中村高寛監督のドキュメンタリー映画『禅と骨』を観た後に、前作『ヨコハマメリー』も観たくなって、レンタルして観ました。品揃えの悪いうちの地元のTUTAYAにあったことに驚いた!笑

『禅と骨』のイメージで観ると、もっと淡々と、インタビューを中心としたドキュメンタリーなので、けっこう観るのに気合いと集中力がいる感じです。
『禅と骨』は、おそらく手法的にも前作より洗練されたこともあるだろうし、心構えなどしないで観ても向こうから気合いごと吸い取られるから。笑

横浜の街で外国人将校を相手に娼婦をしていた「メリーさん」は、50年横浜の街角に立ち続け、やがて真っ白な白粉の顔と歌舞伎の隈取ほども書き込んだアイメイクがトレードマークとなる。
私は映画を見るまで横浜の有名人「メリーさん」という人がいたことも知りませんでした。

メリーさんを知る人々の証言を辿っていく映像を見る中で、私が思い出していたのは、小さい頃近所にいたホームレスの女性のこと。
鮮やかな色のドレスのような服に、つばの広い帽子をかぶり、おそらく生活道具すべてであろうたくさんの荷物をいつも持ち歩いていた。
彼女には、メリーさんを元次郎さんが助けようとしたような、支える手はあったのだろうか。

生前のメリーさんを知らない私には、どうもメリーさんが横浜の人々に一目置かれる存在であったことが、なかなかピンとこない。
「メリーさんが観にくる芝居は必ず成功した」
「船着場で米兵と抱き合いキスをして別れたメリーさんの姿は映画のようだった」
そんな証言の中から必死で「皇后陛下」とあだ名されていた気高い娼婦、誰もが一目置かざるを得ない横浜の有名人の姿を想像しようとする。

けれど、晩年家もなくビルの廊下で寝ていた姿。エイズの噂から行きつけの店の来店を断られた話。生活保護も住民票がないことを理由に受けられず(実際にはそれを理由に生活保護を受けられないことはないはずだが、窓口でそう言って追い返す自治体は今も多い)、白塗りで立っている姿はかつての彼女を知らない横浜の若者たちには狂人と映っていたであろうこと…
そういう社会の片隅に追いやられた切なさ、哀れさばかりが胸を打つ。

来店を断った美容室の店主が、「本当にかわいそうなことをした」と自責の念を語る姿を、責める方向にも許す方向にも映像が誘導することなく、ただただ映し出しているのがすごい。断られたメリーさんを思うと本当に切ないが、自分がメリーさんに手を差し伸べたわけでもないのにこの美容室を責められるわけもなく、観客は店主の自責を心に刻むことしかできない。

監督は当初この映画を「本人不在のドキュメンタリー」とするつもりだったが、取材するうちに本人の現在の居場所が分かってしまい、とうとう老人ホームで暮らす現在のメリーさんを撮影することとなる。
最後に彼女が映るシーン、もう白塗りをやめて、「皇后陛下」のようなドレスでもないメリーさんの今を見てしまうことを、恐れる気持ちが私の中にあった。
しかし、そこには「皇后陛下」のメリーさんがいた。
不思議なことに、もう横浜にいた頃と違う、普通のおばあさんの風貌をしているメリーさんを見て、私は「ああ、この人が皆が一目置いた皇后陛下か…!」と初めて納得したのだ。

メリーさんの晩年、さまざまな手を尽くして支え相談に乗っていた、シャンソン歌手の永登元次郎さんが、メリーさんの老人ホームを訪ねて歌う。その姿を見ている、もう「ハマのメリーさん」ではない本名で老人ホームで暮らしているその女性は、驚くべきことに、元次郎さんが「ちゃんと良い芸をしているか」、しっかり吟味しながら聴いているような表情だった。

最後に本人を出しちゃったのは映画の構成上矛盾するんじゃないか?と監督自身悩んだそうだし、そういう批判もあったという。
しかし、元次郎さんと手をつないで老人ホームの廊下を駆けるように歩いていくメリーさんの後ろ姿、あの祝祭的な清々しさは、切ない老女の人生を淡々と追っていたこの映画を、ラストとてつもない希望と感動で、急激にまとめ上げる。

