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どうも、ご無沙汰しております。
ここしばらく過重労働の毎日でしたが、日記も再開したいなあ、と思いつつ、今回は長めのやつ書こうと思います。

BiSのことです。
7月8日横浜アリーナでとうとう解散してしまったBiS。
結成当初よりのファンだった私は、解散するという話が出始めた頃からしばらくは、そんなあ、もっと続けてほしいな、と寂しく思っていました。
けれどここ1年くらいは、BiSが解散するという選択は、まぎれもなく正しいと思うようになりました。
それは、日本のアイドルが、というよりエンターテイメント全般が、急速に夢のないものになっていっている現状を把握し始めたから。

本当に、今の日本の芸能やテレビの雰囲気を見ていると、「日本の老若男女のほとんどが知っているアーティスト・芸能人」という人が、これから新たに現れるというのは、ほぼ不可能なんじゃないかと思える。おそらくPerfume、AKB48くらいまででそれが途絶えた。ミュージシャンがたくさん出演する歌番組のスペシャルを見ていると、みんな10年ほど前に発売した「代表曲」と、大衆にはあまりなじみのない新曲を抱き合わせで歌う。最近の曲で、「だれもが知ってる曲」って本当に少ないんだと驚かされる。

ミュージシャン・アーティストならば、日本のすべての人に有名にならなくても、食っていける程度に商業的に成功しつつ、意義のある活動をできれば、それは良いことだし、夢が叶ったといえるだろう。でも、アイドルは本来、「一世を風靡する」みたいなところを目指すものではなかったか。
きっと今、何年かのキャリアがあって、安定して良い楽曲とパフォーマンスを見せてくれているアイドル達、ライブアイドルの中ではトップクラスといえる人達は、そこを目指して結成しアイドルになったんじゃないかと思う。でんぱ組.incにしろ、バニラビーンズにしろ、Negiccoにしろ。もしかしたら、今現在もそういうものを目指しているかもしれない。でもそのモデルはもう現代にはない。
BiSの最後のメンバーであった6人、とくにBiS48から加入した3人は、加入直後から「BiSが面白くなくなった」と内外から言われて苦しむことになったけれど、それはBiSだけの問題ではない面も多分にあるんじゃないかと、私個人としては思っている。彼女たちが入った時期は、「アイドルがもう以前ほど面白くない」ことにアイドルファンたちが薄々気付き始めた時期とちょうど重なるんじゃないかと思うのだ。
近年ではももいろクローバーZが紅白出場をはたしたけれど、紅白出場すれば国民的歌手と呼べる時代はもう過ぎ去ったように見える。スーパーで買い物している中高年の人の、何割がももクロのことを知ってるだろうか。ある程度は知っているだろうけれど、もう松田聖子やピンクレディに、あるいは安室奈美恵に、SPEEDになれるアイドルなんて出るとはけして思えない。

このことは、別に完全に悪いこととも言い切れない。
みんなが同じものを見て楽しむ時代が過去になったということだ。みんなそれぞれに自分で好きなものを探すし、無ければ自分で作る人も昔よりずっと多い。みんなが同じ一つのものを見て熱狂するなんてオモシロクないよ、というのが広まってきたというのは、より自由な世の中になってきたと考えられるのかもしれない。
けれど、アイドルというのは本来そういう夢だった。日本を丸ごと巻き込んで熱狂させるのがアイドルだった。そういう夢が消えた現在、アイドルグループは、より限定された層を意識したサービスを志向するようになっている。アイドルを運営する人たちも、層を広げることよりも、「アイドルファン」という盛り上がっている層をターゲットに商売して、商業的に成功することを目標としているのではないかと思う。

その点において、BiSは変だった。愚直だったと言ってもいいかもしれない。
BiSの運営は手段を選ばない策略をいろいろと行ったことで一部では知られている。その手法が多く批判されているし、私自身も嫌なやつらだ、クソ運営め、と思ったことも多かった。けれど、手段を選ばず何をしようとしていたか、というところが、他の「悪徳運営」と呼ばれるところとちょっと違った。本気でBiSを「売ろうとしていた」、ヒットさせようとしていたのだ。
やってたことがムカつくのは変わらないけれど、BiSのメンバーと運営が、ある部分では対立し戦いながらも、ある部分では協力し合う仲間としてあり続けられたのは、その一点があったからじゃないかと思う。

