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超不敬虔キリスト教徒な私でも、たまにゃあ福音書くらい読みます(笑)
まあだいたい打算があって読むんですが。

でもやっぱり、そのときそのときで考えてることに対する答えが必ずあるんだよね。
不思議です。

偏向報道について怒り狂っていたのは数日前のことですが、そういえば、キリストも言葉尻をとらえてわざと捻じ曲げた解釈でもって中傷されることの連続だったんですよね。
いわゆる「律法学者とファリサイ派の人たち」というやからですね。

紀元1世紀の昔からこういうことはあったわけだ。面白い。


そんな中ですごいのが、ここ。

マタイ13-14
『あなたがたは聞くには聞くが、全然悟らない。
見るには見るが、全然認めない。
この民の心は鈍くなり、
目は閉じてしまっている。
それは、彼らが、
目で見、
耳で聞き、
心で悟り、
わたしに立ち返り、
そして、わたしが彼らをいやすことのないためである。』



なんかこれ、メディアに関わるうえでの教訓という気がして。
そうだ、ぜんっぜん理解しない人っているんだわ。
そういう人にはもう言葉じゃどうにも通じないってことを、聖書はすでに書いてるんだよね。
目からウロコ。

そして、守るべきおきては、


マタイ19-18
「殺してはならない。
姦通してはならない。
盗んではならない。
偽証してはならい。
父母を敬え。
また、隣人を自分のように愛せよ」


「偽証してはならない」だけちょっと浮いてると思いません?
ここにこれが入るのかー、と。
偽のあかしをしてはいけないんですよ。うん、すごい。



しかし読んでいて感じたんですけどね。

私は「言葉」というものが「真理」だとか「心」だとかと別次元のもので、だからこそ「言葉」は外枠しか伝えることができない。
本当のことを伝えようとしたら、物語や詩という形で遠回りするほかないのだと、そう思っていたんですよ。

しかし、本当は「言葉」の方が「真理」そのもので、私たちの理解力がそこに追いつかないだけなのではないか?と。私たちはいつも「言葉」を間違って使っているのかもしれない、なんて。
なにしろ、人間が言葉を理解する論理的なしくみは、いまだに明らかにはなっていないのだからね。



さて、明日は決戦の木曜日ですわ。
ドキドキする。スリリングだ。
神様ヘルプと言いたいけれど、まあ、みこころのままに、くらいのスタンスで。
これってそれくらいの感じで生きたほうがいいよってことだと思ったりする。「みこころのままに」。
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