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熱が出るのは悪いウイルスを殺すためだそうですが、鼻水が出るのはどういう作用なんでしょう。まあなんか似たような意味はあるんでしょうけど……などとタミフル飲みつつ思うインフルエンザな日ですが、暇なわけでもないのに珍しく更新してみたりします。


餓死する犬を展示 これがアート? バルガス コスタリカビエンナーレ/千の骨
ちょっと前から一部、とくに愛犬家の間で話題になっていた署名運動なのですが、上記のブログが、英語サイトの訳も載っていたり、署名の主旨もきちんと伝えていて、私の調べられる範囲ではわかりやすいものだったで紹介させてもらいました。

コスタリカのギジェルモ・アバクク・バルガスという「自称アーティスト」が、ある犬を、故意に餌を与えずに餓死させて、その死んでいく様を「アート」として「展示」した、というニュース。
署名はバルガスがホンジュラス中央アメリカ・ビエンナーレ2008に自国代表として選ばれたことに対し、ボイコットしようというものです。

署名はこちら

これが「動物虐待アートを禁止する署名」とかだったら、また面倒な話になっていたところなので、署名の内容を考えた方はなかなか賢い!とちょっと感動してました。
ヘタすると剥製やら、もっと言うと動物園、水族館なんかにも飛び火する可能性ありますからね。
署名の発起人が愛犬家かはわかりませんが、ともすると過激になりやすい動物愛護の感情をうまく逃がした点でもエライと思います。


で、その「動物虐待アート」の定義という難しい問題をうまく避けた署名運動でありますが、それについてまた別に、考えさせらる記事もありました。
Realtokyo/column/Outoftokyo/179.犬と鼠

ここで紹介されているチン↑ポムの『スーパー☆ラット』という作品ですが、まあ、殺して剥製にするのは、飢えでじわじわ弱って死んでいく動物を「展示」するのとは全然違うとは思いますよ。
そういったことも含め、バルガスの方は全く「作品」とは思えないのですが、チン↑ポムの方は「作品」として捉えられるものなので、確かにチン↑ポムの方が優れているのかもしれません。

ただまあ、チン↑ポムの作品が芸術的にさほど優れているとも私には思えなかったのですが……
おそらく、出来上がったその剥製のピカチュウよりも、その捕獲の様子を捉えたDVD映像の方が面白いんだろうな、と思いました。

剥製に彩色してピカチュウにしたその作品には、都会の鼠、したたかで生存本能の過剰な「スーパーラット」の「スーパーラット」たりうるところが全く失われていて、なんかがっかりする。
何か前にあったんだよね、ネットで、ハムスターの画像に色塗って、ピカチュウっていうやつ。
あれが先にあるからなあ。っていうか誰でも考えるか、そんなこと。

何より、作者が奇をてらってる感が作品に表れちゃっているところが面白くないんですよ。
何だかわからない、不思議な感覚がない。人がなんがしか手を加えた、という部分がやたら強い。
作品の主張よりも作者の自己主張が強いといったらいいのかな。

で、このサイトの記事の、犬の写真と鼠の写真をもう1度見比べてみると、これが、犬の写真の方が印象に残るし、迫力がある。畏怖に近い感情を起こさせるところがある。
いうなれば、芸術性が高いともいえる。
これは、決してバルガスの方がチン↑ポムより芸術性において優れているということではありません(まあバルガスはたぶんただのラリッた男なんだろうけれど)。

結局、生き物の生や死のそのままの姿に勝る芸術なんてないという、けっこう当たり前の真理に当たってしまうわけです。

これを語るともっといろんな話が入り組んできちゃうんだけど、やっぱり、「死」すら殺してしまっているチン↑ポムの作品は、生き物本来の面白さを完全に面白くなくして出してきたようにしか思えないんですよね……
でも、それが逆に狙いなのかな??
だとしても、そんなに意味的な部分で狙った作品ってやっぱり面白くないと思うし。



ところで、Real tokyoの方に、犬を餓死させたのはデマ、みたいな記事が載ってますが、その辺の判断はご自身でよろしくお願いします。

なんかいろいろ話反れたような……まあ、いいか、タミフル中だし(笑)
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ミクシィの文芸創作コミュに面白いトピックが上がっていて、面白いので回答したら、2年くらい前のトピックで質問者はもうミクシィにいないらしいとのこと。

けっこう面白いことが書けたと思ったので、こっちに転載します。

さて、いま面白いって何回かいたでしょう?←しょーもなくてすんませ;



質問の要旨:
「文学の言語使用の特殊性」「言語化することの意味」を考えています。
皆さんはなぜ小説や詩を書こうと思いましたか? なぜ言葉にしようと思いましたか? 言語化する意味とは?



