吉野朔実という漫画家は、ドッペルゲンガーを書く作家である。

と、断言したくて書いてます。


今までに読んだ吉野作品は、「月下の一群」、「少年は荒野をめざす」「ぼくだけが知っている」、短編集「グールドを聴きながら」

このほとんどが、子供から大人への成長とか、子供の世界、または大人が自分の心の中の子供と向き合うことなんかが書かれていて、「子供」が吉野朔実のテーマであることはよくわかる。
で、その中の象徴的なアイテムとして、ものすごい頻度で「ドッペルゲンガー」が現れるのだ。


いや、ドッペルゲンガーという言葉はたぶん一度も出てこないし、わかってはいるだろうけど、それそのものではない。
そのうえ、半身とか分身とかいう言葉さえほとんど出てこないと記憶している。
しかし、「月下の一群」の解説で枡野浩一が、「ジュリエットの卵」と「ECCENTRICS」という2作品に双子が出てくるのを挙げていて、私の予感はかなり確信に近づいたのである。

枡野氏の場合は「きょうだい」という関係性が多く使われていることを指摘している。
実はこの「きょうだい」というものもドッペルゲンガーにとてもよく似ていると思う。
仲の良い兄弟は、たとえ似ていなくても、……むしろその性格が似ていないほど、互いに補い合っているような不思議な感覚があるのだ。……「分身」。
たぶん、そこには親からのプレッシャーが絡んでいるんだろう。

で、初連載作だという、「月下の一群」
これにはまず、姉と弟という、はっきり見て取れる「補い合うきょうだい」が描かれている。
この2人はとても理想的な、美しい分裂の過程のなか、ゆっくりと独立した個人である「大人」になっていく。
2人は、依存や自己愛の快感のようなものを抜きにした愛情……まごころとでもいうべきものを、お互いにはじめから持っていたのだ。だから、痛みは少なくて、きれいな「大人」になる互いを喜ぶことができる。

で、その過程の中で姉は恋をするのだが、その恋も実ったと思ったときに、新たなドッペルゲンガーが登場するのである。
それは姉の恋人のドッペルゲンガーだった。
そう、あの主子さんのことを私はそういう意味だとかなり確信している。

この恋人=政親が、実は、幼く見える毬花(姉)よりもずっと子供だということに、読者はけっこう早いうちに気付くだろう。彼は大人になったふりをしている子供のようだ。
いろんな人間とつき合って、うまくやっていけている。でも本当の深いところは見せていない。というか自分でも気付かないから見せられないのだ。その結果、親切な大切な人たちを遠巻きにして、悲しい思いをさせてしまっているのに、それも気付かないふりで通してしまう。

それが、毬花の存在によって、政親の中の子供が少しずつ顔を見せ始めたところに、ドッペルゲンガーが登場する。彼が子供の頃に置き忘れた自分の裏側。実際、政親は子供の頃遊んだ主子のことをほとんど覚えていなかった。封印していたのだ。

主子は、愛されずに育った人間であり、自分をそんなに愛していない、好きなものも嫌いなものも無いという。それでもなぜか政親にはこだわる。
彼女は自分が何者でもありたくないのだ。個人でありたくない、つまりは、「大人」になりたくない、である。
だから、自分がかつて政親の裏側だったことを見つけて、政親の影になることを望むのだ。彼といれば、主子はずっと何者でもなくていられる。
その証拠、というと大仰だけど、主子は奇妙なほど中世的だ。彼女はきっと、女でも男でもいたくないのだ。

政親は一度彼女に強くひかれる。しかし、毬花や、それにたぶん、自分の周りのすばらしい人たちを、自分がとても愛していることに気付いて、主子というドッペルゲンガーに別れを告げて戻ってくる。

主子の場合は、もっとその分裂は痛く、つらいものだっただろう。彼女は政親のことをとても好きだと気がついて、やっと変わり始める。最後の別れ際、政親に「車は好きだったみたい」だと告げる、主子の言葉には涙が出る。
少しずつ、彼女は周りの世界を愛し始めたという、わずかな救い。

月下の一群 (1) (集英社文庫―コミック版) 月下の一群 (1) (集英社文庫―コミック版)
吉野 朔実 (2001/04)
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これが「少年は荒野をめざす」だと、もっと顕著に、作品全体のテーマとして打ち出されている。
主子の痛みをそのまま放り出してしまったことが、作者にとって心残りだったのかもしれない。
双子のようにそっくりな少年と少女は出会い、ひかれあい、死に向かおうとする。

分身に出会い、2人は世界を必要としなくなってしまう。そうなのだ。自分しかいらないのなら、死をとめるものなんかないのだ。
でも2人は死なない。怖いと気付く。自分が世界を愛していることに気付いてしまうことは、同時に2人が一緒にいられないことを示す。
それは切ない別れでもある。

ドッペルゲンガーに会うと死ぬって、そういうことなんだろうか、とつい考えてしまいたくなる。

少年は荒野をめざす (1) 少年は荒野をめざす (1)
吉野 朔実 (2003/01)
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「ぼくだけが知っている」は、子供たちの日常と成長を描いた、おかしくてかわいくて、やさしく切ない作品だ。
男の子たちが何かと「うんこ」と騒ぎ立てるところなんて、天才的に面白い。
作品を通じて主人公礼智がゆっくりとその世界を開いていくのが描かれている。そして、きっと作者にとっても愛しくてしかたないであろうこの少年の成長の最終話には、やはりドッペルゲンガーなのである。

ぼくだけが知っている 1 (1) ぼくだけが知っている 1 (1)
吉野 朔実 (1995/04)
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このドッペルゲンガーという象徴は、自己愛から卒業して、自分の周りの世界を愛し、人を愛し、本当の意味で自分を愛することを意味しているのだろうか。
周りの世界を愛するなんてキレイ事、と思うかもしれないが、それがなければ、人が自殺してはいけない理由は消滅してしまうのだ。

だから私は結局ギリギリのところで人を生かすのは愛だと、恥ずかしげもなくたまに言ってやりたい。
あと、「おれのうんこだ、受け取れ!」ってセリフも一回言ってみたい。(笑)



・・・なっげー。どんだけ好きなんだ自分。
ついでだけど「グールドを聴きながら」の島本理生の解説がつまらなくてがっかりした。小説どうなんだろー?
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