「なぜ渋谷・宮下公園をナイキ化してはいけないのか」

A.I.R Miyashita Park
http://airmiyashitapark.info/wordpress/
みんなの宮下公園をナイキ公園化計画から守る会
http://minnanokouenn.blogspot.com/

宮下公園ナイキ化に反対する人たちへ、「なぜ」を投げかける人が多く見えるようになってきました。
このこと自体は、とても良いことだと思います。
今まで疑問に思わずにやりすごしてきた人たちの中に、反対運動という異質な動きが、放っておけないレベルで入り込んできたのかもしれません。

しかし、これには様々な角度から語られる問題が入り組んでいて、「なぜ」と投げかけるたびに違う答えが返ってくるという状況にもなりかねない部分があると思います。

私自身が捉えうる、問題点をいくつか述べてみます。



●まず、渋谷区の言い分や行動に、多くの矛盾があり、暴力的な論理があること。

TBSラジオ Dig「渋谷・宮下公園。今どうなってるの?」
http://www.tbsradio.jp/dig/2010/09/post-390.html

Our Planet TVの白石草さんが宮下公園について語っている番組ですが、渋谷区の伊藤毅志区議も電話で出演しています。
この伊藤区議の話ですが、そもそもスポーツパークに「改修」する目的が区議の語るとおりのものだったら、まったくそのまま通すわけにはいかない暴論。

渋谷駅の玄関口にある公園に、野宿者が多く住んでいる環境や暗い・怖いイメージは望ましくない、その状況改善のため、という理由が上のラジオでは語られていた。
その後伊藤議員は、支援策も行っている、と強調するが、それでもまだ公園に住む人たちがいなくならないので、スポーツパークとしてきれいに整備したらいなくなるだろう、という。

…つまりそれは、支援しきれない野宿者は、排除するということでは?
そして、そもそもの「改修」の目的が排除だと、区議自身が語っている。
行政の支援策で救いきれない数の野宿者がいるのが、日本の現状だとして、その人たちを水の確保ができ、テントによって雨風をしのげる公園という場所から改修工事の名目で追い出すことに、暴力以外の何の意味があるのか?


●公共という「誰でも自由な場所」の喪失

TBSラジオ デイ・キャッチ!「渋谷・宮下公園の未来」
http://www.tbs.co.jp/radio/dc/fri/

ここで宮台真司さんも語っているが、渋谷は本当に、落ち着ける「隙間」が少ない街だと思う。
ちょっと座って休んだり、何か食べたりする場所。
昼寝する場所。
考え事や、ただひたすらぼんやりしたい時を過ごす場所。
パフォーマンスやその練習をする場所。
子どもが創意工夫して遊ぶ場所。

宮下公園って本当に、細長くて、隙間そのもののような公園だ。たぶん実際、あまった隙間に作ったんだろうと思う。
でも、木陰といい、適当なスペースといい、“何もしなくてもいいし、何をしてもいい場所”としては最適な公園。観光スポットになるような立派な場所じゃない、誰でも使える近所の公園だと思った。

ナイキの提案書やイメージ図が↓で見られる。
http://www.ourplanet-tv.org/?q=node/639
とくにここの、「2008年2月ナイキ提案の公園イメージ」を見てほしいと思う。すごく、隙間が埋められる感覚がするんだけれど、この嫌な感じ、人によっては伝わらないものなんだろうか。

しかも、スポーツ施設は有料で、夜間施錠管理されるという。
さまざまな商業施設が埋め尽くす渋谷という街の、わずかな隙間だった公園さえも、商業施設に作り変えようとしている。
渋谷の目指す方向は、「カネをはらえる人だけが居られる街」なのか。

また、この「ナイキ公園」、緊急避難場所としての機能はほぼ失われると考えられるのだが。その意味でも、ただの「整備」だというのは嘘だし、公共の場所としての「公園」というものではなくなってくる。渋谷区は別の避難場所を考える必要が出てくると思うけれど、そのへん、どう考えてるんだろうか。


●直近の問題として…不法な暴力行使があったこと

15日の封鎖に伴い、公園で生活していた何人かが、強制的に外に追い出された。
彼らの荷物が公園内に残され、取りに行くために押し問答のような事態になったことからも、荷物を用意することもできないような強制的な排除があったことがうかがえる。
しかし実際に追い出された人の話は、もっとひどいものだった。

どんな場合であれ、意識のある人を数人で抑えつけて、モノのように運び出すなんていうことが、あってはならない。
このことを考えると、今でも涙が出るほどショックだし、本当に怒りを感じる。