しかし世の中はBiSにとってどんどん厳しい状況になっていった。
BiSは大きな夢を目指すグループであると同時に、ビッグネームを痛烈に皮肉るグループでもあった。でも、皮肉るための「大きなもの」がどんどん消えていっていた。そうなった時に、大衆に共有されるものは「グロテスクなもの」「ショッキングなもの」。AKBは、明らかにそれを意識的にか無意識的にかわからないが察知して戦略を打ち出すようになっていっている。ビッグネームがやることをグロテスクに変換して皮肉るBiSの遊びは、大元がどんどんグロテスクになり、遊びが現実に負け始めてきていた。

BiSが横浜アリーナライブを目の前にした7月2日に敢行した、街宣車での喧伝と、新宿ステーションスクエアでのフリーライブ。「最後のお願い」と題し、メンバーが揃いの法被を着て行ったそれは、もちろん政治家の選挙運動のパロディだろう。けれどその前日、集団的自衛権の行使を可能にする閣議決定が行われた。そして数日前に、そのことへの抗議を演説する一人の男性が、自らガソリンをかぶって火をつけたのは、フリーライブを行ったのと同じ新宿だった。BiSの政治パロディに、思わずそのことがちらりと頭をかすめた。
こういうばかばかしいパフォーマンスを「不謹慎」と断じるのは好きじゃない。けれど、どうしても思い出して苦い思いにならずにはいられない。現実の方が強烈すぎて、パロディがかすんでしまう。つまり、サムイのだ。現実があまりにもグロテスクでショッキングになると、そのパロはサムくなってしまう。
しかし、新宿ステーションスクエアでのメンバーたちの演説は、それを自覚していることを感じさせる痛切なものだった。もうこのやり方を楽しめる世の中じゃなくなった、今の世の中で私たちは同じ夢を見続けられなくなった、ということを実感しているからこその悲痛な叫びを見て、実際に心を動かされて横浜アリーナに足を運んだ人もいるらしい。

ライブの数日前まで1万枚のチケットが余っていると言われていた公演で、最終的にほとんどの座席が埋まっていたのは、やっぱり奇跡的なことだと思う。なんであんなことが可能になったのかいまだによくわからない。しかし、キャンディーズ以来、意図的に解散を決定し、華々しく解散ライブを行って終わっていったアイドルグループなんていただろうか。アイドルというものは操り人形としての特性を持つがゆえに、誰の思惑だか運営の事情だかわからない解散や自然消滅の方が多い。まさに、アイドルにはありえない夢のような解散だった。しかも横浜アリーナいっぱいの観客を巻き込みながらという、力技のような奇跡も付加して。

解散ライブは、今までライブハイスでBiSと一緒になって遊び続けてきたコアなファンである「研究員」にとっては、不満もいくつか残るものだったようだ。けれど、アリーナ席で俯瞰で見ていた私は、こんなでかい会場で多くの人が見ている中でいつものようにBiSと研究員が遊んでいる姿に、驚くやら感動するやら、最終的には可笑しさばかりがこみ上げてきて、なんじゃこりゃと思っていた。
そりゃあ横浜アリーナという会場で、いつものライブハウスほどは思い切り遊べなかっただろう。でも君たち、横浜アリーナで遊んだんだぞ。BiSだけを見に来た大観衆の中で。異常事態だったよ、あれは。

BiSは大衆を巻き込み、理想的な解散を遂げるという、現代のアイドルにありえない夢を無理やり実現して終わった。だから、BiSの解散と共に、今まで残骸のように信じられてきたアイドルという夢はもう終わったと思っている。BiSはひとつの歴史を終わらせてしまって、解散によって確かに世界を作り変えてしまったんじゃないかと私は信じている。

なんて、私の中でBiSを大きくし過ぎているのかもしれないですけどね。
でも、もう数年したら、きっとこれが本当だったかどうか、答えが見えるんじゃないかなあ、と思っています。
それから元BiSメンバーたちの今後の進路については、「あ、大人と戦うのじゃなく、自分自身が大人として世界を変える段階に進んだんだな」と思いました。
おわり。
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GET YOU (BiS盤)GET YOU (BiS盤)
(2013/01/09)
BiSとDorothy Little Happy

