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観ると必ずオザキ8されると話題の映画「X-ミッション」、観てしまいました。
観終わってすぐは、いや~私はそんなにハマらなかったなあ、と思ったんですよ。
ところどころツッコミ入れたくなったし、おかしいと思ったし、そんなにオザキ8されなかったよ、と。

でも1日経って、ふと。
いやツッコミ入れたいと思ったところは確かにおかしかったけど、まずもっと前提の部分がおかしかったから…!基本的なベースがまず色々…!
ということにやっと気付き、私もまんまとオザキ8されていたということが判明してきました。

まずこの映画、エクストリーム・スポーツというやつが話の軸になっています。
エクストリーム・スポーツってあれです。ものすごい高い崖をバイクとか自転車で走ったり、わざわざ落ちたら死ぬよっていうところで死ぬような危ないことをやってのけるっていう、時々「世界のビックリ映像」の番組とかでやってるやつです。
だいたいああいう映像を見る時、我々凡人は
「なんでわざわざ危ないことするのかわからない~死ぬよ~やめなよ~」
っていう気持ちになるものですよね。

なぜ彼らはそれでも挑戦するのか。それはオザキ8のためだったのです。オザキ8、それは自然と一体になるための8つの修練である。

はい、↑これが映画の全編を通してすべての基本となっています。
細かいところにツッコミ入れたらキリがないような映画なんですが、この前提に対してツッコミを入れることを、ある時点から忘れます。そうなればあなたももうオザキ8の手の内です。

死ぬよ~っていうチャレンジをするのがオザキ8なので、けっこう人が死ぬんですが、なんか別にチャレンジをしてる時じゃない時もけっこう死にます。
最初のうちはエクストリーム・スポーツをやってて死ぬことの方が「いらんことやって死んだ!」と思うのに、いつの間にかエクストリーム・スポーツじゃない時に死ぬ方が、「え、このいらないシーンで死ぬん…?」って思えてくるからもうすでにオザキ8されてます。

ちなみにオザキ8という修練は、オノ・オザキという日本人が仏教思想に基づいて提唱したらしいのですが、オノ・オザキはどっちが苗字かわからないこの名前の時点で笑わせてきますけど、死に方で2回笑わせてきます。
人は1回しか死ねないのに、死に方で2回笑わせられるなんてオノ・オザキくらいなものです。さすが自然への敬意が違います。

あと自然と一体になるとか、自然への返礼をするとかめっちゃ言うわりに、あんまり環境に良いことをやってる感じもしないです。
自然への返礼もそこまで環境保護のために良いことなのかよくわかんない感じで終わります。
エコでロハスな感じのシーンよりパリピがズンチャズンチャ踊ってるシーンの方が多いです。

後半はえっそんな展開?そんな展開!?あれれれ~!?ってなるんですけど、その前にそもそもの前提が何言ってるのか私理解してなかったんだった…っていうことに気づくのに、私は1日かかりました。

そんな感じで、私これ正直、別に観なくてもいい映画だと思います。
良い映画はいっぱいありますよ。他の映画をもっと観ましょう。
でも一度観てしまったら、絶対もう一回なんらかの形で観ようと思っている自分がいることが怖いです。できればレンタルビデオで友達と一緒に観たいですね。
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ケイト・ブランシェット様とルーニー・マーラたんのラブラブ映画「キャロル」を観てきましたよ!

これは、私のような者が観ると本当にただの、良質な恋愛映画だと思った。
もっと「社会派」なテーマに切り込もうと思えば切り込めるポイントは、けっこうある。あの時代の女性の立場とか、同性愛が治療の対象とされていたこととか。
でもあえてそこに深く言及せずに、彼女たちの恋愛感情の移変わりに視点を絞ったところにこだわりを感じる。

