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ケンタの世界

 海岸沿いに長く続く堤防の上は、この辺りの子供なら小・中・高合わせて十二年間通う通学路になっている。日の入りを眺めながら、ケンタと姉ちゃんの隣を歩いていた婆ちゃんが、ふと立ち止まって小さな石ころを拾った。ケンタと姉ちゃんも立ち止まる。
 たった今水平線の下に太陽が隠れた、その空に向かって婆ちゃんは思いっきりその石ころを投げた。石はまっすぐ飛んでいくと、弧を描き、落ちる途中で青紫の空に引っかかってキラリと瞬いた。ケンタは驚いた。婆ちゃんの投げた石が星になってしまったのだ。
「すげえ! どうやってやんの! 今の!」
「いぇー、まいったねえ。投げてみんべ?」
 婆ちゃんの手渡してくれた石を、ケンタは思いっきり空に向かって投げた。しかし、それは海の波にも届かずに、砂浜にぽすんと落ちてしまう。
「できねえー。婆ちゃんどうやってやったっぺー」
 大人でも方言を使う人がほどんどいなくなったこの町だけど、ケンタは婆ちゃんと暮らしているので、婆ちゃんの方言がちょっとうつっている。
「ケンタはまだ一年生だでん、しょいねえよ」
「えー。じゃあ姉ちゃんできる?」
「姉ちゃんも無理よ。婆ちゃんは特別」
 姉ちゃんが笑って答えた。
「高校生なのに?」
「ケンタ、婆ちゃんは高校生の何っ倍も年上なんだよー」
「うへえー」
 ケンタはたった今婆ちゃんが作った星を見つめて、ため息をついた。高校生の姉ちゃんよりもずっと年上だなんて、どんなに時間がかかることだろう。そんなに長いこと生きていれば、星を作るなんてことだって、そりゃあできるようになるってものだ。
「わんりょくを鍛えたらさあい」
「わんりょく?」
「腕力?」
「おいよぉ。わんりょく」
 もっともらしい婆ちゃんの口調に、姉ちゃんが爆笑し始め、ケンタもつられて笑った。婆ちゃんは振り返ってニヤリと笑った。もう空は暗かった。婆ちゃんの星は、あとから現れたたくさんの他の星に混じって、もうどれだか見分けがつかなくなっていた。


「部長! 『黒入道』を一刻も早く倉庫に運びませんか!」
 突然の一年女子の提案に、みんなが振り向く。そして沸き起こる拍手。おれは少ししょんぼりしながら問う。
「みんな、そんなに彼を部室から追い出したいのか……」
「当たり前だ!」
「彼がいると怖ろしくてしかたないです!」
 おれは彼のその真っ黒なハリボテの肩をなでてやる。おれだけはお前の味方だからな。落ち込むんじゃないぞ。
「おい部長、黒入道と仲良くしてないで何とか言えって」
「……よし、わかった。じゃあ今日は部室と倉庫の大掃除をしまーす!」
 部室全体に、「えー」の合唱がこだました。
「なんだよ、倉庫が散らかっててこいつが入るスペースないのも事実なんだからな。おれの大切な黒入道を追い出すにはそのくらいやってもらわんと」
 みんながしぶしぶ動き始める。お別れは寂しいが、そろそろ本当に整理が必要だったのでタイミングよかったかもしれない。
 高校のオカルト研究部にしては、十二人という部員数は決して少ない方ではないだろう。それも一学年三クラスしかないこの田舎の学校においてとなると、ほとんど奇跡ともいえる。……というのは言い過ぎか。でもこれで、活動内容も、文化祭の展示が教師や地域の大人にも好評だったり、「きもだめし」や「怪談大会」と称して行う合宿があったり、楽なわりに充実している我が部なのだ。部の設立から今に至るまで尽力してきた、おれの功績は大きいのである。
 だから、本当なら去年の文化祭におれが作った可愛い可愛い黒入道のハリボテ(推定原寸大)を、体育館わきにある、各部の不用品入れ倉庫に運び込まれるのには断固反対してもいいはずなのだが、やはり多数派の意見には勝てない。といっても学年変わった四月後半の今までねばったのだが。
 ちなみに黒入道はこの地域の沿岸に伝わる妖怪で、一説によれば、顔から足のつま先まで真っ黒、しかし普通の人間の男の形をしていて、夜中に人家の扉を叩くものだ。
「みんなが怖がるのも無理なかろう」
「……池端……。いきなり背後に立ってるお前の方がおれは怖いぞ」
 池端淳平は一応オカ研副部長、おれの右腕である。SF小説家を目指しているからという動機で、オカ研を作るおれの誘いに乗ってくれたらしいが、これが妙に親父臭いテンションの男だ。
「こいつら、妖怪やらなんやら抱えて廊下を渡るのか。さながら狐の嫁入りだな」
 一人で笑っている。
「『こいつら』じゃねえよ。お前も一緒に運ぶんだ」
 と言ったところで気がついた。慌てて、部室の隅のごちゃごちゃを整理しつつ、運び込むものを集めている有能な部員たちに呼びかける。
「おーい、廊下を占領しないようになー。あとアヤシイもの運ぶときには土屋に会わないように気いつけろよ」
「アヤシイものって……」
「いろいろあんじゃないか。去年の展示物とか」
 おれの隣で池端がぷっと吹き出すのが見えて、横目でちょっとにらんでやった。


