あって湖畔、しかも人気のない国道沿いの林に住んでいるということ。訪ねていったその場所が、ガードレールを超え道なき林の中を分け入っていくような、本当に「人気のない」場所だったこと。そして、出迎えてくれた小野さんの肌の色が少し透けて、水色がかっていたことである。
「びっくりした。本当に遊びに来てくれたのなんてハカセがはじめてだよ」
 そう言って小野さんは、木製の机の、私の座る目の前にココアのカップを置いた。「こっちこそ」という言葉をココアと共に飲み込む。
 少しきつい木の匂いに包まれている。白雪姫の「こびとの家」のようなメルヘンチックな外観は、中に入ってもそのイメージを保っていた。部屋はワンルームで、キッチン、リビングと寝室も兼ねているようだ。 これも木製の、小さなベッドが置かれている側の壁に、湖の見える窓がくり抜かれてあった。
「いつからここに住んでるの?」
 小野さんは少し顔をしかめて、
「うーんと、ちょっと待って。忘れた……」
 しかし話を聞く限りでは、どうやらそんなに長くいるわけではないようだった。家も新しい木の匂いだ。断片的に聞き出した、小野さんのこれまでのいきさつは、次のようである。
 小野さんは高校で人間関係や、諸々のことが上手くいかなくなってしまった。それが具体的にどんなことなのかは、小野さんは自分からは言わなかったし、言わせる必要のないことなので、私にはぼんやりと想像することしかできない。
 それから学校に行くのがつらくなって、とうとう行けなくなってしまった頃に、小野さんの体に変化が現れた。息をするのが難しくて、酸欠になりかけることが時々起こったのである。しばらくすると、首の辺りに、何かギザギザした傷跡のようなものができはじめ、息をするのが下手になるにつれ、それはだんだん拡がっていった。そして同時に、体の色が薄く、透けるような感じに変っていった。
 ある日、どうにも息の仕方がわからなくなって、体はほとんど透明に近いような色だし、これはとうとう死んでしまうのではないかと思ったとき、首のギザギザが、ぱっくりとした割れ目になってしまったのだそうだ。そのとき小野さんは風呂場に走った。大きな洗面器に水をいっぱい汲むと、首までざぶんと浸した。そしてようやく難なく息ができるようになったという。それは、「えら」だったのだ。
 首を見せてもらうと、たしかにギザギザの割れ目が、今はぴたっと閉じていた。その時々で、体の色が薄くなるほど呼吸も上手くいかなくて、陸上生活ができなくなってしまうそうだ。そういうときはずっと湖の中で過ごすのだという。今は肌色もだいぶ戻って、陸に上がっても平気だそうだ。そういう時のために小野さんのご両親がこの小屋を用意してくれた。
「しばらく陸に上がって来れないとメールがいっぱい溜まってるんだよー」と、言って小野さんは自分のココアをすすった。こういうときに、日本人特有の意味不明な笑みをしないところは、相変わらずの小野さんだ。
 小野さんの入れてくれたココアは今まで飲んだことがないほど美味しくて、お菓子のひとつも持ってくればよかったな、と少し後悔した。また来てもいいかと聞くと、小野さんは本当にうれしそうな顔をした。小野さんのこういう顔は珍しいのでドキっとさせられる。突然変わってしまった体のために一人でここに住むということの意味を、私は全く理解できていなかったのだろう、とようやくそのときになって気付いたのだった。
 
 そして私は次の日も小野さんを訪ねた。思い立って、その日の朝作ったチョコレートを持って行った。チョコを生クリームと溶かして固めただけの簡単なものだけど、味には自信がある。ところが、小野さんは不在だった。
 小屋のドアに鍵がかかっている。また水に入らなければならなくなってしまったのかもしれない。湖の方に行って見渡してみても、それらしい姿は見つからなかった。えら呼吸ができるのだから、こういうときはずっと潜りっぱなしなのかもしれない。
 昼の日差しが水面にきらきらと反射し、向こう岸には木々の間に小さな広場、そこに一つだけ置かれているブランコが小さく見えた。
 そのとき、水の跳ねる音を左耳に聞いた気がした。振り向いたその一瞬、小野さんらしき後頭部が潜っていくのが見えた。
 