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今回のコラボシングル『GET YOU』のリリースイベント等で、悪魔風衣装を着てパフォーマンスをするBiSさんたちを見ながら近頃よく思っていたのが、「悪そうでいいな!」ということでした。
「アイドル界の悪者っぽい!」みたいな。

一方ドロシーさんたちに対しては、今まで数回しかライブは見たことがなかったんだけれど、前々から「美少女戦士」っぽいイメージを持っていたんです。
少女っぽくて可愛いのに、「男に好かれようとしてる女」の感じはあまりしなくて、毅然としている様子が良いなあ、と。
良い意味でファンに100%視線を返そうとしてない感じが気になるなー、と思ってたんです。ファンへ返すよりも、応援を受け取って未来へ進もうとする姿勢が、ほかのアイドルより際立つ感じで。

そして1.14のリキッドルームでのライブ。
先陣を切ったドロシーさんたちを見て改めて「美少女戦士だなー」と思いながら…
…ならばBiSとDLHのコラボは、セーラー戦士(=DLH)と敵キャラ女子の「ウィッチーズ5」(=BiS)が手を組んじゃった的な、やばいコラボなんじゃ!?という思いが、ライブ中ふつふつと湧き出しました。

ライブももっと両者の対決っぽい雰囲気になるかと思いきや、むしろ共同戦線の色が強かった。
DLH版『nerve』も、いつもBiSがやってる指差しを、ドロシーさんがドロシーさんらしくやってる様子に「なにこれ楽しい!」とテンション上がりました。

そして続くBiSのライブが、私のBiS=ウィッチーズ5妄想に、さらに拍車をかけてしまった。

GMYL全部やMy Ixxxなど、冒頭からガンガンロックで攻めるのも、いつものことながら「悪のアイドル」っぽさが出てて良かったけど、さらに中盤urge over kill of love、eatit、IDOLとダークな雰囲気でたたみかけるのが、もう悪さ最高潮で素晴らしかった!
続くnerveとMCで一段落着いたら、今度はBiS、Primal、PPCCと、ダークでごつい雰囲気から一転、繊細な心情吐露ともいえる、彼女たちの生の部分に触れるような歌詞の3曲。ここにきてダークな魔女の本当の心の痛みを見せつけられて、泣かずにはいられるか。
そして終幕はレリビ。今度は明るくいたずらっぽさもある表情。「これからも楽しく悪いことしちゃうよ!」とでも言うかのようで、そのたくましさにまた泣けた。

セットリストのことでいえば、ユフちゃん作詞曲が3曲連続だったのは、最近落ち込み気味のユフちゃんを勇気づける選曲だったのかな?わからないけど。BiSチーム、傍目に見えるよりずっと助け合っているのかもね。

それで、最後のBiS・DLH2者のコラボも、もっとオマケっぽくなっちゃうかと思ったけど実際はすごく良かった。
私ほど妄想に取りつかれていなくても(笑)、この全く噛み合わなそうな2組のアイドルが、こんなに手を取り合って良い雰囲気を作れたことに、驚き感動した人も多かったんじゃないかと思う。

やっぱり私、クイン・ベリルも好きだったし、カオリナイトとウィッチーズ5も超可愛かったし、ネヘレニアもアマゾネスカルテットも好きだったんですよ。
そして彼女たちの闇って、「可愛いと言ってもらえない」女子の苦しみであって、それってBiSという女の子たちがその存在によって世に(図らずも?)問いかけてしまうことと、一致してくると思う。
ファンがどんなに可愛いと思っていても、BiSである以上、世間的に「可愛くない立ち位置」を選んでしまったことはずっと彼女たちについて回るのだろうから。

でもね、物語が描く前に、現実世界のアイドルが描きはじめましたよ。
可愛いと言ってもらえない悪い女の子と、可愛いとみんなに言われる良い女の子が、手を組んで正義のわるだくみをする。時代が本当に、そんなふうになって来ているのかな?
現代の魔女と美少女戦士は結託してともに世界を征服するんですね。
最近のBiSのPVがやばい。

最近の…というのは、具体的には『IDOL』と『PPCC』のことだけれど。
アイドルという現象の正体を暴いてしまうような、見方によればかなり危険なPVだ。

しかし私は泣きましたよ。
世の中の全てのアイドルが突きつけられているこの戦い。今までに一体、アイドル自身の表現として、彼女たちの過酷さと誇りを見つめ、こうして世間に知らしめるものがあっただろうか。