 なぜかいつも、ケンタは先生に怒られてしまう。先生は若くて美人だけど、怒るとコワイ。そんなに悪いことをしているつもりはないのだけれど、本当は自分はとても悪い子なんだろうか、とケンタは考える。
 でも、そんなことないと思う。ケンタは婆ちゃんによると、「きかんぼう」らしい。婆ちゃんに影響されて家族みんなケンタを「きかんぼう」と呼んだりする。けれどそう呼ぶときには、それまで怒っていたみんなの顔が少し優しくなるから、そんなに悪いものではないんだとケンタは思うのだ。
 しかし今日の授業でもまた、ケンタは怒られた。ケンタが消しゴムの滓を丸めて作った消しゴムマンのせいだ。
 消しゴムマンは最初はとても小さくて、ただの灰色の玉だったけれど、授業で出る消しゴムの滓を毎回毎回くっつけて足していくうちに、数日かけて立派な頭と手足のついた体を得た。しかし、その頃からときどき消しゴムマンはケンタの言うことを聞かないようになった。
 まず消しゴムマンは、ケンタの机の上を歩き回って自分で消し滓を見つけては食べるようになった。ただ丸いだけの何もついていない頭の真ん中に穴が開いて、そこから滓を吸い込むのだ。食べるほどに体が大きくなるので、食欲も増して、そのうち隣の席の消し滓にまで手を出すようになってきた。そして昨日のさんすうの時間、とうとう消しゴムマンはケンタの消しゴムを丸呑みしてしまった。
「あ! あー……っ」
 思わずケンタがあげた悲鳴に、先生が振り向く。
「どうしたの、ケンタくん」
「あの、消しゴムが、食べられちゃって」
「まあ、食べられちゃったの?」
 先生と話しているうちに消しゴムマンはケンタの消しゴムを消化してまた大きくなってしまった。ケンタの持っているプラスチックのウルトラマン人形に似た大きさだ。
そして消しゴムマンはケンタの机から飛び出すと、教室中の机を渡り歩いてみんなの消しゴムを食べ始めた。
「先生、ぼくの消しゴムも食べられたー」
「わたしもでーす」
 ケンタは立ち上がって叫んだ。
「やめろよ消しゴムマン!」
 その言葉と同時だった。消しゴムマンの頭に開いた穴は、教室中の消しゴムを吸い込もうとした。消しゴムだけを吸い上げることなんてできないから、教科書やら筆箱やら、クラスのみんなの机に載っていたものがどんどん穴の中へ吸い込まれていく。でも消しゴム以外のものはやっぱり受け付けないのか、体のあちこちからポロポロこぼれ出している。そうこうしているうちに消しゴムマンはとうとう人間の子供くらいの大きさに成長してしまった。
 そのとき、どこから持ってきたのか大きなポリバケツを手にして、先生が消しゴムマンの背後に忍び寄った。そして、その首根っこをつかみ、ポリバケツに詰め込んで蓋をすると、
「ガムテープよこしなさい!」
 前の席の子が、教室の道具箱に入ったガムテープを取って来て先生に渡す。先生は蓋の上からしっかりガムテープで留めると、それをかついでいって、教室の後ろに置いた。
「さあ、みんな自分の教科書やノートを拾いましょう。授業に戻ります」
 みんなバラバラに散らばったそれらの中から、自分のものを探して拾い始める。ケンタも拾いながら、ポリバケツの中の消しゴムマンが気になってちらりとそちらを見ると、そこには先生の怖い顔があった。
「ケンタくん。まだ集中できないの?」
「え、えーっとえーっと……」
「今日の放課後は、『もう消しゴムマンを暴れさせません』と百回書いてから帰ってもらうわよ」
「ええーっ」
 ケンタの教科書だけが、なぜか最後まで見つからなかった。たぶん、まだケンタのだけ消しゴムマンが持ってるんだ。そう思うと、余計に消しゴムマンの入っているポリバケツが気になってしまうけれど、盗み見ようとすると必ず先生に注意されて、今日は何度怒られてしまったかわからない。散々な一日だった。


 学校の怪談というのはまあ定番のようなものであるが、俺たちの通うこの小さな高校にもひとつ、ちょっとだけ変わったのがある。
「死んだはずだよお富さん」、というやつだ。春日八郎の『お富さん』をパクってるあたり胡散臭さを増している気がするが、実はけっこう現代風の幽霊伝説だ。
 何年か前に、病気か事故か、何かの原因で卒業できないまま死んでしまった女子生徒がいた。その死んだはずの女子が幽霊になって校舎をうろつく、という、至ってオーソドックスな内容だが、その女子の名前に「富」の字がつくらしい、という噂で「死んだはずだよお富さん」につながったのだ。
 もうひとつ面白いのは、このお富さん、女子の間では一種の信仰の対象になっているらしい。なんでも、できるだけかわいい便箋にお富さんへの手紙という形で恋の願い事を書いて出せば、願いが叶うこと間違いなし、効果抜群という噂だ。だが手紙を出す場所は一部の女子にしか伝わっていないらしく、おれもまだ突き止められていない。
「で、そのお富さんが、実は『富里』って子だったって話があるんだ」
「……何をうれしそうに、お前は」
 机一つをはさんで向かい合った池端の呆れ顔をよそに、おれはテンションを上げる。
「だってこの小さい町で『富里』なんて他に何軒もいねえじゃん。彼女はおれと、血縁関係にあると考えた方が自然なわけよ」
「で、合宿の話をまとめるんだったな」
 おれの言葉をさらりと無視するわりに、池端の目の前には漫画本がひろげてある。
「人が話してる目の前で漫画読んどいて、何ぬかす」
 ばっ、と取り上げてやると、ちょうど目の高さに持ってきた本の表紙に、おれはただならぬものを感じてしまった。
「ばかめ。それは女の真実が描いてある本だ。お前のつまらん話など聞いてられるか」
「……って少女漫画じゃねーか! 何が女の真実だよ!」
 その少女漫画に「ただならぬもの」とは大袈裟な、と思われるかもしれないが、こういうものに縁のない男子高校生からすれば、表紙の、女の子の髪の毛がやたらフワフワ広がって絡まっている絵だけでも、何というか別世界である。
「だから、ばかの童貞め。少女漫画を描いているのはリアル女だぞ。女子の理想を知ることこそ女子を知る第一歩である」
 な、なるほど? 一理ある気もしたが、だからといってそのために少女漫画読むか、普通? やっぱりこいつアホだよな……。呆れを通り越して呆然とするおれに、池端はぐいっと顔を近づけてきた。
「なあ、富里……女は危険だぞ」
 眼鏡の奥の瞳がマジだ。こいつ少女漫画読んだくらいで悟った気とは、「ばかの童貞」はお前のことだろが。しかし次に池端から発せられた言葉におれは少しひるんだ。
「女には心中願望がある」
「え、何? 心中?」
 池端はおれの手から漫画本を奪い返すと、表紙をトントンと指差してみせる。
「この漫画に描かれているのは、亡くなった双子の姉の幻と会話する少女だ。この子は現実の煩雑な世界から逃避して、姉と二人っきりになれる別世界を模索する」
 おそらく今、おれの顔には漫画さながらにでっかいクエスチョンマークが浮かんでいることだろう。はっきり言ってさっぱり意味不明。
 池端は椅子から立ち上がり、なぜか黒板の方へと向かう。今は教室としては使われていない部屋なので、黒板はあるが教卓がない。
「女子の中にたまに、双子のようにそっくりな仲良し二人組、というのがいるだろ」
 突然話がとぶ。
「ああ、C組にいるよな。バレー部の。髪型も体型もおんなじだから見分けつかねえの」
 どっちもかわいいけどな……。
「実際おれたちの生活の中でも、漫画と同じようなことは起こっているんだ。ああいう二人組のようにな」
 さっぱり話が見えてこない。池端は何が言いたいんだ?
「この漫画の作者は、似たようなテーマで多く作品を書いている。たとえば、男女の双子で、お互いの性を代わりたがっている二人の話。結局、彼らは自分に性というものがあること自体を否定したいのだということに気付く。そしてたどりつくのが、大人になりたくないという結論だ。
 ほかの作家でもいろいろあるぞ。ふつうに男女のカップルでもある。幼馴染みの二人は、二人きりの世界が干渉されることを恐れて家出するんだが、その道中で気づいてしまうんだ。お互いの成長でさえ、『二人の世界』に干渉するものになるってことにな。そして二人は崖の上に立つ。断崖絶壁だ」
 おれはごくりと息を飲む。何がどうして一体、そんなことになってしまうんだ? ついでに言っとくと、こいつの読んでる漫画、少女漫画といえどちょっと偏ってないか?
「まあ結局思いとどまって、家に帰っちゃうんだけどな。そっから先の展開がくそつまらんせいで駄目漫画になってしまった」
 言いつつ池端は、白のチョークで、黒板になにやら殴り書いていく。
      ・自分のコピーの存在
      ・干渉の拒否
      ・成長の拒否
「少女漫画に顕著に現れる、この三つのテーマが何を表すかわかるか」
「あ、えーとそうだな」
「お前にはわかるまい」
 おい……じゃあ聞くなよ。
「これは、『死者の世界』へ向かうベクトルを示唆するのだ」
 池端は黒板に大きく「死者の世界」と書き、少しの間沈黙した。チョークが飛び散って字の回りに貼り付いている。――「死者の世界」なあ。そういえば、妖怪や怪奇関係のモノも、「死者の世界」である。干渉されない、成長もしないっていったら、『ゲゲゲの鬼太郎』の歌だなそりゃ。
 おれがそう言うと、池端は黒板からこちらを振り返った。
「そうだな……妖怪の場合はまた立場が微妙で面白いんだ。あいつらは永遠性を持ち、自由でありながら、時代のニーズに合わせて少しずつ姿を変えているんだからな。人間が手に入れられない、理想の世界のイメージを託されたのが、奴ら妖怪たちかもしれん。そういう意味では『生者』と『死者』の橋渡しがあいつらなのかもな」
 もしかしたら、女子が「お富さん」伝説が好きなのには、そういう意味合いもあるのだろうか。おれにはよくわからないが。
「しかし、『自分のコピー』っつうのはなんだ? なんで双子?」
 池端が眼鏡をついっと直してみせた。
「その辺がだな、オトメの求める『死者の世界』の理想なんだろうな。無自覚で、孤独な『死者の世界』に生きる人間はけっこういるが、女たちは永遠の理想世界をもう少し自覚的に求めているわけだ。それは暗くて独善的なつまらん場所なんかではなく、もっと魅力的な地獄だ。とはいっても、もちろん自分が妖怪には、なれんしな。
愛する人との永遠は誰もが求める。でも永遠はつまり、成長しない、干渉されない……そんな社会性のない関係は自分自身としか築けないだろう?」
 ずいぶんクサイことを言う。だが池端が小難しい大仰な言葉を使うのには、おれはもう結構慣れていた。
 自分以外の人間と一緒にいるという時点で、「成長」も「干渉」も避けられない。誰かと永遠を分かち合いたいなら、自分のコピーをつくるしかないのか。考え込むおれの正面で、池端は黒板の文字を消し始める。
「と言ってもまあ、あのバレー部の二人組がそこまで考えてるわけはないがな。きっと卒業して何年か経てば、そのうち全然似なくなってしまうんだろう。あの美しさは今だけのものだな」
 おれは少し驚いていた。この理屈っぽい奴が、そういう危険で儚いものを「美しい」と思っているのか。
 彼女たちはごく自然に、無邪気に「仲良し」を求めていながら、永遠という破滅的なものに向かって立っているんだろう。
「まあ童貞には少し早かったかな」
「……さっきからお前……、お前だって童貞だろ」
「で、合宿の話だが」
 はぐらかした。はぐらかしたな。黒板の鮮やかな白を消しさっていく池端の背中に食い下がろうとしたそのとき、部室のドアが勢いよく開いた。