日本を、東京の渋谷という街を、暴力にものを言わせて支配する世の中にしないという、そのたった一つの意味だけでも、渋谷区のやり方に反対する正当性は大いにあると知ってもらいたいと思う。




…それでも、野宿者や反対団体による不法占拠はよくないんじゃないか、という人々もいる。
しかし、考えたことがあるだろうか。「占拠」の意味。私は宮下に行くたび、それがわからなくなった。

私自身の宮下とのかかわりはそんなに深くはなく、上映会や勉強会のお知らせをもらって遊びにいく程度だったけれど、夜の宮下公園を歩いていくと、ハンディカメラで何かの撮影をやっている若い人たち、アカペラコーラスの練習をしている人たち、反対運動とは関係なく、さまざまな人がいろんなことをしていた。
イベント開催場所で、映画を見たりディスカッションしたりしていると、飲み会に行く人たちや、カップル、サラリーマンなどがその横を通り抜けていく。通り抜けながら、ちょっと立ち止まって見ていったり、ちらちらと興味ありげに見ている人もいて、それが楽しかった。

一体公共空間にいることの、どこからが占拠で、どこまでが占拠じゃないんだろうか。

ただ座るだけ、寝転がるだけでも占拠?
椅子を置いて座ったら占拠?
物を置きっぱなしにしたら占拠?
夜寝泊りしたら占拠?
テントを張ったら占拠?
ダンボールハウスでも占拠?


…ていうか、私も本気で公共哲学勉強しようと思いました。流行ってるし、サンデル先生(笑)


最後に、23日の抗議行動の様子を写真とともに。
すごい数の警察の護送車と、警官が封鎖した出入り口付近で立ちはだかる様子が異様でした。
マイクパフォーマンスでは、女性の活躍が目立っていたように思います。
女性や子どもの「安心」「安全」は、カネや権力や、暴力によって守られるものであってはならない、力の弱い人が主導的に「安全」でいられる場所が、公園でなくてはならない、と。
本当にたくさんの人が、どしゃぶりの雨の中、熱い気持ちで集まっていました。

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9/19、札幌で開催されたカトリック正義と平和協議会全国集会に、私が参加しているJOC(カトリック青年労働者連盟)が発題する分科会が開かれるということで、東京JOCのみんなと札幌へ旅して、参加してきました。
札幌、大阪、広島のJOCメンバーとも再会したりはじめましてしたり、一緒に寝泊りして夜はバーベキューしたりと、働く若者たちでわいわいと、かなり楽しんでまいりました。

JOCがやったのはコチラの第9分科会
http://www.csd.or.jp/gyoji/seiheiannaisho2010.pdf
「若者のディーセント・ワーク―人間らしい働き方―」
講師は北海学園大学准教授で、反貧困ネット北海道副代表の川村雅則さん。

最初に全国のJOCから4人の青年が自分や周りの人たちの労働状況について話して、その後川村さんが、それぞれが語った内容を引き継ぎ、講演。
いろんな働く状況、働けない状況の資料が配られたり、それぞれの問題に、川村さんは的確に背景にある構造を指摘してくれて、とてもわかりやすい。

NHKの「フリーター漂流」の映像を資料として見る場面もあった。日雇いで「誰でもできる仕事」と自分の仕事を卑下しながら雇用の調整弁としてあちこちに漂流するように働く人たちの姿を映した番組だった。

そういう中で、あいだに数人のグループに分かれてのディスカッションを挟む。
私が話し合ったグループは、20~30代くらいの男女4人、50~70代男性が2人。
この2人の男性たちと、思わず対立してしまった場面があった。
私が1人がっと食いついてしまい、20~30代のメンバーはやんわりと私の方の擁護に回る人たちと黙って見守る人、という、何となくだけど、世代間対立の形になりかけた雰囲気があった。

ディスカッションは3回あり、お題は
1.若者の働く実態を知ろう
2.その背景を考えよう
3.どうすればよいのか、知恵を出し合おう
というもの。

その2人の男性たちからも、最初の2回の時は、「“自己責任”といって人を人として扱わないのは経営者側の言い訳だ」とか、「日本経済の傾きが、一番弱い立場の人々を最も苦しめているのはおかしい」という発言があったんだけれど。

最後の3回めのディスカッションの時、1人の中高年男性が「仕事をまずがんばって、仕事ができることで会社の中で発言力をつけるのが大事だ」と言い始め、もう1人も「まさにその通り」と。「自分たちはそうしてやってきた」という。

