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フェミニズムはだれのもの?―フリーターズフリー対談集フェミニズムはだれのもの?―フリーターズフリー対談集
(2010/04)
フリーターズフリー

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読みました。

まともに…というかまともにじゃなくても、社会学を学んだことがない人間ですので、フェミについても全然知らないで読みましたが、もっと勉強しなきゃなあ、と思いました。


最初の、フリーターズフリーのメンバー3人と上野千鶴子さん、貴戸理恵さんトークで、まずフェミニズムの歴史とか、どういう学問なのかについてちゃんと知った方が良いんだなあ、と今更ながら。まさにそういう中で生きてきた上野千鶴子さんのような人たちのことを。
フェミも色んなのがあって、代表的な名前とされてる人たちは実はそれぞれけっこう違う考えのもとにあって、重なるところや対立するところを交差しながらやってきた感じなのかなあ、とか。

ところが、そういう長い歴史を歩んできた世代の上野さんと、いわゆるロスジェネ世代のフリーターズフリーメンバーとの間には30年の隔たりがあるという。じゃあ私だったら、40年の隔たりか。

そりゃ、世代によって抱える問題が違って当たり前だとは思うけど、今現在同じ時を生きている者同士でもあるわけで。別に現在ある問題に対して関与しないつもりなんかないんだろうし、それぞれの世代が今抱えている問題は、つながる部分が全くないわけがないと思うし。
世代間の隔たりっていう問題のとき、そのへんがパッと出てこないもどかしさがあった。
上野さんが若い世代を「後続」と捉えてたり、彼らの30年後がとかいう話をするってなると、結局自分を過去の問題にあたってきた人間としてしか捉えてないんじゃないかな?と……今現在ある問題に向き合ってはいないの?と思ってしまう。
そう簡単には「過去はいいよ、今だよ」とはいえないのかもしれないけれど。つながるとしたらそこしかないんじゃ。

フェミニズムというものに対して、男女の隔たりを感じてしまう部分も、そういうとこがあるなあ、と思う。
この間落合恵子さんの講演会に行って、「女性差別はナショナリズムです」という言葉に非常に感心したのですが。
同じナショナリズムという抑圧のもとに、それぞれの立場で、それぞれ違った問題を抱えているんだと思うんだけど、そういうことをなるべく洗い出して、自覚的になっていけば、もっと同じ地面に立ってつながれる部分ってあるんじゃないかなあ、と。
実際には、お互いにわかりあうのが非常に難しいのは実感してるんだけれど、同時に、自分の周りや同世代の中で、そういうことが実現できるんじゃないかっていう感覚もある。ありえるんじゃないかな?と。そのへんも、私は世代が違うのかもしれないけれど。


鈴木水南子さんと栗田隆子さんの対談は、労働に殺されるっていうことについて改めて考えた。
以前から自分は、「生きていくために仕事をするんだから、仕事のせいで生きていけなくなるくらいだったらやめた方がいいよ」とか他人に言っているんだけれど。
「生きていける」っていうのは、単に収入がある、食いっぱぐれない、自殺願望がない、とかそういうとこまでいく以前の段階の、生きていけなくなってる状態があるんじゃないかと思う。
たとえば私が、恋愛しなくてもいいんだ、と思った瞬間「これで生きていける」と思えたように。何か、日々自分のある部分が殺され続けるようなことってあるんだと思う。

「この仕事をして生きていける」と思えること。
非常に基本的なことだけど、そう思える仕事って今本当に少ないのかもしれない。

好きなこととか、一生続けられるとか、夢とか、そこまでの話にすぐ世間は飛躍するんだけれど、そうじゃなくて、今現在この仕事をやることが、自分を殺さないかどうか。労働条件もやりがいも含めて。
そういう仕事が見つからないなら、仕事をしないで生きていくという選択肢も、何らかの形であってもいいんじゃないかとも。

しかし、風俗じゃなくても、普通に企業で働いている人に対しても「こんなところにいたら死んじゃうよ、人格が崩壊しちゃうよ」と言わなくては、と鈴木さんが言うのだけれど、それは私、人に言ったことがある。
でも、なかなかそれを聞き入れてもらうのは難しい。
仕事という場所にコミットできない人間は死んだ方がいいんだ、と思っている人はたくさんいる。
今自分が上手くいっている人でそんな残酷なことを言う人は少ないけれど、自分自身が仕事が出来なくなった時に、そういうことを口にする人はかなりいる。

あと、「反婚」ね。結婚制度ってなんでこんなに未だにややこしいし、矛盾だらけなんだろう。
うちのお兄ちゃんも仕事が安定しないせいで決まった人はいるのにずっと結婚できない。家族を作るのがかんたんなことじゃないのは当然だけれど、よけいなものが多すぎる気がする。
だけど、家族を作らないこともかんたんじゃない。
私が積極的に結婚したいと思わない、と言うと、同世代にも「一生ひとりなの!?」と目を丸くされる。
不思議なんだけど、パートナーや家族以外の人間関係は、孤独を埋めるものにはカウントされないのか。私には心から愛する友人が数人いるけれど、それでも私は「ひとり」ということになるのか。


「草食系男子の恋愛学」を書いた森岡正博さんは自らを「フェミニズムの申し子です」と言う。
私が自分の周りの男性に言いたいことがたくさん書いてあった。

ほんとうに、最近「男の人はかわいそうだな」と思ってしまうところが、私にはある。
森岡さんが「男としての自分が恋愛や性愛、セクシャリティの面でズタズタに傷ついているにもかかわらず、何も痛みはない、自分は無傷の加害者である、というふうに自分を欺き続けていた。そういう形で社会構造の中に自分を適応させてきた」と話すところ。

これなんだよなあ、と思う。社会に傷つけられている女性は、個人差は大きくあるけれど、少なくとも何か自分が被害にあっているんじゃないか、と疑問に思う部分はやっぱり多少持っている気がする。
男性が、こんなの当たり前だ、できなきゃだめだ、とか言うところに、傷口から血を流しているのに自分で気付いていないような感じを受けてしまって、呆然と私はそこに立ちすくんでしまう。それで、「彼らはかわいそうだ」と、たぶん失礼なことだろうけど、思わずにはいられない。


あと、カトリックのシスターとフェミのシスターフッドの話も面白かった。
これ、実は私、よくわからない。いいのか悪いのか。
女子会は私、すごく好きで。だってそりゃあ、めちゃくちゃ楽しいですよ、女同士でしゃべくり合うの。
でもその楽しさって、運動としてそこまで有効なものなのかな、という疑問はある。もちろんそこから生まれる有益なものはあるんだけれど、「シスターフッド」という言葉を前面に押し出す意味については、それでいいのか、と思ってしまうところが。

なんというか、世代間の問題でも感じたけど、「わたしら」と「あんたら」。
これを感じてしまう。
たぶん、男女とか世代とかそこまではっきりした違いがなくても、この人は「わたしら」に入らないな、という人に対する排他的な感覚。それって仲間を作るってうえでどうしようもない部分もあるんだけれど、積極的に肯定はしちゃいけないんじゃないかな、と。

違うからわかりあえない、って、行き着くところは殺し合いみたいなイメージがあるんだよ。
だってそれで、今現在も、たくさん殺されているじゃないですか。日本の中で。



あー、書き始めたら止まらなくなってもうこんな時間。
今日友達と出かけるのに。もう2時間しか寝れないけど寝ます。
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