まず、IDOL。



その名も〈IDOL〉と銘打ったこの曲で見せたのは、磔にされた魔女を演じるBiSメンバーたちの姿だった。
アイドルである限り晒され続ける魔女狩りの罠。
その十字架を掲げて歩くエキストラは、なんとツイッターなどで募ったBiSのファン=〈研究員〉たち。
アイドルの過酷な運命を暗示すると共に、アイドルファンであること、アイドルを見る側の人間であることは、彼女らを十字架に架ける手のひとつになりうるということも、示しているようだ。

そしてPPCC。



ここでは、アイドルが背負うその運命に希望と覚悟の表情で立ち向かう、5人になったBiSが見られる。
戦う相手の「100人の不良」役には現役プロレスラーを前面に配したが、またもやこの中には〈研究員〉エキストラが多数加わっている。
IDOLからこの、過酷さも表現しながら希望の光が差すPPCCにつながったのは、けして予期して作られたものではないと思う。新メンバーの加入と共に、明るく、頼もしくなったBiS。彼女たち自身の変化があったからこそ描けたこの光景だ。


なぜBiSがこんな表現に辿りつけたのか、必然だったのか、偶然だったのか、もはや分からないけれど、最初からこういうことを意図して始まったわけではなく、しかしいつのまにか「新生アイドル研究会」の名にふさわしくアイドルの本質に迫っていた。
そこには、BiSだけが歩んできた道のりがあるはずだ。

さまざまな反感や関心をもって各所で語られる、BiSに対する世論を見ながら「こういうことだったのではないか」と考えていたことを、折しもBiSマネージャーでインディーズでのディレクターを担当した渡辺氏が話していた。

渡辺淳之介(BiSマネージャー) INTERVIEW

「仕掛ける」という言葉がこの場では使われているが、秋元康のプロデュース術のような、大衆心理を突いた「計算」や「狙い」とは見えない。

そこで起こる化学反応は、メンバーとファンとBiSを取り囲むものすべてが合わさってみなければわからない。「わからない」ということを良く知っているから、計算通りに事を進めようというつもりも、そもそもあまり無いようだ。
BiSが「仕掛ける」ということは、ただ、今のBiSと研究員、そして世の中に、化学反応を起こしそうなものに次々飛び込んでいく、ということのように思える。

私が「考えていたこと」というのは、BiSが、元々アイドルのことをよく知らないスタッフと、最近アイドルを好きになってアイドルになりたいと思った女の子たちとで、手探りで作り上げてきグループなんだろう、ということ。
そして、だからこそ「アイドルってこんな残酷なことだったのか」という事実に後になって直面してしまったのではないか、ということ。

アイドル自身の意志や不満や主張を尊重することと、「アイドルを作る」ということには元々矛盾が生じている。
「女の子の偶像」たるアイドルがアイドルであり続けるためには、操り人形となってその意志を封殺されるか、もしくは操り人形を演じるアーティストとして、セルフプロデュースの才能を発揮することで自らの意志を通すか。
前者の方法が絶対的になっているアイドルは今も多いが、最近でははっきり後者というタイプのアーティストがアイドルを名乗ったり、双方のやり方を取り入れつつバランスを取っているアイドルも多いかもしれない。

BiSが始まった時、プロデュースサイドには、メンバーたちの意志を殺して操り人形化するスキルも、そういうことが必要だという認識もなかっただろう。そしてメンバーにも、ドール的な自己演出をするプロデュース能力もなければ、どんな自己演出をすれば良いかの方向性すらはっきりとは見えていなかったと思う。

だから、他のアイドル以上に互いに傷つき、その傷をファンに隠すことも上手くはできずに多くを露わにしてきた。
例えばもしも…プロデュース方針とメンバー個人の意志が対立するような場面が訪れたとする。そのたびに、いちいち衝突し、いちいち双方が悩んできたのだろう。

しかし、プロデュースサイドの人間とアイドル自身がここまで近い立場でぶつかったり共に悩んだりできる運営だったから、辿り着けた今があるのだと感じる。

「アイドル」と名乗った瞬間から、人々はそのアイドルに偶像を求め始める。
その求めに応えて偶像を形作ろうとすると、IDOLのPVで見たような残酷な光景が待っている。
BiSスタッフだって最初からその残酷さに自覚的だったわけではなく、彼らもきっと、メンバーたちを十字架上に掲げては「この人たちは人形ではなく生身の人間だった」と我に返ることを繰り返してきたのではないか。