時間がなかったのもあって、2人めの話の時、思わずカットインしてしまった。
「さっきのフリーター漂流、実はとても社会貢献度の高い工場労働なのに、『誰にもできる仕事』だと企業や社会から貶められているあの人たちが、ひたすらあの仕事を頑張ってやって、それで発言力をつけることが可能だと思うんですか」って。
もうそのロジック通じないって現状がいくらでもあるし、仕事ができる=発言できるという構図じたいに問題があるという気持ちが、私の中に強くあった。

答えは、胸を張って「可能ですよ」、だった。

日本には、一人前と認められるようになって初めてものが言える、という考え方が強いように思う。
しかし、「一人前と認められる」基準は非常にあいまいだ。仕事そのものの能力が低くなくても、職場の「空気に溶け込めない」、「浮いてる」という人たちが、職場での評価が低くなったりする。
もちろん、実行が伴ってる方が説得力が増すっていうのはわかるんだけど、どんなに怠けてようが、未成年だろうが、「ものを言う権利」は誰にだってあるという大前提としての認識がとても薄いと思う。
本当は、仕事ができてもできなくても、がんばっててもがんばってなくても、元々の権利として、誰だって発言できるわけで。

この認識を広めること、これから社会を担うことになる人たちに教育していくことが大事なんじゃないかと思うんだけど、そのことをあの場で説明しきれなかったのが悔やまれる。

もっと言うと、「ものを言う権利」どころか「生きる権利」すら理不尽に奪われている実態を、この会の中でいくつもの例によって見てきたわけで。
そういうところに「仕事をがんばって発言力をつけよう」という言葉は、ものすごく距離を感じてしまう。
実際に、資料としてだけでなく、その場で発表した青年たちの状況だって、とてもその方法が有効だとは思えないものがたくさんあった。労働者の人権がないものとされ、職場が「無法地帯化」し「無権利状態」になっている(川村さんの言葉による)。
私の周りでも、職場で人間としての価値すら貶められるような言葉、ハラスメントを受けているという話が本当にいくつもある。

もっと社会の認識じたいが変わらなきゃいけないんじゃないか、ということを言うと、
「あまりに大きな理想だと実現が難しい、明日からやれることを考えるべき」とも言われたんだけど、
「仕事をがんばって発言力を増す」ことが、今の社会で、明日からやれる現実的な対策なのか。
そして、戦略を考えるために目標の方向をずらしては、本末転倒じゃないかって。

しかし、時間が足りなくて最後まで議論できずに終了。
まとめてくれたディスカッションのリーダー役の青年に感謝、と思いつつ、くやしかったです。


しかし、当事者性っていうことを重く感じた。
こういうつまづきは、どちらかが当事者でないということより、別々の当事者性がぶつかってしまうというところかもしれない。彼らが、彼ら自身、職場で戦った頃の当事者であったからこそのすれ違いというか。

しかし、年齢にかかわらず、すでに退職していたとしても、誰だって今の時代の当事者であるわけだ。
彼らにも、今現在生きる者として、きっと何か、同じつながりの中の問題がのしかかっているはずじゃないだろうか。


実際世代が違っても、問題を共有できる人たちはいて、そういう人たちをすごく貴重に思う機会ともなった。
またまた、WaTについて。
7/28にシングル「君がボクにKissをした」をリリースし、続いて9/8に「24/7~もう一度~」をリリースするということなんで押してまいりますw

まず、「君がボクにKissをした」の感想から。
「草食系」がWaTらしいというより、「草食系」に対して否定的な感情も、自分たちがそう見られることへの抵抗感も持っていないあたりがWaTらしいな、と思いました。
本人たちが恋愛において「草食系」かどうかは別として、これだけ恋愛の主導権を相手にゆだねることができるというのは、男性の書く歌詞ではちょっと珍しいのでは?と思います。
今回も作詞はWaT。ウエンツ瑛士が特に中心となって書いたという。


君がKissした それは突然に
振り返った君が 僕と重なった
ずっとそのまま たぶん15秒以上
僕らの未来が そこから始まった 君を守るそう決めたんだ
二人の夢見ながら


「未来」を動かす最初の一歩を、相手の方が踏み出して、それを受けて自分が決意を固めるという構図。
〈積極的な彼女〉の歌詞はけっこうあると思うけれど、2人の夢や未来への歩みのきっかけを相手が作り、それを全面的に受け入れる自分、という状況を男性が自ら書いた詞はけっこう特異なパターンかな、と思う。