彼女たちは女性同士の恋愛をしている。それは特別な理由を必要とするものではない。ただ彼女たちは恋愛をしているのだから。

この描かれ方は、同性愛というものにまだなじみがない人や、また同性愛が拒否感を持たれる世界に慣れてしまった当事者にとっても、逆に衝撃を与えると思う。

ただ恋愛することを「社会派」な出来事に取り込まれなければならないなんてナンセンスだ。でも現実の同性愛者は、ただ生きている全ての出来事が社会と衝突しなければならない。
実際彼女たちの恋愛も社会の様々な障害に衝突しているけれど、映画の視点だけは、彼女たちを社会問題の事象として見ることから解放している。
ただ「目と目が合った瞬間にときめいた彼女たち」として描いている。

だからたぶんこれ、セクマイの友達何人かで一緒に観たら、フツーの恋愛モノとして、
「そんなことを言ってるキャロルは今どんな顔してるのー!?」
「ギャ~こんな顔してた~!(//∇//)」
「それを受けたテレーズはこんな顔してた~!!」
みたいな感じでキャッキャ盛り上がる映画になりそうだなあ、とか思ったw
ちょっとツイッターじゃまとまらなそうなので久しぶりにブログに。

明日最終回を迎える、NHKの木曜時代劇「ちかえもん」が本当に面白い!

小池徹平ファンとして見始めたけれど、先の読めない展開と演出の面白さ、素晴らしい役者たちの名演・怪演にすっかりハマりまして。
なぜか明日の最終回を待つ今のタイミングになって、全話を通したこのドラマのテーマ…「大人の犠牲になる若者」という存在について、いろいろなことが自分の中で繋がってきました…



ちかえもんは、人形浄瑠璃作家の近松門左衛門を主役に、彼がとある若者たちの物語を追っていくという、二重構造のドラマ。その二重構造のもう一つの物語の主役となる若者たちが、「曽根崎心中」のモデルとなるお初と徳兵衛。

お初と徳兵衛は、まだ大人の世界にどんな悪があるのか、人を陥れる罠とはどんなものなのかもわからない、ピュアでまっすぐな若者たち。

そして常に、大人たちの犠牲になる。

頑なな復讐心から抜け出せず不法に手を染めた罪、友と時間をかけて理解し合うよりも自身の正義感を急いだ罪。けして悪人ではなく、しかし最善を尽くせなかった親たちの罪が、若者たちの運命を捻じ曲げ、悲劇を生む。

さらに大人の世界には、他者を平気で陥れ、人を物や駒のように扱う人間もいることを、彼らは知らず、罠に絡め取られていく。

小池徹平の喜劇的名演技でこのドラマの名シーンの一つとなった「大人は汚い~!」というセリフも、今思えば象徴的だ。

実際、現実の今の世の中を見ていても、若い人ほど立場が弱く、素直でまっすぐな心を利用されている。前向きな一生懸命さは労働現場で使い捨てられ、経験値も財産も少ない彼らから搾り取ろうとするような罠が、世の中に溢れている。

そんな中ちかえもんでは、狂言回し・万吉の売る「不孝糖」なる菓子が第1話から登場する。親孝行の「孝行糖」が流行る中で、万吉は「親孝行の何が偉い」と、親不孝を推奨する「不孝糖」を売り歩く。

これこそこのドラマのメッセージなのではないか…と、今になって思い至る。

若者たちよ、大人の犠牲になり続けてはいけない。親たちに、大人たちに怒れ。言いなりにならず、反旗を翻せ。

「不孝糖」という奇妙な小道具は、こういうことを伝えるために用意されたのではないか。

最終回、若者たちが大人の犠牲になっているという現実を突きつけるために、お初と徳兵衛が本当に死んでしまうラストもありうるのだろうか…。
いやいやしかし、「痛快娯楽時代劇」と銘打ったこの作品。お初と徳兵衛が不孝糖売り・万吉の力を得て、痛快に大人たちに一矢報いてくれるんじゃないか…?

…なんて、陳腐な予想は置いといて。

「空気を読む」などという言葉が使われ始めた頃くらいから、周りに合わせ、浮かず目立たず主張しないことを良しとする文化の中で、若者たちはより一層怒らなくなっているのではないかと思う。
万吉の不孝糖を、作者・藤本有紀は、現代の若者たちにこそ食べさせたいと思っているんじゃないかな…などと考えたりしながら。
とりあえず今は、明日の最終回が怖いような、待ち遠しいような気持ちだ。
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