 今日の消しゴムマンのことを、ケンタが母ちゃんに話していたら、家の外でブオンというバイクの音がした。町役場に勤めている父ちゃんが帰ってきたんだ。ケンタは父ちゃんによじ登ろうと思って、玄関にスタンバイする。
「ただいまー。おっケンタか」
 いつも父ちゃんは、帰ってきて最初にケンタを見ると、「おっケンタか」と言う。いつだってケンタは玄関で待っているのに、変なの、とケンタは思う。
 左足からよじ登って右足から降りて、今度は右足からよじ登って左足から降りると、父ちゃんは着替えるために二階へと上がっていく。ケンタも父ちゃんのあとをついていく。着替えを済ませた父ちゃんとそのままタタミの部屋でプロレスごっこをするところまでが、一連のお決まりなのである。
「こりゃー。このきかん坊ケンタ!」
 父ちゃんにお腹をめちゃめちゃくすぐられて、ケンタが笑いすぎでへとへとになった頃に、ふと父ちゃんが窓の方を指差した。
「おっ。隣の赤ちゃんがこっち向いてるなあ」
 タタミの部屋の窓は、お隣の家の2階の窓と一メートくらい離れて向かい合っている。その窓から隣の赤ちゃんが、ベビーベッドの上でゴロゴロしながらこっちに目を向けているのが見えた。確かもうハイハイするようになったといったっけ。目が覚めてしまって元気をもてあましているのか、足をバタバタさせたり、なんとかして起き上がろうとしている。
「赤ちゃーん、いぇーっ」
 ケンタが手を振ると、赤ちゃんは頭の上のベッドの格子をつかんで、じっとこちらを見つめた。すると、格子はカタンと音を立ててはずれてしまって、赤ちゃんの手から離れ床に落下した。赤ちゃんは上手に寝返りをうつと、格子がなくなったベッドの端につかまって体をそちらに引き寄せる。それはケンタたちが見える窓の方向だ。
「あれ、ダメだよ! 落ちちゃうじゃん!」
 とうとう赤ちゃんの頭が、ベッドの端からはみだして、がくん、とぶら下がるような形になってしまった。頭が重いから元に戻れないようだ。
「どうしよう! 落っこちちゃう」
「よし、父ちゃんちょっと助けに行ってくるな」
 父ちゃんが走って出て行く。
 すると、二つの窓の間を、黒い風のようなものが横切った。生温かい空気がケンタの鼻の辺りを一瞬むっとさせて通り過ぎた。
 ケンタにはすぐに、前に婆ちゃんから聞いたツンツン様という妖怪のことを思い出した。夕方、生ぬるい風を吹かせてやってくるツンツン様。そのおそろしさに、牛も足がすくむと、婆ちゃんは言っていた。よく意味はわからないけど、牛が怖がっている姿を思い浮かべると、なんだか不気味だ。こいつこそが、そのツンツン様なのだ。ツンツン様は窓の前をゆらゆらと動いて、今にも手を伸ばして赤ちゃんをさらって行きそうだ。
 そのとき、その窓のすぐそばに父ちゃんの姿が現れた。お隣の壁をよじ登ってきたんだ。すると、ツンツン様はみるみるうちにしぼんで小さくなっていった。父ちゃんが窓から入って赤ちゃんの体を抱きとめ、ベッドに寝かせるころには、それはすっかり消えてなくなってしまった。
 ベッドの格子もあっという間にきちんと直してしまって、するすると壁を降りていく父ちゃんを見て、ケンタはすべてがもう大丈夫なんだと思った。
「ケンタ、夕飯にするよ」
 開いた部屋の扉のところで、いつの間にか立っていた母ちゃんが呼んだ。
「あら、ここから赤ちゃんが見えるのねえ。ずっと見てたの?」
 ケンタが、父ちゃんが赤ちゃんを助けた、と話すと、母ちゃんはうれしそうに「よかったねえ」と笑った。