 小野さんに会えないとなるとその日はやることがなかった。私の受験失敗に対し、私自身の気持ちよりも親の落胆が予想以上で、家にいるのはとにかく気が滅入った。というかそのうち今からでも来年のために勉強を始めろと言い出しそうだった。
 そんなわけで街をうろつけるだけうろついてみる。駅ビルの中の雑貨屋を見てから、電車に乗って隣の市の繁華街へ向かう。
 改札を出るとすぐ向かいに、七階建てのビルを一軒まるごと使った大きな本屋がある。駅と本屋との間にわたる、ガード下にはダンボールハウスがたくさん並んでいた。私は小野さんのことを考えていた。先刻の小野さんは、あれは確かに、私に気付かなかったふりをして、水の中に隠れた。わかってしまったのだ。
 本屋で文庫本のカバーについたあらすじのところだけチラチラ読み漁り、雑誌を立読みすると、やっと夕方だった。本屋を出る。駅前に設置された大きなテレビ画面が六時のニュースを伝えていた。
 二人の男が腕を交差する変な銅像の下、ベンチに腰掛けてぼんやりとニュースを見ていると、ニートに関する特集が始まった。小野さんもこういう人たちと似たような心境なのだろうか。学校に行けなくなるとともに体が変化しはじめたという小野さん。水に潜っているときの小野さんは、心を水底に隠しているのだろうか。
 私だってニートと似たようなものだ。私の「浪人」なんて、受験という大義名分があるだけで、親の金で養ってもらっているふらふらした状態だ。そして今は、勉強も何も、受験が終わったらやりたかったいろんなことすらできずに、なんとなく心の頼りを小野さんに求めている。
「……ああ、」
 急にああ、と胸に、納得が落ちてきて、私はそれを声に出していた。ストンとはまったのだ。できなくなることが、あるのか。いつのまにか、自分の中のいろいろがストップしてしまっている。今までできたはずのいろんなことが、できなくなることがあるんだ。そして小野さんは、普通の呼吸ができなくなった。
 画面が映し出すニートの若者と、ダンボールハウスと、水に沈む小野さんの後頭部と私とが、見上げる暗い夜空に向かって伸びて、ひとつに繋がるような気がして、空を見ながら思わず立ち上がると、腕組み男の右側の方と目が合ってしまった。
 
