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34歳無職さん 1 (MFコミックス フラッパーシリーズ)34歳無職さん 1 (MFコミックス フラッパーシリーズ)
(2012/02/23)
いけだ たかし

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「色々思う所あって1年間何もせずにいようと決めた」女性の話。
このタイトルで主人公が男性だったら手に取らなかったかも。
あと、選び取った無職(といっても精神的にはそうせざるを得ないところがあったんじゃないかと思うが)っていうところが強烈に気になって読んでみた。

1年間無職っていう選択はそれなりに状況が整ってなければできない。
彼女の場合はたぶんこれまで稼いだ蓄えが、節約すれば1年しのげる程度にはあるっぽい。あと会社都合の退職で失業手当がけっこう出るっぽい。
そういう「恵まれてる」感はあるにしろ、そういう状況でその選択ができるメンタリティって、今の時代にすごく大事なんじゃないかと思った。

なんというか、社会はこういう人の存在を許さないだろうなー、と思う。
職についていなくて、職探しもしていなくて、正しい意味でニート。
身辺はなんだかいろいろあるようだが、とりあえず独身生活を送っている。
別に親の脛をかじってるわけでも、誰かに貢がせているわけでもなくて、1年間という期限を自分で決めていても、“仕事も結婚もしない30代の女性”が「甘えてる」とか「大人になれ」とか言われないわけないだろうな、と。

それでも彼女にはそういう時間が必要だったんだろうな、とも思う。

いけだたかしは、社会に許されない生き方をする女性を描きたい作家なのかな、と、前作「ささめきこと」を重ねつつ思う。
女子高生同士のふわふわした百合漫画と思いきや、彼女たちの在り方が社会に受け入れられない、許されないということへの葛藤に満ちたストーリーだった。
2人の周囲には温かく受け入れて支えてくれる人もたくさんいるが、だからこそ、そういう支えがあっても、どこからでも突きつけられる拒否と、「許されない存在」を消そうとする重圧がリアルだった。

後書きにいけだたかしは「34歳で(ほぼ)無職は当時の自分だったワケです」と書いている。それを女性に変換したのは、まあ元々はネタ的なことだったのかもしれないけれど、男性でありながらあまりにも近い目線、外側から女性を見ている形でなく描かれていることがすごいなあ、何なんだろうこの人は、と思って、実は女性なんじゃないかとプロフィール確認したりしてしまう。
いや、たぶん男性ですけどね。

とにかく、「生きにくい人のためのいけだたかし」だなあ、と思う。
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『魔法少女まどか☆マギカ』のラストに提示された解決方法は、私にとっては、とても苦々しいものだった。

魔法少女というものは、基本的に大人の肩代わりをして犠牲になる存在。
それは、戦闘しないミンキー・モモなどの魔女っ子の頃からそうだ。
大人が解決すべきトラブルを魔法という優れた能力を持つ少女が代わりに片付けてくれる。戦闘少女が登場してからは、その残酷さがさらに顕著になった。
しかし、その歪んだ在り方のために溜め込まれていく怒り、悲しみ、それがまどマギでいう、ソウルジェムが濁るということだと思う。
なのに、戦うだけ戦わされて、その怒りは無かったことにされるのが解決方法だなんて。
まどか、なんてことをしてくれたんだと思った。


『戦姫絶唱シンフォギア』も、大人の肩代わりをして戦場に立たされる少女たちの話だ。
特に主人公・響のキャラクターはわかりやすい。
「人助けが趣味」。
多くの犠牲者を出した事件の生存者であるため、自分の生きる意味を強く求め、人を助けたいという気持ちが強い、という設定。
こういう少女は、現実にもいると思う。

普通に考えたら倫理的に許されないのだ。いくら少女だけが、敵と戦う能力を持ち得るからといって、彼女たちを戦士とするなんてことは。
けれど、その表現が象徴するような事は、日々起こっている。
正義感や優しさから周囲の期待に応え、平和の実現のために、本当は大人が行動しなければならない場面で子供が平和の使者のような役割を果たしてしまう事が。

シンフォギアでは、少女たちを戦場に立たせる大人たちの姿も描かれる。
風鳴弦十郎はその代表的存在だけれど、彼はたびたび「大人の責任」について言及する。

ストーリーの前半では、この特異災害対策機動部二課の人々も、少女たちに大人の責任を押し付けていることには違いない、と私は考えていた。
それは間違ってはいないと思うが、しかし、弦十郎の台詞を聞くうちに、私自身大人として、魔法少女のような役割を負ってしまう現実の少女たちのために何ができているのだろうか、と自問するようになった。
魔法少女たちを利用するシステムが出来上がってしまっている以上、できることなどほとんど無くて、弦十郎は傍にいてアドバイスすることで、既に魔法少女になってしまった彼女たちに大人ができる精一杯の支えを務めているのかもしれない、と。

しかし、響を、ひたすら「人助け」しひたすら「周囲の期待に応え」ようとし続ける在り方から解放したのが、未来の存在だ。
未来とは、何なのだろう。

“お姫様になれない女の子は、魔女になるしかない。”(『少女革命ウテナ』の影絵少女の台詞)

しかし魔法少女でない未来が、やがてお姫様になる存在かというと、そうではないように思える。
未来は「守られる」だけの存在であることを、やめてしまったのだから。

響に対する未来の思いの強さは、明示されはしないが、同性愛のように映る場面も多々あった。
守られる側の人間となって生きることは、少女たちにとって将来シンデレラ城の中に収まるための準備だ。
未来はそこから脱し、特別な力は持たなくとも響と共に戦う道を見つけ出し、自分自身の行動力を発揮していく。それは大人の代わりではなく、ただ響のために、未来が自分で起こした行動。
「役割」ならば代わりがきくが、未来の響への愛情は誰も代わることができない、未来だけのものだ。

他者の期待に応えるためにでなく、ただ自分の愛のために行動することにおいては、フィーネと未来とは、同じ原理の上にあるとも考えられる。いかにも「魔女」らしい表象のフィーネ=櫻井了子。彼女が魔法少女と対立する魔女なら、未来は魔法少女を助ける魔女なのではないか。

そう考えると、まどマギにも、未来のような少女が存在した。
世界の救済よりも、まどかのためだけに行動したほむら。
ほむらの目的は何度巻き戻す時間の中でも叶えられず、それでも彼女はあきらめず繰り返した。にも関わらず、まどかは自己犠牲を選んでしまった。ほむらの気持ちは届かなかった。

シンフォギアでは、未来は行動だけでなく言葉で響に伝えることができた。響自身も言葉にすることで人に伝わることを信じている少女だった。
未来と響の関係に限らず、この物語は基本的に「言葉で伝える」ということを信頼しているように思える。

そういえばフィーネの目的も、統一言語によって創造主に想いを伝えることだった。
けれど、問題は「言語」ではないのかもしれない。
向き合って言葉を交わすその時間や空間。自分のために思いを言葉という形にしてくれているというその行為。コミュニケーション。
それが未来にできて、ほむらやフィーネにできなかったことなのではないだろうか…。


私(たち)は現代の魔法少女たちのために、どんなコミュニケーションができるだろう。

「君たちを愛するよ」
「1人で背負わせないよ」
「強くならなくていいよ」

そういう言葉を伝えていくために……
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