で、こう書いた。


人間は物語を必要とする動物であることは、とても不思議なことです。


「言葉」は、意味のないものに意味を与える、混沌とした物語のない(我々の元々の)世界に物語を与えるものです。
そのために筋道がなぞられ、混沌が切り捨てられる、または覆い隠されるために、「言葉」というものは表面的であるともいえます。

しかし人間は物語を求めるとともに、芸術に対しても貪欲です。
芸術は、人間が意味を与えることのできない混沌の世界を表現しようとします。


実は、小説など「物語」を書くことは、もともと物語を持った「言葉」を様々な方向から重ねることで、混沌を表現しようとする芸術の行動なのではないかと思っています。
「詩」においてはもっと直接的に物語を否定して言葉を重ねる行動になっている。


私自身は、まず詩から書き始めました。
人と関わることが極端に少なくなってしまった頃があって、そうすると人は自分がわからなくなるんですね。
言葉によって物語化して、救われていたんです。
思えばコミュニケーションも言葉による自身の物語化かもしれません。

そしてそれは、詩にすることによって再び物語のない混沌を目指す。
それは、自分の中にある「否物語」の部分を肯定してやる行為だったのかもしれません。

今は主に小説を書いています。
やはり、物語を書きながら、言葉に出来ない地平へたどりつきたいという気持ちがあります。
人に言葉を伝えたいのではありません。「否言葉」「否物語」の地平で人々と結びつきたいのです。




あ、あんまし面白くなかったっすか?
私は面白いんだけど(笑)
ブログの更新がなさすぎてまずいと思うので、なんか普段考えたこととかもいろいろここに書くことにしようかなーと思ってます。

世間のひとは誤解している!! と思っていることが普段多いので。
その辺のこといろいろ。


でも実際書くとなると何だろうなあ。



じゃあネタになりそうな話を箇条書きにしてみよう。

・「絵の才能=技術的な上手さ」ではないことはけっこうみんな知ってるのに「歌の才能=技術的な上手さ」ではないことは知らない人が多すぎると思う

・「アイドルは顔だけを売りにしている」と勘違いしてバカにしている人が多いこと

・「本物の友情」「本当の人間関係」を信仰するより自分の身の周り全部本物だと早く気付けと思うこと

・「空気より文脈を読め」っていう毎日新聞のコラムが、内容の詳細はともかく題名が私が前から思ってたことで超びびったw




あー今んとこ思いつくのはこのくらいかなあ。

じゃあ今日は最初の一個目くらい語っとく。誰がこんなん読むかわからんけど、そういうブログにするのだからいいのだ。(笑)


[テーマその1]
・「絵の才能=技術的な上手さ」ではないことはけっこうみんな知ってるのに「歌の才能=技術的な上手さ」ではないことは知らない人が多すぎると思う



なんかね、「味がある」とか「上手いというより聴かせる」とか、言うでしょ。

美術においてはそっちの方がむしろ技術力より重視されたりするんですけどね。訴えかけるパワーがあるかどうかってところが。
もちろん技術があることもそのための武器としてものすごく使えるはずなんだけどさ。

なんで歌になると、声量が足りなければ、生歌で音程が不安定になれば、「こいつは偽者」扱いになるんだろうね?明らかに、そんなことどうでもいいくらい才能ある人なのに、なんでわからんのだろうと不思議に思うことがありますよ。


思うにですね、音楽にはクラシックってジャンルがあるんですよ。
技術力の完成あってこそ、はじめて魅せられる芸術が。

ところが美術だと、ダ・ヴィンチとかピカソとか完成された技術をもって魅せる人と、ルソーとかシャガールとか、まあ技術があるかないかは別として、なくてもあんまり作品の魅力に関係ない人らが、ジャンル基本同じ場所に立ってるんですよね。
中にはクレーとか、日本画なんかもそうだけど、技術の凄さで魅せるやつとちゃちゃーと一筆くらいで描いちゃったのに魅せるやつと両方やる人もいるじゃん。
だからこそ見る側もどうやって見たらいいか、基準を自分の中で鍛えなきゃならなくなってくるんだよね。


あと、鍛えられるといったら、やっぱり美術の方が音楽より鑑賞が難しいんだろうな。
音楽は自分から向かっていこうとしなくても勝手に耳に入ってくるし、歌うことで参加して簡単に楽しめるし。で、音楽そのもの以外の要素も周辺にいろいろくっつけてる。
アーティストのビジュアルとか、パフォーマンスとか、キャラクターとか。
美術は美術以外の要素っていうと薀蓄になってくるだけだからね。

まあその分音楽そのものを鑑賞することは美術鑑賞と同じくらい普遍性がないので、周辺要素から形作られてくる誤った価値基準が横行しているんだよ。きっと。


それを言うと、文学はどうかって話になってくるけど……
これ、難しいな。
「物語」と「言葉」の両方から文学性を見なければならないよね。
だからこそ、「物語」を取りはらった純粋な「言葉」の芸術を目指して「詩」があるのだけれど、「言葉」というものは元々「物語」を孕んだものなので最初から矛盾が生じている。



詩の鑑賞は美術鑑賞よりとっつきにくく思われてますからねー




今日はこの辺まで・・・
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