映画、ヘルタースケルターを見てきました。

私は原作の漫画を読んだのがたぶん5、6年くらい前で、ほんとりりこ以外のキャラ全てうろ覚え、くらいの状態で見に行ったので、映画そのものからシンプルに受けたものと、原作と比べて感じたことの両方の感想を抱きました。
結局漫画もまた買ってきて読んじゃったんですけどね。


ということで、以下、原作漫画・映画ともにネタバレしてますんでご注意を。
まずは映画そのものについての感想から先に書いちゃおうかと思います。


★1つ、あー、というところがあって。
この映画を見てて逆に、顔の造作をそこまで変えなくても、メイクと見せ方や撮り方で絶世の美女のように見せられるんだなーと思ってしまった。
沢尻エリカさん、きれいなんだけれど、どちらかというと小作りなバランスの良い、可愛い系の顔だと思うんですよね。だから派手めのメイクも似合うっていう。鼻筋の通った迫力美人系じゃないので、最初映画の話を聞いた時も、ミスキャストじゃないか?と思った。
映画見ててもやっぱ、「芸能界だったらまあ何人かはいる可愛い子だよなあ」と思っちゃう瞬間は結構あって。

でも、雑誌の撮影のシーンとかめちゃくちゃキレイなんですよ。
撮影シーンはおそらく蜷川実花さんの真骨頂なんだろうけれど、すっごいこの世に2人といない超美形に見えた。
でもあれ?それってこの映画のテーマと矛盾しちゃうよな?と。
りりこが全身整形美女であるということの意味がぼやけちゃう感じがしてしまいました。


★沢尻さんをりりこ役に起用したことでもう一つ思ったのは、りりこの我儘なふるまいとかって、沢尻さん自身が現実でも「そういうキャラであること」の需要を感じてやっていたことじゃないのかな、と。
楽屋でマネージャーの羽田ちゃんに水をぶっかけるシーンとか見て、なんだか沢尻さん自身のことを思って胸が痛んでしまった。
映画を見ていても、りりこのふるまいも、無意識に周囲からのイメージに応えてやっている感じがした。
大人から、「あなたは女王様なんだから」と言われて、持ち上げられて、持ち上げられた分だけ傍若無人にならないと自分を保てない感じ。

【あとから漫画を読み返したら】漫画のりりこの傍若無人さは、またちょっと違う衝動でやっているように感じました。この人は世界を破壊したいんだなー、みたいな。


★「女の映画だな」というのは、すごく強く思いました。

ファンの子たちも、街中で噂しているのも全て女子。敵も味方も、欲望されるのも、するのもみんな女。
その辺は、あの漫画を映画化したのが男の監督じゃなくて良かった点だなあ、と。

しかし、噂をしている女子高生たちが、「わざとそういう表現にしてるのか?」と思うほどうるさい。
ずっと彼女たちのギャーギャーギャーギャーという声がひっきりなしに入ってくる感じ。
女子高生たしかに盛り上がってるときはあのくらいうるさいけど、常にあんなんではないだろー、とは思うけど、どういう意味があったのかな。

私は、あのギャーギャー騒ぎ立てている「軽い」感じにしてしまったことで、噂する女の子たちが単に「飽きやすい消費者」としてしか描かれない感じになっちゃったんじゃないか?というところが気になった。

終盤で「この街はちっちゃなタイガー・リリィ(りりこ)でいっぱいだ」という言葉が示すように、りりこに憧れたりけなしたり忘れ去ったりまた求めたりする、彼女たちも、りりこに通じるくらいの切実な気持ちで美を求めている。
りりこを消費する大衆の描写として、男性を完全に排したならば、そこまで受け取れるような描き方をしてほしかったなあ、と思った。


★表現方法の点でもう一個気になったのは音楽の使い方かなー。
正直言って「えー、これは、ダサイのとちがうんかな?」と思ってしまうとこが結構あった…。
戸川純の使いどころとかも、いまいちはっとする感じもなく、びみょうな感じで…。
あえて主張の強い曲をBGMに使ってはっとさせる、みたいなもうかなり王道になりつつある手法だけど、そういうのがやりたかった感じはするけど、正直言ってうまくできてないんじゃ?と首をかしげる場面多数…
まあ、もしかしたら映像や音楽表現に詳しい人が見たら、これこそよく練られていて新しくてクールだ!みたいなことかもしれないから、断言できないけど。素人目にはびみょうでしたなあ。



