ミュージカル『1789 バスティーユの恋人たち』
・小池ロナン×ねねオランプ×凰稀マリー
・小池ロナン×さやかオランプ×花總マリー
・加藤ロナン×さやかオランプ×凰稀マリー
の組み合わせで観てきました。

まず、フランス発のミュージカルなので、日本人が書いた「フランス革命」からはあまり感じてこなかったことが所々にあったなあ、と。

今まで教科書などで読んでいたフランス革命では、民衆が武装蜂起したことの方が印象に残っている。しかし、今回の舞台ではその前に「虐殺」という言葉が数回はっきりと示されている。視覚的にも、丸腰の市民たちを複数の軍人が銃で狙うシーンが繰り返される。
そうか、この歴史が「フランス革命」という言葉で残っているのは、市民が武器を取り立ち上がったからなのだ、と。そうしなければこの歴史は、フランス軍による市民虐殺事件として名を残していたのかもしれないんだ、と思った。
しかし暴力はさらなる暴力を生み、ロベスピエールは政敵やかつての仲間までも次々とギロチン送りにする独裁者となっていくという、次の歴史もある。互いに殺しあう戦いはやはり悲惨なものだとは思う。
それでも、決して屈しない、どんなに大きな権力が攻撃してきても、自分が虐げられて良いとは絶対に思っていないフランス市民の力強い姿には、感動せずにはいられない。この精神性は少なくとも現代の日本人にはかなり乏しいと思う。

小池ロナン版では、冒頭のシーンでもすでに「そうか!これがフランスの人たちの強さか!農村の人々でもこんなに誇り高い!」と思ったのだけれど、加藤ロナン版では冒頭シーンがすごくあっさりしててちょっと驚いた。
それは2人の演技プランの違いによるもので、どちらが良いかは人によって好みが分かれると思う。2人のロナンは、驚くほどに全く別の人物に仕上がっていた。
歴史ものという性格もあって行間の多い物語だから、演技によって人物像が大きく左右されるのだろうけれど、ここまで違うロナンをダブルキャストでそれぞれに作り上げた2人の役者は、本当にすごいと思う。この2者を見比べられたこと自体が、とてもエキサイティングな演劇体験だった。

加藤ロナンは、ロベスピエールたちと出会った当初からしばらくは、彼らから聞いた自由、平等、権利といった言葉をそのまま、覚えたての言葉を使いたがる子どものように話している。彼がその意味を、本当に自分の実感の中で理解するのは、一幕の終わりだと思う。

一方小池ロナンは、ロベスピエールたちから自由と平等、人の権利について聞かされた時、きっと「それは自分が元々知っていたものだ」と感じただろう。
哲学とは「人間がどう生きるべきか」という学問だと聞いた時、彼は「それならあんたたちインテリよりも俺の方が知っているかもしれないぜ」と答える。加藤ロナンはこれを、気の良さそうな素朴な調子で話す。
小池ロナンの場合、この言葉に、彼が農村で作物や家畜を育て、村の人々や家族と助け合い、貧しさや自然の困難を乗り越える中で学んできたことに強い誇りを持っている、確信を持って「人間がどう生きるべきか知っている」と話している、と感じさせる。
小池ロナンはロベスピエールたちと初めて会った次のシーンでは、すでに権利も自由も平等も、自分の言葉にしている。彼は元々それを農村の暮らしの中で知っていた。そこに明確な言葉が与えられた瞬間は、きっとヘレンケラーが「水」を理解した瞬間のような衝撃と感動があったに違いない。

きっと革命に身を投じた貧しい平民たちの中には、加藤ロナンのような青年も、小池ロナンのような青年もいただろう。どちらの立場から描かれることも意味があると思う。
しかし、小池徹平でなかったら、農村に暮らす学問を知らない貧しい人々の中に確固たる哲学があることを、ここまで明確に示してくれただろうか…と思うと私は涙が出る。

現代の政治や運動に置き換えても、どうしても中心は、学ぶことのできる環境にあったインテリ層が多くなってしまうという問題はある。
反差別、反貧困を叫んでも、その真ん中にいる人たちの偏りは否めない。本当に貧しく、学ぶことのできない環境にあった人がその中心にいることは少ない。
私自身、その問題を丁寧に扱うことができず、後から指摘されて後悔した苦い経験がある。
だから、ロナンがロベスピエールたちを責めるシーンは自分自身にも鋭く刺さる。