だがそうやって我に返るセンスは、アイドルに関して手探りなこのグループだからこそ失われていない、麻痺していない感覚かもしれない。

そして、BiSはなぜか最初から、ケミストリーを信じていた。
そのことに関しては、他のアイドルグループに比べても抜群のセンスだったと思う。
実のところ、アイドルがぐっと面白くなるのは、予期せぬ化学反応が起こった時に他ならない。
そこでプロデューサーもアイドル本人も知らなかった、そのアイドルの魅力が発揮される。

だからきっと今後も、BiSは予測不可能な道を行くだろう。
avexというあまりに意外な大手企業からのメジャーデビューももう目前。
アイドルなのに、「アイドルの現実を直視してしまう」運命に至ったBiSは、とうとう戦う相手を見定めた。

人々の思い描く偶像と、そこに集まる欲望は、アイドルである限り――もっと言ってしまえば大衆の前で表現する人間である限り…さらに、年若い女性であればなお――どんな表現をしようとも終わらない。
どこまでも彼女たちの虚像は欲望され続け、その欲望はあの「100人の不良」のような暴力の化身を常に内に孕んでいる。
5人は今そこに、真っ向から戦いを挑んで行く。
12月20日は凄まじい一日だった。

IDOL is DEAD

「偶像は死んだ」と読むか。
「アイドルは死者である」と読むか。

BiS念願の恵比寿リキッドルームワンマンは満員のうちに成功を遂げ、メンバー・ナカヤマユキコの今年いっぱいでの脱退が告げられた。

ライブは訳がわからないほどのスピードで終わってしまった。

何が魅力なのか、何がそんなにすごいのか、それさえもよく分からなくなりながらただ目が離せなくて、時間が経つのがものすごく早かった。

その深夜には、BiSのパフォーマンスが初めて地上波の音楽番組で放送されるという快挙を見た。
録画した番組を何度も見ているうちに、BiSという人たちがなぜこんなにも自分を惹きつけるのか、少しわかってきた。


新曲『primal.』のイントロとエンディングで、腕を開き、胸を張る振付がある。曲には微妙にあってないように見えるけれど、その瞬間がすごくぐっとくる。
体全部で自分自身を表現するかのように。思いを前に押し出すかのように。

ぐんとしゃがみこんで屈伸するところもいい。
ここに立っている、自分がいると確かめるように踏みしめる。

BiSのパフォーマンスは、「1人の人間としてここに存在している」と、主張するというよりは、自分自身で確認しているかのようだ。
だから、看過してはいけない、ただ可愛い女の子として消費してはいけないという気持ちにさせられる。


primal.のPVは傷跡メイクを接写し、口内にカメラが入り込む少々グロテスクなものだった。
映像作品になると、BiSはディープキス、全裸、口内と、過激な様相を呈してくる。
こういう作品から先に知って、その後ライブを見た人は、本人たちの意外な爽やかさ、気取らず可愛らしい様子に驚くことが多い。

BiSという人たちが表現していることを映像という形で端的に表そうとすると、生々しく強調するしかないのだろうと思う。
ただおしゃれな映像にしてしまったら、普通に可愛い「アイドル」になってしまう。


それだけ「女の子」という表象はイメージを付加されやすく、消費されやすいものなんだと思う。

「自分たちは、消費することがためらわれる“生身の人間”なんだ」、と示す。
映像にしてもライブパフォーマンスにしても、BiSの表現の根本は、そこに集約されるのではないだろうか。


一方でとても怖いことがある。
生身の人間である、という表現を目の当たりにして、そこで怯む感受性が見る側にあるうちはいい。
しかしその表現方法は、「生身の女の子」を消費できると錯覚させる仕組みにもなりかねない。

一度感覚が麻痺してしまえば、「アイドル」というペルソナ、可愛さや「女の子」に特化したキャラクターを消費するよりも、実在する「生身の女の子」を消費する方が面白いと思う者も多いだろう。

その「生身の女の子」というのも、「全てをさらけ出している」という付加イメージから来るひとつのペルソナにすぎないと思うのだけれど。


BiSという人たちは、けして生身の自分たちの姿を公然に晒しているわけではない。
ただ「生身の人間がここに存在している」というメッセージを発しているだけだ。
この違いは微妙だけれど大きい。

