スコット&ゼルダ、何度も観てたら書きたいことが増えてしまいました。


「私の生き方を最初に評価してくれたのはスコットだった」

というゼルダのセリフ、この言葉の重みに気付いたのは東京公演が全公演終わった後だった。

もしもゼルダがあの若い将校たちの誰かと結婚していたら。モントゴメリーで恋をした男の子たちの中の誰かと結婚していたら。

彼らの誰も、けしてゼルダに短いスカートを履かせなかっただろうし、フラッパーの格好をするのも、新しい時代の女性として注目されることも許さなかっただろうと思う。

モントゴメリーでのダンスパーティーのシーン、ゼルダ以外の女性たちのファッションを見れば、ゼルダがどんなに時代を突き抜けた存在だったかよくわかる。

それはゼルダの少女時代には、ただ怪訝な目で見られ、眉をひそめられるだけのことだった。

ゼルダを見て、その生き方が自分と鏡のように似ていると直感し、時代を突き抜けるそのセンスを評価したスコットも、あの時代では本当に稀有な新しい感覚の持ち主だったんだろう。

しかし、時代の最先端として女性たちの憧れを集めたゼルダでも、短いスカートの新しいファッションを広めただけの、ただの作家の妻だ。時代の最先端の象徴のような女性が実現出来たのが、それくらいのことだった時代。

あんなに個性と自己主張の強いゼルダのような人が、最初のうちは、スコットの夢の一部になること、作家のスコットと同じ夢を一緒に見ることに、自分の人生を見出している。

もし現代に生まれていたら、もっと早い段階で…もしかしたら出会ったその時から、「私だって自分で何かを成す」と言っていたんじゃないだろうか。

2人はお互いを似ていると感じ、惹かれ合う。実際に似たところはたくさんあったのかもしれない。でももしお互いに完全に対等な存在だと思っていたら、関係性はもっと違っていただろう。

スコットは自分にそっくりなゼルダを見つめながら、自分が鏡のこちら側の本体でメイン、ゼルダがサブの分身という感覚を持っているようだ。

そして、ゼルダ自身さえもその感覚を共有しているように見える。こんなに我の強い女性なのに、どこかで自分はスコットのサブであることを認めているようなのだ。自分が鏡の向こう側の分身だと知っているからこそ、寂しさに耐えかねてもがく、といった様子だ。

スコットとゼルダは激しく恐ろしい人物にも見えるけれど、文通のシーンを観ていると、やっぱりこの人たちって厄介だけど面白い、愉快な人物だったんじゃないかな、と思えてくる。

2人の悲劇は、天才だったことでも破滅的な性格だったことでもなく、彼らの新しい時代の感覚と矛盾する、この時代の「普通の」男女の感覚から完全に離れることができなかったことなんじゃないか。


1940年代のゼルダは小説を書いている。メインであるスコット亡き後に、その分身として彼女が書き続けるのはごく自然なことだったのかもしれない。

そう思った時、あのゼルダが書いている小説は完成したら面白かったんじゃないだろうか、と、なぜか私は感じた。
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