二幕の初め、ダントンが皆に「シトワイヤン(市民)!」と呼びかけるシーンで、なぜか私は一瞬、自分にも呼びかけられたように錯覚して、はっとしたのだった。
観ると必ずオザキ8されると話題の映画「X-ミッション」、観てしまいました。
観終わってすぐは、いや~私はそんなにハマらなかったなあ、と思ったんですよ。
ところどころツッコミ入れたくなったし、おかしいと思ったし、そんなにオザキ8されなかったよ、と。

でも1日経って、ふと。
いやツッコミ入れたいと思ったところは確かにおかしかったけど、まずもっと前提の部分がおかしかったから…!基本的なベースがまず色々…!
ということにやっと気付き、私もまんまとオザキ8されていたということが判明してきました。

まずこの映画、エクストリーム・スポーツというやつが話の軸になっています。
エクストリーム・スポーツってあれです。ものすごい高い崖をバイクとか自転車で走ったり、わざわざ落ちたら死ぬよっていうところで死ぬような危ないことをやってのけるっていう、時々「世界のビックリ映像」の番組とかでやってるやつです。
だいたいああいう映像を見る時、我々凡人は
「なんでわざわざ危ないことするのかわからない~死ぬよ~やめなよ~」
っていう気持ちになるものですよね。

なぜ彼らはそれでも挑戦するのか。それはオザキ8のためだったのです。オザキ8、それは自然と一体になるための8つの修練である。

はい、↑これが映画の全編を通してすべての基本となっています。
細かいところにツッコミ入れたらキリがないような映画なんですが、この前提に対してツッコミを入れることを、ある時点から忘れます。そうなればあなたももうオザキ8の手の内です。

死ぬよ~っていうチャレンジをするのがオザキ8なので、けっこう人が死ぬんですが、なんか別にチャレンジをしてる時じゃない時もけっこう死にます。
最初のうちはエクストリーム・スポーツをやってて死ぬことの方が「いらんことやって死んだ!」と思うのに、いつの間にかエクストリーム・スポーツじゃない時に死ぬ方が、「え、このいらないシーンで死ぬん…?」って思えてくるからもうすでにオザキ8されてます。

ちなみにオザキ8という修練は、オノ・オザキという日本人が仏教思想に基づいて提唱したらしいのですが、オノ・オザキはどっちが苗字かわからないこの名前の時点で笑わせてきますけど、死に方で2回笑わせてきます。
人は1回しか死ねないのに、死に方で2回笑わせられるなんてオノ・オザキくらいなものです。さすが自然への敬意が違います。

あと自然と一体になるとか、自然への返礼をするとかめっちゃ言うわりに、あんまり環境に良いことをやってる感じもしないです。
自然への返礼もそこまで環境保護のために良いことなのかよくわかんない感じで終わります。
エコでロハスな感じのシーンよりパリピがズンチャズンチャ踊ってるシーンの方が多いです。

後半はえっそんな展開?そんな展開!?あれれれ~!?ってなるんですけど、その前にそもそもの前提が何言ってるのか私理解してなかったんだった…っていうことに気づくのに、私は1日かかりました。

そんな感じで、私これ正直、別に観なくてもいい映画だと思います。
良い映画はいっぱいありますよ。他の映画をもっと観ましょう。
でも一度観てしまったら、絶対もう一回なんらかの形で観ようと思っている自分がいることが怖いです。できればレンタルビデオで友達と一緒に観たいですね。
ケイト・ブランシェット様とルーニー・マーラたんのラブラブ映画「キャロル」を観てきましたよ!