「またお前たちか。もう下校時刻を過ぎてるぞ!」
 おれと池端はやべえ、と顔を見合わせた。
体育教師の土屋は、オカ研を目の敵にしているのだ。下校時刻を守らない生徒を学校から追い出すことで有名な土屋氏だが、オカルトや非現実的な話が大嫌いらしく、オカ研の存在をも疎んでいるようだ。
 土屋は部室にずんずん侵入してきて、ふいに池端の頭に手を伸ばした。池端がとっさによけると、土屋は少し気色ばんだ。
「髪の色を戻せと言ったろう。何度言ったらわかるんだ」
 珍しく、池端の目つきが一瞬険しくなる。何度言ったらわかるんだ、はこっちのセリフなのだ。
「戻すも何も、元々こういう髪なんですがねー……」
 そう返す池端は、いつものぼーっとした調子に戻っている。
「なら証明書を出しなさい」
「担任の谷口先生には必要ないと言われたんですが……」
 池端は髪も目も色素が薄く、親父臭い性格のわりに、外人顔のイケメンだ。多少勘のいい人間が見れば元々の色だということが一目瞭然なのだが、土屋のような頭の堅いタイプには、池端の西洋風の顔が余計目立ってチャラチャラしているように映るのかもしれない。こんな田舎の学校だって、こっそりと少しずつ髪を茶色くするような女子が何人かいるが、頻繁に注意されるのは決まって池端だ。
「池端行こう」
 土屋が怒鳴って返そうとするのを遮って、おれは彼の横を通り過ぎ池端を促す。
「おい、話はまだ終ってないぞ」
 振り返って土屋を見る。自分の眼差しが、冷ややかなのを感じている。
「下校時刻過ぎましたんで、帰ります」
 おれは池端のように穏便にはなれない。怒りのオーラが体から溢れて、土屋に向かうイメージ。睨みつける先の、土屋の表情が固まり、ひやりとした空気が足元へ下がっていく。
「なんだその態度は……」
 おれの肩を、土屋の右腕がつかんだ。そのときふと、足元を何かが通り過ぎた感触がした。
 慌てて下を見るが、何もいない。
「どこを見てるんだお前! ちゃんと先生の目を見なさい。自分が先生に対してどんな態度をとったか、わかってるのか!」
 それを言うなら、こいつは自分が池端に、どんな失礼なことを言っているのかわかってるんだろうか? おれが言い返そうとするのを、池端の声が妨げた。
「そうだぞ、せんせいに対してそういう態度はよくないな」
「はあ?」
 突然何を言い出すんだと思って顔を見ると、池端のやつは妙に生真面目な表情をしている。しかし、おれは経験上わかる。これは、こいつが笑いをこらえている顔だ。土屋の声は突然明るい色になる。
「そうだな。なんだお前、ちゃんと分かってるんじゃないか。池端は勉強は頑張っているんだからなあ、本当はいい生徒なんだとちゃーんと先生は知ってるんだ。あとは髪さえ、な。ちゃんとしようなあ」
 池端は黙って微笑む。素材が良いだけあって素敵な笑顔に見えるが、本当はこれは悪意満ち満ちた笑みなのだと、おれ以外にわかる者はあまりいない。
「じゃあ、今日はもう下校時刻なんで帰りますね、せんせい」
「ああ、気をつけて帰るように。買い食いはだめだぞ」
 そのひとことに、おれは池端が今にも噴き出すんじゃないかと恐れる。案の定眉のはしが少しぴくぴくしている。
 今時珍しい、「買い食いはだめだぞ」という土屋お決まりの呼びかけが、生徒の間では「名言」と呼ばれて大いに笑われていることは、当人はきっと全然知らない。
「さようなら、せんせーい」
おれは半ば池端に流されるようにして、歩き出した。
「あ、さよーなら……」
 そう言って背を向けた。と、その背中でがたんという大きな音がした。
 振り返れば土屋が尻餅をついている。
「……先生、どうしたんですか?」
 土屋はわけがわからないといった表情で、尋ねたおれの顔を見る。
「い、いや? なんだろうな。何かが引っかかったんだが」
 土屋が立ち上がって、そう答えた矢先、今度は引っ張られるように前のめりになって転んだ。
「な、なんだ! 一体! ひ、引っ張ったぞ、お前ら何をしたんだ!」
 え? ちょっと待て、なんでおれたちが。急に矛先を向けられて池端と顔を見合わせる。自分で転んだんじゃないのか? 今の。
 しかしその瞬間、おれの感覚にも、奇妙なことが起こり始めた。――おれの手を、誰かが引いている。扉の方へ導こうとしている。
 背筋をゾクッと寒さが駆けて、身震いした。実は本当に怪奇現象に遭遇するのは、初めてだ。やばい、この得体の知れなさは、本気で気持ち悪いぞ。おそるおそる振り返るが、そこには何もいない。でも、手のひらの感触だけは、いまだにある。――何なんだこれは。ど、どうしたらいい? そして今、反対の手も握ってきた……
「……池端お前、何おれの手握ってんだよ」
「いやな、富里……なんかが、こっちのおれの手を引いてるようなんだが」
 どうやらそいつはおれたち二人の手を片方ずつ引っぱっているらしい。おれが池端にそう告げると、
「そうか。これは一体、何者なんだ」
 いや、それも不思議だがおれたちが手をつないでいるこの状況もかなりおかしい。この、姿の見えない手を引いているやつの格好も考えたら、「かごめかごめ」みたいになってるじゃないか。
「とりあえず気持ち悪い、お前」
 池端の手を振り解くと、今度は制服のひじのあたりをしっかり掴んでくる。
「なんなんだよお前は」
「怖いだろうが」
「怖がってんのかお前えらそうに!」
 ふと気づくと、ひざまづいたままの格好で、土屋の顔が真っ赤に沸騰していた。
「お前らは、先生を騙そうとしているのか。からかおうとしているんだろう、そうだな」
 引き結んだ口のはしがぷるぷると震えている。この教師の怒り方は、「キレる」に近いと噂で聞いたことがある。これは、やばいかもしれない。
 しかしそんなことをしている間に、手を引いているやつは焦れたのか、さらに強く引っ張ってきた。
「わ、わかった行くから」
 目の前の扉をドンドンドンッと叩く音がした。瞬時におれと池端は身をすくめる。扉の向こうに、何かいる……?
 というかまず、いつの間にこの扉は閉まっていたんだろう。土屋はたしか、閉めて来なかったはずだ。誰かが音も立てずにこっそり閉めて、そして今何者かがドンドン叩いている?
 怖と好奇心とがごちゃごちゃにまじった変な気持ちになる。しかし、このまま引っ張られたら、扉に衝突する。しがみついてくる池端を振り払って、おれはゆっくりと扉を開けてみた。
「……だれもいないぞ」
 ふと、一瞬目のはしに、黒い影が映った気がした。まさか、あれは。
「黒入道?」
「黒入道だと?」
 池端と二人、部室の外へ出る。廊下の窓は東側なのでもうだいぶ暗い。闇に沈んだ廊下の奥に、人影が動くのが見えるような気がする。それが先生でも用務員でもなくて、黒入道のように思えてしまうのはなぜだろう。
「おい……富里、見ろ」
 目の前に、おれの右手と池端の左手を掴んだ子供が立っていることに気付いて、おれはびくっと飛び退いた。おかっぱ頭に短い着物姿が、あまりに時代錯誤だ。しかしこの格好は……、
「かぶきり小僧か……?」
「おい、なんだ? その子供は」
 おれの問いに子供が頷くと同時に、いつの間にか扉の前まで来ていた土屋が尋ねた。
「どこから入り込んだ。もうこんな時間だぞ。お前たちも、その子供も、早く帰るんだ」
 かぶきり小僧は、この辺りの暗い夜道に出ると伝わっている子供の妖怪なので、「こんな時間」だからこそいるんだろうが、それを説明できる相手ではない。そういえばさっきは、部室の中が明るかったからこいつの姿が見えなかったんだろうか。おそらく土屋をコケさせたいたずら者も、こいつがその正体だろう。
「かぶきり小僧ということは、一緒に茶でもすれば良いんか」
「水飲め、茶飲め」と誘ってくるという言い伝えのかぶきり小僧に対して、冷静な判断の池端くんである。おれの肩にしがみついたままだが。ところがかぶきりは、池端の言葉には首を横に振った。さらに手を引いて廊下の奥へ導こうとする。
「そっちに行けばいいのか?」
「ちょっと待て! お前ら、まだわけのわからないことを言ってるな?」
 土屋の手が今度は池端の肩をつかまえた。
「どうしてお前たちは、先生にさからってばかりいるんだ。説明してもらおう」
 しかしおれたちに、それに答える余裕はなかった。
「……えーと、……さあ?」
「さあ、とはなんだ! それが先生に対して言う言葉か!」
「みゃあ……」
「みゃあとはなんだ、みゃあとは……」
 そのときようやく背後の気配に気づいた土屋は、振り返り、その格好のまま言葉の続きを失った。
「みゃあー」
 もちろん、「みゃあ」と言ったのはおれたちではない。もうさっきからすでに、おれと池端はその姿を捉えていた。二メートルほどもある巨体を丸め、おれたちの背後に四つん這いになっている。体中毛むくじゃらだけれど、何かヌメっとした感じと、やたらでかい目が不気味だ。
「こいつは……この辺りの者ではないんでなかったか」
 池端が見上げながら問う。
「いや、目撃情報が近くなんだからここらに現れてもいいんじゃん……当時おれ、噂に聞いて怖かったの覚えてるし。当時っていっても、二度目の出現の時だけどな」
「まあ、一度目の出現のとき、おれら生まれてないからな」
「……にしてもこれ、学校に出るようなもんか?」
 これは妖怪っていうより、都市伝説みたいなもんじゃないか。県内の大きな街のひとつで、七十年代と八十年代のある時期話題になった未確認生物。
 なんだかもう驚く気も失ってしまったおれに、土屋が体ごとぶつかるみたいに掴みかかってくる。
「な、なんだ、これは」
「「マツドドン」」
 池端とおれが同時に答えると、
「ふ、ふざけるな!」
 血管が切れそうな赤い顔で土屋が叫んだ。と、池端が何か思いついたように、また悪魔の微笑を浮かべた。
「先生、どうかしましたか?」
「ど、どうかじゃ、ない! お前たちは先生にさからって、変な、変なものを」
「変なものってなんですか? 何かあるんですか」
「……っ!」
 血の上ったすごい形相で、土屋は金魚のようにぱくぱくと口を開いて「マツドドン」を指差した。突然の池端の豹変が、信じられない、といったふうだ。
「え? なんですか? 何かそこにあるんですか」
 しかし池端は、平然としらを切ってみせる。おれは何か不安になってきて、池端をつついてささやいた。
「ちょ、ちょっと。やばくないか? なんか」
「大丈夫だ。見てろ」
 おれが土屋の立場だったら、これは精神崩壊しそうだ、と思ったのだ。池端は何に関して大丈夫だと言ったのだろう。が、ふと土屋の顔に視線を戻すと、顔色が普通に戻っている。
「先生?」
 すると、土屋はにっこりと笑ってみせた。
「……いや、悪い悪い。先生何かおかしなことを言ったかな? いやいや」
「いえ、別におかしなことなんて何もないですよ。少しぼうっとなさってたみたいでしたけど?」
 そう言って返す池端の視線の先、土屋の背後で、「マツドドン」が口を開けて「みゃあ」と鳴いている。
「そうかそうか、悪い悪い、何もおかしなことなんかないよなあ」
「みゃあー」
 その時かぶきりがおれたちの手をぐいっと引いて、何かを指差した。その先の廊下に、赤い風船のような灯りが宙に浮いてともっている。あれは、この辺の昔話にある、「火の玉提灯」ってことなんだろうか。
「ああ、行くの、か」
 かぶきり小僧に引かれて歩き出したおれたちを見て、土屋が後をついてくる。
「そう、そうだ。もう遅いからな。お前たちは、帰りなさい。先生も、途中まで見送ってやろう、な」
 おれは再び池端を小突いてささやく。
「な、なんだこりゃ? こいつ一体、頭ん中どうなったんだよ」
「こういう人間なんだよ。このパターンの奴は、おれは前にも経験があるからな。彼は彼自身の『死者の世界』での秩序内のことしか、理解しないし信じない。秩序が干渉されたり、変化したりするのは絶対許されない。
 今まさに、彼の秩序に干渉するものが入り込んできて、パンク寸前になっていたからな。おれはご親切にも、それらを無かったことにする手伝いをしたのだよ。ちょっと手伝ってやれば、あとは簡単に自分でマインドコントロールするわけだ」
 なんだそりゃ。と、おれは思う。そんな簡単に、目の前にあるものを無かったことにできるものなのか? でも、普段からの土屋の行動は、池端の解説に照らし合わせるとばっちり説明がつくようにも思えた。
 そういえばさっき、池端は言っていた。「無自覚で、孤独な『死者の世界』に生きる人間はけっこういる」と。
「おい、お前ら、あんまりおかしな話ばかりするんじゃないぞ。おかしな大人になってしまうからな」
 後ろを歩く土屋にそう声をかけられ、おれは複雑な気持ちになった。「おかしな大人」、なあ。
 今自分の身に起こっている「おかしな」事件に関しては、不思議とおれはもう、とても落ち着いてとらえていた。土屋がその真逆を行ってくれたお蔭かもしれないが。
 小さい頃から本や地史で読んだり、婆ちゃんから聞かされたりして親しんだ妖怪たちは、おれにとって初めて会う気がしなかった。
 池端はといえば、あれだけ冷静に対応しておきながら、実はまだ怖がっておれの肩をつかんだままでいる。よくわかんないやつだ。
 この廊下にいる妖怪は、いまやかぶきり小僧とマツドドンだけではなくなっていた。
 嬉しそうに「たまご、たまご!」と叫びながら駆けていく兵隊姿の男。
「あれって宿舎に現れるっていうやつじゃなかったけなー」
「まあ学校も似たようなものだろう」
 ロッカーの上から狐が、やたらとでかい口をパックンと開けて威嚇している。
「ロッカーの上って……土手の上じゃなくて?」
「まあその辺は臨機応変ということなんだろ?」
「なんかめっちゃくちゃじゃないか。いいの、こんなんで」
「おれが知ったことか」
 と、向こうから黒い影とともに、生ぬるい風が迫ってきて、俺たちの横をすり抜けていった。
「うわああ」
 池端がさらに強く肩にしがみついてくる。影が通り抜けていった先を振り返ると、牛が怯えて震えているのが見える。
「怯える牛もついてるのか! オプションみたいなもんか?」
「『牛も怯えるツンツン様』だな」
「ははは、なんだ池端、夜の学校が怖いのか。まだまだ子供だからなあ」
 時々入る、土屋の見当はずれなセルフマインドコントロールを適当に聞き流し、コの字型の廊下を曲がって、特別棟から教室棟に入っていく。火の玉提灯は、常におれたちの二メートルくらい先に浮いている。そして二年B組の教室の前でそれは止まった。池端のクラスだ。おれのクラスはその先、二年A組。
 火の玉提灯に追いついたおれたちのために、二年B組の扉を何者かが開けてくれる。
 そう、暗闇に紛れて姿がよく見えない、そいつは、真っ黒な、黒入道ではないか。しかもよく見るとおれの作ったハリボテの黒入道くんである。
「やあ、ごめんな、追い出しちゃって」
 おれが声をかけると、黒入道は静かに首を振った。ずいんぶん健気なやつだなあ。
「どうした、教室に何か用か。忘れ物か。待ってるから早く取ってきなさい」
 土屋の声が静かな廊下にやたらと響いた。
 おそるおそる、おれと池端は教室に入る。もう月灯りが差し込んでいる。逆光に照らされて、誰かが立っている。その人はそっと、こちらに近づいてきた。だんだん姿が明らかになる。スカート、女子の制服だ……でも、うちの制服はセーラー服じゃない。
「あれは、昔のうちの制服か?」
 池端がつぶやいてはっとした。そういえばうちの学校、七年前に制服が変わったのだった。じゃあ、あの女の子は……
「まさかお前の好きなお富さんじゃあるまいな?」
 彼女は顔が見える距離まで近づいてきた。そして、まるでおれが目に映らないかのように、横を通り過ぎた。
 