★あと、これは確実にないだろー、と思ったのが大森南朋演じる検事。
私、映画見る時点では「検事」なんてキャラの存在すら忘れてたんで、えー!?こんな違和感ある人いた!?と思って。
漫画を読み返そうと思った一番の原因はそれなんですよ(笑)

ひとことで言うと、おっさんきもいです。
真顔で突然ポエムを語り始めます。事務所の同僚女性に。りりこの前でも。
本当に急にセリフがポエムなんで、私は映画館でも笑いが止まらなかった(笑)
いや、こんなおっさんいたら、いくら顔が大森南朋でも、若い女誰も相手にしないよ、気持ち悪がって逃げるよ!と思った。

【あとから漫画を読み返したら】検事は軽薄そうに見せかけてのらりくらりと詩的なことを言ったりする変人、みたいなキャラなんですよねー。だからそれほど違和感なかったんだわ;「自分はテキトーなこと言ってますから~」というポーズを取ってるから成立するんですね。
それにしても若い女に対してポエムる男は気持ち悪いと思うので、その気持ち悪さを強調したくて、映画でああいう表現になったのかな、という親切な受け取り方もできるっちゃできる。


で、続いて原作との違いで気になったところですが。


★りりこが最後まで哀れでした。
これは、映画表現の問題と、沢尻エリカさんという女優の問題が両方あると思う。
沢尻さんには、りりこのような血管切れそうなブチ切れ方も、りりこのような不敵な笑みも、叫びのような笑いも笑いのような叫びもできないのね。
沢尻さんは、まだ「女の子」の殻の中にいる感じがする。彼女は本当には自分勝手ではない。自分勝手になりきれていない。演技の問題というよりか、彼女の中にまだその深みがないのだと思う。おとなしそうに見えても彼女より我の強い女優はいる。

漫画のりりこには、あまり「不安な顔」というのがない。不安な気持ちになりそうなシーンでも、全力で顔を歪ませるか、時折無表情だったり、「かなしい顔」もあったけれど、不安そうな顔とは、それはちょっと違うのだ。
映画のりりこは不安そうな表情が多かった。かつぎ上げられた不安定な場所でバランスゲームをさせられている可哀想な女の子だった。それは、演者の問題だけでなく、監督の解釈がそうだったんだと思う。

漫画を読んだとき、「美を追い求めた女の哀れな末路」とはならなかったことに感動した者としては、ああ、そっちに解釈しちゃったのか…と残念な気持ちになった。


★そのつながりの問題として、終盤の「記者会見」の改変がある。
原作では、りりこは記者会見には現れず、1つの目玉を残して消え去る。
映画では、りりこは記者会見の会場で、無数のカメラの前で自分の目にナイフを突き立てる。

まず、表現として
目玉だけを残し本人が消えることと、本人が皆の前にいて目を欠損させることは、〈残るもの〉と〈消えるもの〉が逆になっている。

原作のりりこは、直前まで記者会見に出て、その場でピストル自殺をすることを考えていた。最後まで、「みなさんを喜ばせる」演出を。しかし、それをせず、消える。目玉を残して。
彼女は皆を喜ばせる演出に自らを差し出すことをやめたけれど、それでもそのニュースは人々を喜ばせたという皮肉。しかしそれは、自分自身を差し出すことをやめる代わりに、目玉1つ(全身整形した彼女にとっては半身といってもいい)を生贄に捧げたとも考えられるのではないか。

映画では、りりこは自分自身を差し出してしまう。目をつぶすことも、りりこ自身の「みなさんを喜ばせる」演出だ。
きっとそのあと病院に運ばれて、事務所の人たちとなんやかやあって、芸能界からは姿をくらまし、その後はフリークスとして見世物小屋で働いていた。
なんという現実的な、かなしい話。

漫画のラストの
タイガー・リリィの奇妙な冒険が始まっていた
しかしそれはまた別の機会に

なんて言葉は映画のラストには全く似合わないだろう。


そういうわけで、私個人としては、「女って哀れなものだ」みたいな感じにならない力強い原作の方が好きなんですが、映画は映画でそういう解釈のものとして、現実的で良い、という人もいるかもしれないなあ、と思います。
みなさんはいかがでしょう?

映画『ヘルタースケルター』
http://hs-movie.com/index.html
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