『primal.』のPVを見たら、メンバー1人1人の生があり、歴史があり、思いがあり、その全てはファンどころか実生活で出会う友人や仕事仲間、家族でさえもきっと知り得ないのだという気がした。
そう思うとカメラを見つめるプー・ルイの視線も、なんだか中森明菜の『少女A』や『1/2の神話』を思い出したりする。だれも本当の私を知らない、だれも私をわかってくれなどしない、とか。


アイドルでもなんでもない、ただの女として現代に生きているというだけでも、「女の子」として消費されることはたびたびある。
「女の子」として消費されること、それじたいも、BiSメンバーたちの生身の日常に含まれている。
だからこそ、プライベートな日常の自分にまで侵入してこようとする暴力的な視線に、BiSとして活動していく覚悟や、「プロ意識」ゆえに、応えてしまうこともあるかもしれない。

本人たちも、「生身の人間として表現すること」と「生身の自分を消費の目線に晒す」ことの境界を危なげに綱渡りしているような状況なのではないだろうか。


ユケ(ナカヤマユキコ)はその綱渡りから降りることを選択した。
その選択が間違いや逃げだなんて、誰にも言うことはできない。
ともすれば暴力的な視線にさらされ、すり減らされる危険をともなう場所に、居続けろと言う権利は誰にもない。


だけれど、BiSという場所は、消費されることを否定する人間にとって危険な場所であると同時に、生存のための場所にもなりうる。

あんなに可愛らしいあの人たちが、危険と隣り合わせでなければ自分自身の存在を叫べない、生存場所を確保できないなんて、歪んだ世の中だ。『primal.』のジャケ写、アー写は、満身創痍のBiSだ。


けれど残された3人は、新生アイドル研究会BiSであり続けることを選んだ。
「自分たちはここにいる」と、叫び続けることを。
「靴ずれした両足でここに立ってたいんだ」と。

これから先、BiSが放つメッセージ、その存在から、けして目をそらすことはできない。


JPN(通常盤)JPN(通常盤)
(2011/11/30)
Perfume

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JPNってもちろんPerfumeのニューアルバムJPNですよ!

いろいろ一生懸命このアルバムに込められたものを読み取ろうとしてきたんですが、結論からいっちゃうと、
「約束」と「決別」、そして新たな「始まり」の1枚だな、と思いました。



1.〈OPENING〉でひっそりと、しかし何かが始まる予感を秘めた幕開け。
2.〈レーザービーム〉、3.〈GLITTER〉でアルバムミックスを畳み掛ける流れは、まさにフロアでDJプレイしているイメージ。Perfume Nightが始まった!と感じさせる。
レーザービームが、シングルの時のクールなイメージから、かなり微妙なベース音の変化によって軽快でユーモラスにイメチェンしているのも耳を引きつける。

4.〈ナチュラルに恋して〉では一気に日常の雰囲気になるんだけれど、フェードアウトで終わるGLITTERからフェードインで始まるナチュ恋へと、日常へシフトしていく感じがまた秀逸。

しかし、Perfume Nightの始まりを告げるかのようなオープニング3曲のために、日常を描いていてもどこか、ショーの一部、虚構の日常のようにも思えてくる。
その感覚は5.〈MY COLOR〉が、歌詞は日常のひとコマを描きながら音楽はこれまでのPerfume楽曲の中でも特に踊りやすい、直球の4つ打ちとノリやすいメロディーの繰り返しで構成されていることからも強まっていく。

この、ポップで歌いやすく大衆向けっぽくもありつつ、「踊れる曲」でディスコな雰囲気も持つ、という特徴は、他の新曲11.〈心のスポーツ〉12.〈Have a Stroll〉にも共通している。

Have a Strollってなんか、すごく典型的な何かをなぞってますよね?
詳しい人知識ください…
なんかcymbalsのカバーかなと思ったのですよ。
なんというかこのアルバムは、直球が逆に変化球になってるみたいな感じが多々ありますね。

11.より前には変則的なリズムだったりおとなしめだったりと、あまり踊り向きでない感じの曲がだーっと挟まっているし、13.〈不自然なガール〉ではスクラッチのようなアレンジが入っていて、冒頭でイメージしたフロアの世界に、最後にまた戻ってきたように感じさせる。