 姉ちゃんはいつも部活で遅く帰ってくるから、ケンタが寝る時間にはいないこともよくある。だけどその日、ケンタが夜中に目を覚ましたときにいなかったのは、ちょっとおかしいと思った。そのうえ、いなかったのは姉ちゃんだけではない。父ちゃんも、母ちゃんもいない。婆ちゃんだけが、居間に静かに座っていた。こんな時間に婆ちゃんが起きていることも珍しい。やっぱり、何かが変だとケンタは感じた。なにより、家の中が静か過ぎて、ケンタの家じゃないみたいだった。
「いぇー、寝られねえだん?」
「うん……みんなどこ行ったの?」
「ああ、あんでんねえ、あんでんねえさ」
 何でもない、と言われても、どこに行ったか話してくれないのに、安心できるわけない。
「明日父ちゃんと母ちゃんが、ちゃんと姉ちゃん連れて帰ってくっから、布団かぶって寝ちゃったい」
 婆ちゃんはそう言ってケンタの手を取ると、ケンタの寝床まで連れて行った。婆ちゃんがこんなにはっきりしないのなんて、初めてだ。
「父ちゃんと母ちゃんが、姉ちゃんを連れて帰ってくるの?」
「おいよお。明日はいい日ださあ」
 婆ちゃんの「明日はいい日ださあ」は強力だ。婆ちゃんがこう言ったときには、必ずそのとおりになるのだ。でも、今日はなぜか、その言葉を聞いても不安がケンタの側から離れていってくれない。
 ――姉ちゃん、迷子になっちゃったのか?
 父ちゃんと母ちゃんは今、姉ちゃんを探しているんだろうか。
布団の中で目を閉じる。すると、姉ちゃんの姿が浮かんできた。高校の教室で一人、月明かりに照らされている姉ちゃん。
 ――今そこにいるの? 姉ちゃん。
 ケンタの目がぱちりと開いた。大人に知らせなきゃいけない。姉ちゃんがいる場所は、あそこだ。居間に出て行くと、婆ちゃんの姿がなかった。婆ちゃんも、姉ちゃんを探しに行ったんだろうか。
 ケンタは心を決めた。自分が姉ちゃんを、迎えに行ってあげなければ。パジャマの上にお気に入りのジャンパーをはおる。玄関でいつものスニーカーを履く。ドアにかかっていた鍵とチェーンには、靴箱の上に乗ると手が届くことを、前から知っていた。
 しかしケンタは、外に出た瞬間、立ちすくんだ。こんな夜中に外出するのは初めてだった。
 夜、家の外は、オバケでいっぱいだ。
 婆ちゃんが話して聞かせてくれたヨウカイや、最近近所で出るって噂のユウレイや、絵本やアニメに出てきたやつ、ケンタの夢に出てきたやつも、夜道にはうようよいる。思わずケンタは目を瞑る。すると目蓋の裏に、高校にいる姉ちゃんの姿がまた浮かんできた。そうか、姉ちゃんはオバケがいるから家に帰ってこれないんだ。そう思うとよけいに、やっぱり迎えに行ってあげなければならない気持ちになった。
 ケンタはぎゅっと両方の拳を握り締めると、オバケたちの間をくぐって、夜道を駆け抜けていった。
 

