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大好きなウエンツ瑛士さんの出演舞台「紳士のための愛と殺人の手引き」、これもまた観劇詩を書こうと思っていたのですが、作品そのものにハマりすぎて、詩にならなかったので普通にレビューを書こうと思います。

詩にならなかった理由はもう一つあって、作中に出てくる歌詞がすでに、私がいつも書こうとする観劇詩みたいなものになっているから。
作品を貫くテーマを象徴的に歌い上げるような曲が複数。だから詩で表そうとした時、使われていた歌詞そのものが浮かんでしまう。これはコメディというものの構造上の話なのかもしれない…と思います。

シリアスな作品なら、ストーリー全体を通して、またはセリフや歌詞の明確な言葉で、その作品のテーマ・主張を伝えるものが多いでしょう。
しかしこのコメディは、ストーリーは「馬鹿馬鹿しいお笑い」に終始する。たまに人情話を挟んでくるコメディもあるけれど、基本的には「ただ笑えればいい」というラクな気持ちで観られるのがコメディの良いところ。

でもテーマが何もないかといえば、そうではない。「紳士のための愛と殺人の手引き」の場合は、それが巧妙に歌の中に隠されている。明確な言葉ではなく、隠喩やダブルミーニングのような形で。

たとえば「ポケットに毒」。
市村正親演じる8人のダイスクイス一族暗殺を企てる主人公モンティ(ウエンツ瑛士/柿澤勇人)が、この曲を歌う場面が作中2回ある。
しかし、モンティがポケットに忍ばせているこの毒は、どの場面でも結局ストーリー上あまり意味を持たない。
「ポケットに毒」は、モンティが、作中「切り札を持つ人間」としての役割を与えられていることを意味しているのかもしれない。

この物語はまるでカードゲームのようだ。ダイスクイス一族という権力者=ゲームにおける上位者に対して、モンティは金も権力も持たない弱者だけれど、弱者しか持てない「下剋上」というカードを持っている。
そしてどうやらこの「下剋上カード」は、このゲームにおいて全てのカードの中で最強のようだ。だから面白いようにモンティの都合の良い方向にストーリーは進む。

そう考えると「まさかの彼が」も、何か複数人でゲームをする時に、誰が強いカードを持ってゲームを操作しているのか最後までわからない体験を思い起こさせるように聴こえてくる。

最も作品の中で象徴的に感じられるのは、フィービー(宮澤エマ)が歌う「裏を表に」。
フィービーは「中身を見ることができたら…」と歌うけれど、カードゲームにおいてお互いの手札は見えない。誰もモンティが持っている、強くも恐ろしい手札を覗き見ることはできない。

そして下剋上カードが最も強いこのゲームの中では、強者と弱者が反転する。裏が表になり、前が後ろになり、黒が白になる。
弱者であるモンティだからこそ、このカードを持ち得るけれど、しかしそうして勝ち上がっていけば最後には強者となり、もう下剋上カードを持つことができなくなる。そうなった時に何が起こるか?
ラストはまさに「裏を表に、表を裏に」という展開で、ミステリーなら鳥肌ものだけれど、そんな仕掛けを投入しながらコメディらしく、面白おかしくカラッと晴れやかに終幕するところがこの作品の妙。

モンティの最初の気持ちの変化を歌い上げる「馬鹿げた夢」では、最後に「馬鹿はどっちだ?」というフレーズがある。
このフレーズはその後リプライズで、殺人のシーンにおいて繰り返される。
今はバカにされる弱者の自分、しかしもし運命を変えて成り上がったら、その時馬鹿はどっちだろう?と問いかけるこの曲。
しかし、殺人に手を染め、終わらない貴族の泥沼に自ら足を踏み入れていくモンティと、モンティが最後に出会う、貧しく無視されていてもこれでいいという「彼」、この時改めて「馬鹿はどっちだ?」という意味が深く感じられる。

思えばこの作品には「2択」の表現が多い。シベラ(シルビア・グラブ)の歌う「あなたがいなきゃ」は「好き?嫌い?」と正反対の2つのさまざまな物事を、モンティの話もろくに聞かない勢いで並べ立てる。何か言ったかと思えば次に逆のことを言うシベラの奔放なキュートさが楽しい一曲だけれど、「正反対の2つの物事」「2択」は作品の中で重要な鍵となってくる。
「結婚します」で、モンティがシベラとフィービーを壁一枚に隔てて2人の女性のどちらも魅力的で選べない!と懊悩するのも象徴的だ。

牧師さんに手を貸すことと貸さないこと、彼の運命を決めたあの選択で、本当のところ、「馬鹿はどっち」だったんだろうか?

ラストのあのどんでん返しは、もしかしたらモンティの心象風景か、またはこれからを暗示する一つのIF世界の表現かもしれない。(…と感じさせる演出がある。)やがては最強の下剋上カードを失う運命にあるモンティが突きつけられる「馬鹿はどっちだ?」

富と権力に溺れる者を皮肉るブラックユーモアが一貫していて、一つ一つの笑いは本当に単純でバカバカしいのに(例えば市村正親がマッチョな肉襦袢を着て出てくるとか)、知性と愛は、反知性の利己主義や差別主義を、笑いによって軽やかに超越するのだと作品全体が歌い上げているように感じられる。

…しかし、こういった深読みは、このミュージカルの魅力の裏側みたいなもの。小難しいことを考えなくてもこの作品はひたすらに面白い。観劇した人からは「ディズニーのアトラクションみたい!」という声も多い。

装置はクラシカルながら楽しさ満点。アンサンブル含めキャストのレベルが高く、実力に裏付けされたコミカルな演技は見応えがある。
演出の遊びも多くて一瞬たりとも目が離せない。
音楽は、観たら数日は曲が頭を回り続けるくらい素晴らしく心に残るナンバー揃い。
難曲を美しく楽しく歌いこなすキャストもさすがで、市村正親の8役演じ分け、早替えに関しては想像以上だ。

そんな面白さ全部盛りみたいなステージングで、繰り広げられるストーリーは殺人をコミカルに扱うくだらないお笑い。
でも、その裏に潜む意味は、じわじわと観客の心に染み込んでいるはずだ。

初日観劇の幕間で私は、「軽いお笑い」を観ていたはずなのに、まだ一幕だけでずっしりとした良作を観たような満足感で心が満たされているのを感じて、ちょっと混乱したのでした。
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