さてここからは、さらに歌詞の世界に踏み込んでみたい。

やはり問題作は6.〈時の針〉。

今までのPefumeでは考えられないような、シンプルなアレンジ、ほぼ加工の無いソロボーカル。
どっぷりなファンでない人だったら、もしかして初めてここではっきり3人の歌声を知るかも。

この時の針、歌詞はなんだかウェディングソングのような雰囲気だ。
しかしインタビューなどを読むと3人はあまりこの歌に関して「結婚」という意識はないようで、もしかしたら、別の解釈が話し合われていて、それをあえて言わないのかも、と勘繰ったりしてしまう。

ウェディングといえば、思い出す光景がある。
2010年11月東京ドームライブのオープニング、純白の衣装に身を包んだ3人がそれぞれ別々の花道から中央のステージに集まってくる、「GISHIKI」だ。

あの日ふたりで交わした誓いを胸の中に
大切に守り続けよう 時の針がまわっても


あのGISHIKIは、Perfumeとファンの間で交わされた何らかの誓いだったかもしれない。
同じニュアンスはGLITTERの歌詞にも登場する。

キラキラの夢の中で
僕たちは約束をしたね


しかし、約束は「夢の中で」、どこか儚い。
時の針では、

ふと思い出す景色のように
永遠になれたらいいな このまま


「永遠」は、すでに過去の景色。

それは、「永遠性を持つ一瞬」なのだと思う。
あの日Perfumeとファンが見つめた、「Perfume」という永遠の約束は、一瞬の中にしかない。

10.〈VOICE〉にくると、

キュンとする一瞬の恋が
輝く宝石みたいに続くなら


それが一瞬のもので、ずっと「続く」ものではない切なさが、はっきりと示されている。

そう思うと、時の針からVOICEにいたる7.〈ねぇ〉8.〈微かなカオリ〉9.〈575〉も、なんだか「一瞬の恋」の不安や儚さを感じさせる。
特にねぇは、明るい歌詞が、鋭い音とメロディーを上滑りしているようで、最後まで繰り返される「ねぇ」の声も妙に不穏だ。

終幕の4曲に入るとさらに不安は増していく。
心のスポーツは、「恋という心のスポーツが運動不足」だと歌うし、Have a Strollは「ないの」「足りない」「ひとつない」「合わない」と繰り返す。
Perfumeとファンの間の恋の危機。両者のずれが生じている。

そして不自然なガール。この曲、片思いの切なさという以上に、何かが終わってしまったような虚しさと哀切を感じるのは私だけではないのでは。

can't stop feeling 不自然なガール
これ以上苦しめないでね


前作「⊿」で完成されてしまったPerfumeという1つの虚像。
しかし、Perfume本人たちは変わり続ける。ずっと同じ虚像を保てない。

だからその時が訪れた。
畏れていた瞬間か、それとも、待ち望んでいた瞬間だろうか。
正直言うと、私はもうずいぶん前からこの時を待っていた気がする。
いつか「違うPerfume」にならなきゃいけない時が必ず来ると。

14.〈スパイス〉
Pefumeは新しい扉を開いた。

知らないままいれば、その扉を開けなければ、完成された「Perfume」の中でずっと楽しんでいれば平和だったかもしれない。けれど、

Everything you need to know.(VOICE)

その扉を開けずにいられるはずがない。
新しいPerfumeが始まる。

だけど、変わるものもあれば、変わらないものもある。
スパイスではこう歌っている。

巡り巡り何か起こすの

すでにピンと来た人もいるはず。
〈ポリリズム〉だ。
変わることは、全てが書き換えられることではない。
「巡り巡る」こと。
それがどんな形になるのか。
たぶん、来春からのアリーナツアーでその第一歩が示されるんじゃないかと期待している。


JPNというタイトルは、これから世界に打って出たいという決意を表したものだと本人たちは話している。
新たなPerfumeの始まりを告げるアルバムのタイトルに、世界での「デビュー」を示唆する言葉を持ってきたこと、すでにチャンスの足がかりができていたためにこの言葉を持ってくることができたことに、運命的な何かを感じる。

「過去」に決別し、新たなの好奇心の行先へ手を伸ばしている。そんなPerfumeの「今」。
JPNを、「Just! Perfume! Now!」と読んでしまうのは、ちょっとダサすぎるだろうか…
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