 デジャヴュ。固まってしまった。
 月明かりに照らされた夜の教室に、一人の女の子。この光景に、おれはなぜかとても、覚えがある。でも、一体こんなものいつ見たっていうんだ。姉が高校生のとき、おれはまだ小さくて、あの日も結局おれは、校舎に入れなかったんじゃないか。
 姉は生まれつき心臓に病気を抱えていた。死んだときは今のおれと同じ、高校二年生。演劇部の部長をやっていて、忙しそうだけどいつも楽しそうだった記憶がある。十年は生きられないと言われていたけれど、それが十七年に延びて、でも、ある日それは尽きてしまった。部活の最中に倒れたのだという。
 その日おれは、夜中に起きてしまって、家に婆ちゃん以外誰もいないことにびっくりした。姉はそのとき手術の真っ最中だったのだろう。
 ところが何を勘違いしたか、おれは姉が高校にいると思い込んだ。あの時のおれの行動は、今じゃ自分でもナゾだ。おれは婆ちゃんがトイレに行っている隙に外へ出て行った。姉を迎えに行かなきゃならないと思ったのだ。
 結局婆ちゃんが一人でおれを探し出して連れ帰ってくれたらしいが、姉が大変なときにおれまで行方不明だなんて、あの時の婆ちゃんの心地を考えるとほんとにとんでもないことをするガキだったと思う。
 姉の葬式の日、大人たちがおれの脱走話に大笑いして、笑いながら、泣いていた光景を覚えている。
「おい、こりゃ、お富さんかな。そうじゃないか、富里?」
 はしゃいだ声で、池端が話しかけてくるが、おれは金縛りのように声が出せない。 
 ずっと、そうだったらいいって思っていた。今でも姉が学校にいて、女子たちに愛される存在でいてくれたらいいのにって。でもそう思うことは不謹慎なことでもあるのがわかっているから少し後ろめたかった。
 でも今、お富さんかもしれない彼女を目の前にして、おれは、わからなかった。あの人の顔をもう忘れてしまっているということを、今になって深く感じた。姉ちゃんが、お富さんかどうか、判断できない。
「富里……友香……」
 その声は土屋だった。部屋に一歩踏み入れた場所で、呆然と彼女を見つめていた。
「富里友香」は、おれの姉の名前だ。
 固まっていた指先が動いて、おれが彼女を呼ぼうとした、そのとき、
「いい、いい加減にしろおおお」
 突然の狂ったような叫び声に振り返る。土屋が血相を変えて、ドンと壁を殴りつけた。
「こんな悪ふざけを、お前らは、ふざけて、富里はしん、死んだ!」
「せ、先生?」
 池端がおそるおそる歩み寄った。その瞬間、この男は狂っていたとしか思えない。土屋の両手が、逃れる間もなく池端の首へ向かっていったのだ。
「死んだだろう!」
「池端!」
 池端が黒板に横から叩きつけられそうになる瞬間、おれはただ叫ぶことしかできなかった。