そしてこれは、「男性アイドル」のあり方としては、あまりにも花丸すぎる歌詞だと思う。
もともときれいな顔をしているからこそ、一歩間違えば「モテる男」として、恋愛・性愛において支配的な力を持つ存在として捉えられかねないのが男性アイドルの難しさ。
その中で、男性としての「有能」さ、性的な「勝ち組」であることを、放棄する効果がこの曲にはあると思う。どこまで意図してやっているのか。それとも、元々これが彼らのナチュラルな考え方なのか。


また、特徴的なのは、

・僕らの未来が そこから始まった
・二人の夢見ながら
・二人の夢 空に語ろう
・僕の未来 君の未来 ずっと繋がっていくよ

夢や未来という言葉が歌詞の中に多いけれど、どれも恋人同士の2人が並列で描かれて、一緒に同じ方向を見つめていく、というイメージが強い。

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でもこれ、前からWaTの曲は、そういう歌詞が多かった気がする。
1つ1つは特に珍しい歌詞でもないのだけれど、WaTが常に描き続けているイメージとして、「2人で一緒に歩いていく」「同じものを見つめていく」はずっとあった。これは恋愛の歌詞に限らず、友情や、広い意味の人間の絆を歌った曲でもそうなんだけど。

デビューシングル「僕のキモチ」では、

僕は君と向き合うより
同じ未来二人向いていたい

「5センチ。」でも

・僕たちが向かう明日はきっと
 一つだと信じて
・僕たちが見上げる空はいつも
 一つだと信じて

「ボクラノLove Story」では

君とずっと手を繋ぎ歩きたいよ
二人足音 重ねながら

マイナー曲だとけっこう「別れる恋人たち」を歌った曲も多いけど、そっちだと「それぞれの時は動き出す」とか「それぞれの道歩き出すのかな」と、やはり2人の見つめている「未来」や「夢」が別れていくイメージ。
この時も、一方的にどちらかがどちらかを置いていくというよりかは、それぞれの道をお互いに歩き出すという感覚が共通している。

ただ、これが5年前から続いているとなると、19歳の彼らがそれを意識してやっていたとは思えない。これが根っからのウエンツ瑛士・小池徹平の感覚ならば、彼らは本当に新しい時代の人たちなんだろう、と思う。

恋人の前でも虚勢をはらず、恋愛を主導権争いにせず、きちんと人間同士として心を通わせる。
お互いに、自分の思いや夢、描く未来を持っている一人の人間として。

そしてこの「虚勢」や「主導権」の放棄こそ、アイドルの基本なのだと思う。


しかし、以前「なぜアイドルなのか第三回」で私が語った、

>発信する側が、実力主義を脱ぎ捨て記号的な美しさを受け入れなければ、象徴化されるほどまでには至らない。
>本人とファンの相互に、実力を主張せずとも、矛盾を感じず感動できる承認があって、はじめてアイコンは完成する。
>そういうしなやかさを持っていると感じる男性グループは、今のところ、WaT以外に私は見つけられないのです。

この言葉にあまりにもハマる展開に本当にびっくりしている。



さて、9/8発売の新曲「24/7~もう一度~」は、前回とは対照的に「肉食系」の恋愛を歌った、と宣伝している。といっても本人たちも「あんまり肉食系じゃないんですけど」とインタビューで語っていたように、たしかにあまりそういうイメージの歌詞でもない(笑)

すでにライブやPVの公開などで明らかになっている歌詞を検証してみると、
描いているのは、恋愛をするうえでもともと障壁のある2人が一度は惹かれあってしまうけれど、やはり別れに直面している…という状況のよう。
障壁があるにも関わらず恋をするあたりが、「肉食系」といえる唯一の点かなあ、と思うけど(笑)、この曲の中でも、

〈ここからまた2人歩き出そう 思いのかなたで〉

という歌詞。(※聞き取りなので表記違いはご容赦ください。)
やっぱり、恋愛に対して受身であれ積極的であれ、WaTのスタンスは変わらないんだな、と実感する。

いろんな雑誌のインタビューや、テレビに出ている2人を見ていると、広い意味で、人間として愛をもってお互いを見ている2人なんだな、と感じさせられる。
そういうWaTの関係も、歌詞に影響しているのかな、と思う。

それぞれにしっかりと未来を思い描きながら、互いを思いやる心を持つこと。
恋愛であってもなくても、人と人の間で大切にしなきゃいけない気持ちを、2人はWaTの中で育ててきたのかもしれない。

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