やはり、その人を本当に伝えるのはその人自身の姿なのだな…と、監督の当初の思惑「本人不在のドキュメンタリー」においてはかなりアイロニックなことを思ってしまいながら、ヘンリ・ミトワさんがこの『ヨコハマメリー』を観た時激怒したという話を思い出した。
「メリーさんのドキュメンタリーなのにメリーさんが全然出てこないじゃないか!」と監督を怒鳴りつけたという。
メリーさんのことを全く知らない私が観て、最後の最後に登場するメリーさん本人の姿が何よりも多くのことを伝えていたのを考えると、実はヘンリさんの指摘はある意味正しかったのかもしれない?と思ったりする。

そして何より中村高寛監督自身も、生身の人間のエネルギーの方に惹かれてしまうタイプなんじゃないかな…と思う。
メリーさんのドキュメンタリーなのに永登元次郎さんの存在を大きく取り上げたり、『禅と骨』でもミトワさんの姿と同時に、ミトワさんの家族の面々のエネルギーに引っ張られるように家族の姿を映し出し、再現ドラマの役者であるはずのウエンツが「ウエンツ瑛士」として映し出される。
生身のその人のエネルギーに触れた時、その人自身を撮らずにいられなくなってしまうのがこの監督の原動力なのでは?
などと思ったのでした。

『禅と骨』は、そういう意味では『ヨコハマメリー』以上に監督の真骨頂が発揮された、溢れる「人」のエネルギーに満ちた怪作であり快作。
良いも悪いも引っくるめて、人が生きているということは、それだけでこんなにもパワフルなことなのかもしれない、と思わせてくれる。
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アメリカ人の父と日本人の母の元に生まれ、戦中は日米両国でスパイの嫌疑をかけられ、強制収容所にも入れられた経歴を持つヘンリ・ミトワ氏。戦後は日本文化に傾倒し、禅僧として生きることとなる。
その人生じたいも波乱に満ちているが、カメラを回すうちに、彼自身の強烈な個性、彼の家族たちの個性がぶつかり合い、その火花が監督自身にも飛び火し、生臭い人間ドラマへと展開していく。
…そして、骨になるまで。
ドキュメンタリーとして撮影された映像の他に、アニメーション、再現ドラマなど、ミトワ氏の人生そのもののように幾多の要素が複雑に入り乱れる、エネルギー迸るスリリングなドキュメンタリー映画。

アニメーションパートである『ヘンリの赤い靴』は、「フィクションがフィクションであるからこそできる技」を使った作品で、これがノンフィクションのドキュメンタリーの中に組み込まれているというのが面白い。
現実では叶えられなかった夢をフィクションの中では叶えられるという、「架空の物語」だけが持つ力を、ドキュメンタリー監督である中村監督が表現しているというのも興味深い。

現実と、叶えられなかった架空の夢の世界、その2つをつなぐのが、史実をもとにしたノンフィクションのドラマパートかもしれない。
実在の人物の過去を、役者たちが演じるその風景は、現実の過去と似ているかもしれないし、だいぶ違うかもしれない。「あったかもしれない過去」の幻影を映すドラマは、ヘンリが「未来よりも過去に夢がある」と語り家系図を描く姿と重なる。

さらにカメラはヘンリを演じるウエンツ瑛士の、役としてではない彼自身の姿も一瞬映し出す。それによって、最後に登場する「彼」は、ウエンツなのかヘンリなのか、わからなくなる。
過去の幻影は現代の一人の青年に乗り移り、夢と現実、実際にあったこと・あったかもしれなかったこと、その境界線の曖昧な狭間に観客は立たされる。

ありのままの現実を映すのがドキュメンタリーだと、批判する声もある。しかし、中村監督という人は「ありのままの現実」の不確かさにこそ捕らわれ、翻弄され、カメラを回し続けている人なんじゃないかという気がする。
対象となる人物の思いの世界、イマジネーションの世界、語る言葉の嘘と真実、その狭間で時折、現実と虚構が揺らぐ。
観終わった後にも、映し出された人物たちの言葉、姿、「何が本当だったんだろう?」と思わされる。そのスリリングさが、この映画のとてつもない面白さであり、対象への愛の表れのようにも思う。