 もちろん私のちょっとした憂鬱など小野さんと結びつけていいものではないことはわかっている。どうしても、経験した本人しか入り込めない一線があって、分かり合えることは限られている。でも、限られていても分かり合えることがあるのなら、私は小野さんに少しでも近付きたかった。そうすることで、自分自身の止まってしまった何かを動かしたいと思っていたのかもしれない。そんな気持ちが、次の日もまた私を湖畔へと向かわせた。
 その日も小野さんは小屋にはいなかった。今度はあまり迷わずに湖へ向かった。しかしやはり姿は見当たらない。静かな水面だった。
 いつかここからの風景を描いてみたい、などと、絵なんかまともに描いたことはないのに、なぜかそんなことを思った。
 あきらめて立ち去ろうとした、その背中に、小さな声が聞こえた気がした。振り向いて、耳を澄ますと、今度ははっきり「ハカセ!」と呼ぶ声が届いた。
 私と小野さんは湖畔を少し歩いたところにある、湖に面した大きな岩に、並んで腰かけた。小野さんはきれいなブルーのワンピースの水着を着ていて、肌の色もほとんどそれに近い色だ。よく見れば少し肌色がかっているようだが、元々色白なせいで、余計に青が目立つのかもしれない。
「きのうはちょっとひどかったんだけど。今日はもうだいぶいいの。明日には陸にあがれそう」
 きのう、今日、明日と順に述べる、妙に面白い小野さんの言葉が湖に弧を描いて落下してゆく。私は「んー」だか「ふー」だかわからないような返事で言葉の落ちて行く先の水面を見つめた。
「ハカセ、私はハカセにありがとうと言いたい」
唐突でむせそうになった。呆けた態度の私にいきなりそんなせりふを言ってくるなんて、さすがは小野さんだ。
「――ほとんど透明に近くなって水に入っていると、このまま水に溶けていけそうな気がするときがあるんだ」
 ……小野さんは何が言いたいんだろう。私は透き通る横顔を見つめた。
「そしてそれは、私の気持ち次第で、本当にそうなるときが来る気がする。きのうまで、私はそうなったらいいと思ったりしてたんだ。水になって溶けてしまえたら。……でも、ハカセがきのうも来てくれたから、やっぱりもう少しこっち側にいたいな、と思って」
 きのう、私に気付いていて無視したということを暗にあっさり明かされて、私の方がなぜかぎくりとしてしまった。その上混乱していた。よく意味が理解できない。
「ちょっと……小野さん、何のこと言ってるの」
「この湖は普通の湖じゃないみたいなんだ。ハカセにも見せてあげたい。なんかすごいことになったことが、1度だけあったんだよ……世界の中心みたいな何かと、つながって、水に溶ければそこに吸い込まれていけそうなの」
 私はただじっと小野さんを見つめるしかできない。
「きっとあの場所から人間は来て、また帰っていくんだと思う。でも私はまだあそこに入るには早いんだって、わかったよ。ハカセが毎日来てくれてうれしくなったから」
 まだよく飲み込めない私の顔を見て、小野さんは、
「うーん、じゃあ私ハカセにわかるように絵を描こう。描くのは難しいけど」
 冗談なのかと思ったら、小野さんは大変真面目な顔でゆるい波の向こうに目を凝らしていた。

 思えばあのときの小野さんの目つきは、すでに絵の構想を練っていたのだろう。それはなかなかの大作である。なにしろ小野さんの住まいである小屋の一側面に直接描かれているのだ。完成するまでは私には見せないのだと、小野さんはいつもその壁にぴったりのサイズのカーテンをかけていた。
 そしてあれから一年経った今日、とうとう絵が完成したという、小野さんからのメールが届いたのである。
 今私は第一志望校の合格が決まって、やっと大学受験から開放されたところだ。小野さんはというと、進展はあるようでも、やはりなかなか元に戻るのは難しいようだ。
 陸上にいるうち、少なくない時間を、小野さんは絵を描くことに費やしている。私のための絵だと思うとうれしい気持ちもあるが、それと同時に、小野さん自身が描くことに夢中になっているという感じもする。小野さんが見たという、「世界の中心みたいな何か」、人間がそこから来て帰る場所――小野さんの態度は不安を感じさせるものでもある。小野さんはやはりまだ、その場所への憧れを抱き続けているのではないだろうか。水に溶けてしまいたいと思っているのではないだろうか。
 しかし、小野さんが絵を描きはじめたことで、よかったと思うこともある。小野さんは他にも小さなスケッチだとか、ちょっとした絵を描くようになった。その絵が才能あふれるものだったことに、私はそんなに驚かなかった。私はもともと小野さんが天才だと知っていたのだから。
 私には見えないものをいつも見ているような人が、素晴らしい絵を描かないわけがないのだ。