「ケンター、ケンタどこさ行ったー」
 婆ちゃんは堤防の上を歩きながら、ケンタを探していた。すると、父ちゃんと母ちゃんがちょうど向こうから歩いてくる。
「あら、お義母さん、どうしたんですか」
「トイレ行ってる間にケンタが出て行ってしまったださ、申し訳ねえよ」
 姉ちゃんを探していた父ちゃんと母ちゃんは、目を丸くした。
「そりゃあ大変だ、ユカだってまだ見つかってないのに」
 婆ちゃんは立ち止まり、足元に落ちていた石ころを手にする。
「ああ、そうだな。星を作ればケンタもユカも、気付くかもしれない」
「おいよお」
 婆ちゃんは思いっきり高く小石を放り投げた。ところが小石は弧を描く間もなく、へろへろと砂の上に落っこちる。
「何やってんだい母さん」
「あんだぇ、おかしいねえ」
 婆ちゃんはもう一度小石を投げてみる。しかし何度やっても同じように、石は石のまま、星にならずに砂の地面へと落ちる。三人の大人は途方にくれて、星たちを見つめた。
「やっぱり、ケンタがいないとダメかね……」
「そうですねえ、ケンタがいなきゃダメなのかしらねえ」
「ケンタ。お前が帰ってこないと、世界が変わってしまうよ」


 影のように黒い腕が、背後からかぶさるようにして土屋の両手を絡め取った。それは黒い蔦のような形に変化してくるくると土屋の腕に巻きつき、とうとう繭のように腕全体を覆ってしまった。
「黒入道!」
 池端はちょっと咳き込みながらも、無事のようだ。土屋はというと、いつの間にか気絶して倒れていた。おそらく恐怖で気を失ったんだろう。黒入道の腕がするすると元へ戻っていく。
「お前、助けてくれたのか」
「……黒入道くんは部室から追い出すべきでないとおれは思う」
 咳き込みながらも調子のいい池端に呆れていると、黒入道がおれの後ろを指差した。
 おれの視線は、黒い指から、その先の、彼女へと移った。
 おれに背を向けたまま壁に向かって、彼女は口を開いた。
「ケンタ。」
 ――「健太」、そう、言ったのか?
「なんだ? おい、お富さんがお前の名を呼んどるぞ」
 池端の間の抜けた声を聞き流しながら、おれの心臓はばくばくと鳴っていた。そうだ、この人は姉ちゃんだ。どうしよう、なんと言ったらいい? しかしそのとき、壁際で小さな影が動いた。
「姉ちゃん!」
 壁にぴったりとくっついて座っていたようだ。飛び出してきた子供は、姉に抱きついて、急に安心したように、泣いた。
「怖いのによくがまんしたね、迎えに来てくれたんでしょ。ありがとう」
 姉が子供に話しかけている。これは、この子供は、この光景は……
「一緒に帰ろ、ケンタ」
 子供は黙ってうんうんと頷いた。そして姉と手をつなぎ、二人は廊下へ消えた。
おれは、ただ、呆然とそれを見守っていた。


 名前を呼びつかれて、婆ちゃんは座り込んだ。足元に転がる石をしわしわの手で撫でてみる。この中のどれかが、星になってもいいはずなのに。
「おい母さん、大丈夫かい? 疲れたんなら家へ帰って休んだ方がいいよ」
 父ちゃんが心配して声をかけた。
 だが、婆ちゃんはそのとき、手にした小さな石ころを、夢中でじっと見つめていた。
「ああ、これ、こん感じだ」
「母さん?」
 ニッコリ微笑んで立ち上がった婆ちゃんの手の中に、一つの小石。
「家にもろっどお! ケンタとユカが待ってるよー」
 婆ちゃんは、海岸で探していた母ちゃんにも聞こえるように、大きな声で叫んだ。
「何、ほんとかそりゃ」
「ほんとですかあ、お義母さん!」
「まちげえねえ」
 そう言うと婆ちゃんは、手の中の石ころを、夜空高く放り投げた。


