上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。
12月20日は凄まじい一日だった。

IDOL is DEAD

「偶像は死んだ」と読むか。
「アイドルは死者である」と読むか。

BiS念願の恵比寿リキッドルームワンマンは満員のうちに成功を遂げ、メンバー・ナカヤマユキコの今年いっぱいでの脱退が告げられた。

ライブは訳がわからないほどのスピードで終わってしまった。

何が魅力なのか、何がそんなにすごいのか、それさえもよく分からなくなりながらただ目が離せなくて、時間が経つのがものすごく早かった。

その深夜には、BiSのパフォーマンスが初めて地上波の音楽番組で放送されるという快挙を見た。
録画した番組を何度も見ているうちに、BiSという人たちがなぜこんなにも自分を惹きつけるのか、少しわかってきた。


新曲『primal.』のイントロとエンディングで、腕を開き、胸を張る振付がある。曲には微妙にあってないように見えるけれど、その瞬間がすごくぐっとくる。
体全部で自分自身を表現するかのように。思いを前に押し出すかのように。

ぐんとしゃがみこんで屈伸するところもいい。
ここに立っている、自分がいると確かめるように踏みしめる。

BiSのパフォーマンスは、「1人の人間としてここに存在している」と、主張するというよりは、自分自身で確認しているかのようだ。
だから、看過してはいけない、ただ可愛い女の子として消費してはいけないという気持ちにさせられる。


primal.のPVは傷跡メイクを接写し、口内にカメラが入り込む少々グロテスクなものだった。
映像作品になると、BiSはディープキス、全裸、口内と、過激な様相を呈してくる。
こういう作品から先に知って、その後ライブを見た人は、本人たちの意外な爽やかさ、気取らず可愛らしい様子に驚くことが多い。

BiSという人たちが表現していることを映像という形で端的に表そうとすると、生々しく強調するしかないのだろうと思う。
ただおしゃれな映像にしてしまったら、普通に可愛い「アイドル」になってしまう。


それだけ「女の子」という表象はイメージを付加されやすく、消費されやすいものなんだと思う。

「自分たちは、消費することがためらわれる“生身の人間”なんだ」、と示す。
映像にしてもライブパフォーマンスにしても、BiSの表現の根本は、そこに集約されるのではないだろうか。


一方でとても怖いことがある。
生身の人間である、という表現を目の当たりにして、そこで怯む感受性が見る側にあるうちはいい。
しかしその表現方法は、「生身の女の子」を消費できると錯覚させる仕組みにもなりかねない。

一度感覚が麻痺してしまえば、「アイドル」というペルソナ、可愛さや「女の子」に特化したキャラクターを消費するよりも、実在する「生身の女の子」を消費する方が面白いと思う者も多いだろう。

その「生身の女の子」というのも、「全てをさらけ出している」という付加イメージから来るひとつのペルソナにすぎないと思うのだけれど。


BiSという人たちは、けして生身の自分たちの姿を公然に晒しているわけではない。
ただ「生身の人間がここに存在している」というメッセージを発しているだけだ。
この違いは微妙だけれど大きい。

『primal.』のPVを見たら、メンバー1人1人の生があり、歴史があり、思いがあり、その全てはファンどころか実生活で出会う友人や仕事仲間、家族でさえもきっと知り得ないのだという気がした。
そう思うとカメラを見つめるプー・ルイの視線も、なんだか中森明菜の『少女A』や『1/2の神話』を思い出したりする。だれも本当の私を知らない、だれも私をわかってくれなどしない、とか。


アイドルでもなんでもない、ただの女として現代に生きているというだけでも、「女の子」として消費されることはたびたびある。
「女の子」として消費されること、それじたいも、BiSメンバーたちの生身の日常に含まれている。
だからこそ、プライベートな日常の自分にまで侵入してこようとする暴力的な視線に、BiSとして活動していく覚悟や、「プロ意識」ゆえに、応えてしまうこともあるかもしれない。

本人たちも、「生身の人間として表現すること」と「生身の自分を消費の目線に晒す」ことの境界を危なげに綱渡りしているような状況なのではないだろうか。


ユケ(ナカヤマユキコ)はその綱渡りから降りることを選択した。
その選択が間違いや逃げだなんて、誰にも言うことはできない。
ともすれば暴力的な視線にさらされ、すり減らされる危険をともなう場所に、居続けろと言う権利は誰にもない。


だけれど、BiSという場所は、消費されることを否定する人間にとって危険な場所であると同時に、生存のための場所にもなりうる。

あんなに可愛らしいあの人たちが、危険と隣り合わせでなければ自分自身の存在を叫べない、生存場所を確保できないなんて、歪んだ世の中だ。『primal.』のジャケ写、アー写は、満身創痍のBiSだ。


けれど残された3人は、新生アイドル研究会BiSであり続けることを選んだ。
「自分たちはここにいる」と、叫び続けることを。
「靴ずれした両足でここに立ってたいんだ」と。

これから先、BiSが放つメッセージ、その存在から、けして目をそらすことはできない。

スポンサーサイト

コメント

コメントの投稿

  • URL
  • コメント
  • パスワード
  • 秘密
  • 管理者にだけ表示を許可する

トラックバック

トラックバックURL:http://sanpoapril.blog104.fc2.com/tb.php/166-5396de33
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。