 ところで小野さんの言ったことに関して、私はあとから思い当たったことがある。それは高校のときにほとんど手探りで読んだ西田幾多郎の哲学書の、とある箇所であった。うろ覚えだが、個人を超えた普遍的な唯一の意識が存在して、個人の意識はそこから発展したものにすぎない、というその論理が、当時の私にとっては、とても刺激的なものだった。
 そのとき私は心に、大きな一つの水面を思い描いた。そこに波が立ち、揺れて歪んだ水辺の一端一端が、個人である。しかしやがて波のぶつかり合いは、再び平らな水面を作り出していくのである。
 小野さんの言っていたものがその大きな水面だったなら、小野さんがそこへ帰っていきたいのは自然の衝動なのかもしれない。しかし、小野さんは十分ぶつかり合っただろうか。すべてつながり合ったひとつの水面だからこそ、小野さんの内部でぶつかるだけではだめなのだ。他の人間とぶつかってはじめて、平らな水面に戻っていけるのではないか。
 小野さんを親友と思う理由はやはり私にはよくわからなかった。ぶつかり合う他の人間こそ、小野さんにとっても私にとっても必要な人なのだと思うが、私たちは、十分ぶつかり合うにはお互いに対して親切すぎる。だからといって全てを話せるとか、依存しあったり甘やかしたりする程の仲でもない。ただ、たまに将来の夢とか、ふと考えた世界の真理についてだとか、大真面目に誰かに語って聞かせたいとき、聞いているのか聞いていないのかわからない小野さんに話すと、否定もせずに、しかし意外に真剣に受け取ってくれたりする。そんな関係は小野さんの他にはなかった。
 そんなことを思いながら、ガードレールを越えると、足を降ろした土の感触が、何となくいつもと違っているように感じた。手には、絵の完成にと思って作った、ささやかなお祝いの品のマドレーヌを持っている。木々の間に湖を垣間見た。湖はとても眩しかった。眩しくて眩しくて、向こう岸が見えない。不思議と気になって目を凝らしたが、どんなに目を細めてみても広場や遊具は見えてこない。なぜか、それがあるはずの場所には、水平線が見える。
「ハカセ?」
 声に振り向くと小屋から出てきた小野さんがゆるやかに手を振っていた。今日は随分と体が肌色で、調子が良いようだ。
「どうかした?」
「うん、あの、湖がさ……」
 手でひさしを作りながら再び湖に目をやると、向こう岸には学校の先生だろうかと思わせるような風貌のおじいさんが、杖をつきながら木々の間に入って行く姿が、さっきまでの輝く水平線と成り代わっていた。
しばし呆然とする私のそばまで、小野さんは歩いてきた。そして小野さんは
「湖がー……」
 と言ったきり、しばらく私と一緒に黙って湖を見つめていた。

 小野さんの小屋で、私たちはアールグレイと一緒に、マドレーヌにジャムをつけて食べた。小野さんはジャムを作るのも得意だ。育てているわけではないが、果実から作っている。私は前から、小野さんの絵が完成したら、西田幾多郎とそれに伴う私の空想を小野さんに話そうと考えていた。しかし、それは延期になってしまった。
 小屋に入ると、壁にはまだカーテンがかかっていた。小野さんはそれに近付き、開こうとし――そして動きを止めた。
「やっぱり完成じゃなかったかもしれない」というのが、小野さんの次の言葉だった。
 
 私の見たあの水平線が、小野さんが描こうとするものと同じとは、私は信じていない。小野さんの語ったそれは、言葉にも、絵にも表せないほど壮大なもののはずだ。
 もしや、と私はひとつの仮説を浮かべる。
 それは常に起こっている現象だが、人の感覚には普通映りこまないものなのかもしれない。そして、小野さんの鋭敏な感性は、それをある一瞬のみキャッチしたのだ。そして私もあのとき偶然に、その端緒だけ感じ取ることができた、ということではないだろうか。
 ともあれ今はまだ、小野さんの絵と、私の西田幾多郎は、お互いに抱え続ける秘密となった。いつかそれを明かして、語り合う日が来るかもしれないし、来ないかもしれない。小野さんが河童を卒業したときに、秘密は秘密でなくなるような気もする。とにかく先のことはわからない。
 とりあえず今は、私が浪人生から大学生になれたように、いつか小野さんが河童から画家になれたらいい、と胸に密かな希望を思い浮かべ、アップルとラズベリージャムの間で私は匙を迷わせた。





まああ、これ、読書や文芸に造詣のある方ならわかるだろうけれど、大変な反則を犯している作品ではあるんですよね。
ちょっとこれは長編としてまたちゃんと書いてみようと思っております。
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