 通学路の途中の長い堤防の上で、おれは小石を拾い、水平線にのっかって横に引き伸びた夕日へ投げてみる。小さな砂浜なので波打ち際までとどいて、ポチャンと音を立てる。
 おれが小さい頃婆ちゃんはよくここで、小石を投げるふりをしてどこかへ隠してしまい、そのまま空を指差して、「ほら、あの星が今投げた石ださあ」、とかいう冗談をやってくれた。そういうのがやけに上手な人だった。
 小さい頃はすっかりだまされて感心していたものだっけ。なにしろ、婆ちゃんの言うことは、明日の天気にしろ仲直りの仕方にしろ、絶対間違いがなかったから、疑うことを知らなかった。中三の頃に逝ってしまったから、もう二年経つのか。

 さて、あの夜の後始末について、何から話したらいいだろう。
 姉と「ケンタ」が手をつないで帰っていったあとを追って廊下に出ると、そこにはもう、二人の姿はなかった。
 そのうえ廊下にも教室にも、それまでいた全ての妖怪やら未確認生物は姿を消していた。唯一黒入道だけは元のただのハリボテに戻って、二年B組の教室に転がっていた。そんな中でおれと池端は、気絶した土屋のために保健室の先生を呼んできたり、黒入道を部室に運んだり、文字通り後始末をして帰路についたのだった。黒入道はこれで部室に舞い戻ることになったので、健気なようで彼はなかなか策士なのかもしれない。
「おい、富里」
 月夜の道で、池端が口を開いた。
「おれはどっから説明してもらえばいいんだ」
「なんか色々おかしいぞ質問……」
 そうはいっても、おれに説明できることは、「富里友香」はおれの亡くなった姉の名前だということだけなのだ。おれたちの目の前に現れたものが何だったのかは、おれ自身も想像するしかない。だけど、あの「ケンタ」、おれと同じ名前で呼ばれたあの子供の姿に、おれは姉の死んだあの夜のことを思い浮かべる。
 あの夜、おれはもう閉まってしまった高校の門の前で、座り込んでいるうちに眠ってしまった。婆ちゃんが眠っているおれを見つけておぶって帰ってくれたらしい。
 それなのに、なぜか教室で二人が出会う光景に、おれは既視感を覚えていた。
 幼いおれは高校の教室にいて、オバケが怖くて震えているところを、姉ちゃんが見つけてくれる。そして「一緒に帰ろう」と言ってくれるのだ。校門の前でうずくまり見ていた夢が、そんな夢だったのかもしれない。
 そう話すと、池端は黙って目を細めていた。

 もうひとつ、土屋に関しての話がある。あのとき明らかに様子がおかしかったので、母に確かめたのだ。
 おれの予想通り、土屋は姉が亡くなった当時の担任だった。そして姉の死の後自ら謝罪にきたという。演劇部が遅くまで活動するのを許してしまった自分の責任だといって、「腹を切って詫びたい」とホントに言ったそうだ。彼はそのころから、そういう人間なんだろう。
 下校時刻の鬼となったのも、そのときのことが原因なんだろうが、そんなものはほとんどジンクスに近い馬鹿げた話だと、おれは思ってしまう。土屋の気持ちは痛々しいし、わからないではないが、腹を切られたところで解決するのは土屋の世界の問題だけなのだ。でも、彼にとってはそれで良しとされる。
 数日後、職員室前の廊下ですれ違ったとき、彼はおれに満面の笑みで、「今日も早めに帰るんだぞ」と言った。池端の言う、「死者の世界」という言葉が初めてわかった気がした。

「とおっ」
 掛け声が聞こえて、小石が飛んでいき、波に落ちた。見ると、いつのまにか池端が隣に立っていた。
「お前はほんっと、いつのまにかいるやつだな」
「まあ、小説の構想に行き詰ってな。息抜きだ」
「フーン」
 おれはまた石を投げる。ポチャンと音を立てる。ふと、あれからずっと気になっていたことが、口をついて出た。
「なあ、あれは、おれの『死者の世界』だったのかな」
「ああ?」
 池端が石を放り投げながら、間抜けな声を返してくる。ポチャンという音とともに波間に落ちる小石。
「そうだな、あれは富里の少女漫画かもな」
「おれ自身が、ああいう永遠を望んでいたのは、確かだと思うんだ。姉ちゃんがお富さんだったらいいって実際思ってたし」
 おれもやっぱり、「死者の世界」を求めている。おれにも、土屋のような面があるのかもしれない。
「富里。『死者の世界』に憧れるのと、実際に『死者の世界』に居るのとは、全く違うぞ」
 おれが投げた小石がポチャンというのと同時に、池端がおれを見つめて言った。
「生きている奴しか、死に憧れることはできないんだからな」
 そうか。それもそうだ。
「それに、あれは現在のお前のものではないかもしれんからな」
「あ? なんだそりゃ」
 池端は急に、恨みがましい目になってにらんできた。
「だってなんでお前なんぞの妄想が、現実にまで影響してくるっていうんだ。だったらおれの妄想を実現してくれたっていいものを」
 池端が投げる。小石がポチャンと音を立てる。
「なんか、おれがエライんじゃないか?」
「なわけなかろう。お前じゃなくて、『ケンタ』だったらわからんがな」
 ポチャン。ポチャン。……え? おれじゃなくて、「ケンタ」?
「あの、教室で膝を抱えていた子供だよ」
「あれは、昔のおれじゃん?」
「昔のお前は、お前から離れて、死者として永遠を手に入れたのかもしれんぞ。現在ここにいるお前が生き続けることを代償に」
 それは、おれが、姉を永遠にしたかったからだろうか。永遠はおれたちの手を離れたところで、こっそり実現しているのだろうか。
「そうだなあ、もしかしたら一瞬一瞬、おれやら、お前やらが『コレが世界』って認識するごとに、それぞれ別々の『世界』が生まれて、おれたちの与り知らぬ場所、次元の違うどこかで、人間の認識の数だけの『世界』が今も続いているのかもしれない」
 池端がまた複雑なことを言い出す。
「それが、パラレル・ワールドという発想ではなかろうか?」
「フーン」
 おれが小さい頃見ていた、不思議なことがたくさんある世界は、今でもどこかで引き続き、不思議な夢を幼いおれに見せ続けているのだろうか。
 大きく振りかぶって、池端が小石を放り投げた。ポチャンという音。
「……て感じの小説を書こうと思ってんだがな」
 ガクッとよろけるおれをよそに、池端は次の石を物色している。おれもしょうがないので、投げる石を手にする。
 おれと池端は、夕日が沈んだ青紫色の空に、二人同時に、高くその石を放り投げた。ポチャンという水音は波にかき消されたのか、よく聞こえなかった。
 帰ろうと背を向けたおれの後ろで、池端が言った。
「あ、一番星……と、二番星、だ」




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