これは、私のような者が観ると本当にただの、良質な恋愛映画だと思った。
もっと「社会派」なテーマに切り込もうと思えば切り込めるポイントは、けっこうある。あの時代の女性の立場とか、同性愛が治療の対象とされていたこととか。
でもあえてそこに深く言及せずに、彼女たちの恋愛感情の移変わりに視点を絞ったところにこだわりを感じる。

彼女たちは女性同士の恋愛をしている。それは特別な理由を必要とするものではない。ただ彼女たちは恋愛をしているのだから。

この描かれ方は、同性愛というものにまだなじみがない人や、また同性愛が拒否感を持たれる世界に慣れてしまった当事者にとっても、逆に衝撃を与えると思う。

ただ恋愛することを「社会派」な出来事に取り込まれなければならないなんてナンセンスだ。でも現実の同性愛者は、ただ生きている全ての出来事が社会と衝突しなければならない。
実際彼女たちの恋愛も社会の様々な障害に衝突しているけれど、映画の視点だけは、彼女たちを社会問題の事象として見ることから解放している。
ただ「目と目が合った瞬間にときめいた彼女たち」として描いている。

だからたぶんこれ、セクマイの友達何人かで一緒に観たら、フツーの恋愛モノとして、
「そんなことを言ってるキャロルは今どんな顔してるのー!?」
「ギャ~こんな顔してた~!(//∇//)」
「それを受けたテレーズはこんな顔してた~!!」
みたいな感じでキャッキャ盛り上がる映画になりそうだなあ、とか思ったw
最近百合作品を読んでて、あ、「恋愛」に説得力があることってすごい大事だ…!と思うんだけれど、それって好みの問題なのかなあ。もしかしたら百合漫画誌の編集サイドでも、その方向性で進めるべきかどうかって時点で迷われてるのかもなあ、という感じがする。

高嶋ひろみさんの「加瀬さん」シリーズは百合歴長い辛口百合人にも大人気の作品だけれど、何か目新しいところがあるかというと、大枠で見たらかなりスタンダード路線の百合作品なんですよね。女子高生同士だし、ボーイッシュで活発な子とおっとりした目立たない子のカップルだし。
でもなんでこんなに面白いのかって、恋愛ものとしての説得力がすごくあるからじゃないかと。恋に落ちるまでの経緯がそこまで深く説明されてるわけではないんだけど…
主人公の山田さんが家に帰るなり、ベッドに突っ伏して、「どうか加瀬さんがわたしのことを好きでありますように…!」と心の叫びが爆発。
この描写だけで、うわー、これ!と思う。読者が一緒に「やべー恋に落ちたーうああああ」ってモダモダできるこの感じ!


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だから「加瀬さん」はこんなにも面白いんだと思うんだけど、でももしかしたら、百合好きの中には、少女たちの「友情以上、恋愛未満」の作品を求めてる流れもあるのかな、と思う。
そして、百合漫画誌編集部もその「恋愛未満」の流れか、「恋愛らしさ」を求める流れか、どちらに行ったらいいか迷ってるところもあるのかな?と。

普通、少女漫画でも、BLでも、恋愛ものなら2人が恋に落ちるに至る説得力というのは、編集からしっかり突っ込まれるところなんじゃないか、と思うんだけど。それが百合だとあまりなされていない感じがする…

でも、「友情以上恋愛未満」が一ジャンルとして確立するなんて、それこそニッチにもほどがあるし、やっぱり恋愛に説得力があると、漫画としての面白さもグッと増す気がするんだよな。
恋してるかどうか、読者から見ても曖昧ではっきりしない主人公より、恋してしまったー!うわー!っていう感情が伝わってきて、共感できる主人公の方が、作品に読み応えが生まれやすい。

と、思うんだけど、これから百合をそういう方向へ持って行くにはどうしたらいいのかなー。

少年画報社から新しく出た百合アンソロ『メバエ』は、その点なかなか良い作品多くて、しかもvol.1よりもvol.2が良くなってる印象あるし、期待株です。連載も何本かあって概ね面白いし、発行も今のところコンスタントで順調な感じ。
エロ寄りだけどエロくないのも数本入ってるというのも、今までエロか純愛かバッツリ分けてる本が多かった分、いい傾向なんじゃないかな?『メバエ』が人気が出て、いろんな出版社がこれを真似する流れになるとかなり良い気がするなー。


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読みました。田房永子さんの『ママだって、人間』。

出産体験というよりも、病気の体験記を読んでいるような感じがしてしまいました。
今までメディアとか保健の授業とかで聞いてた「妊娠・出産体験」って、お母さんの身体の変化と、それに対する感覚や気持ちっていう部分が本当に少なかったんだと気づきました。
妊娠から出産にかけての、「こういう風に体が変わるのはちょっと面白い」「でもこういうのは不安」とか、「自分の体に経験のないことが起こってて変な感じ」とか、どうして今までほとんど聞いたことがなかったのか不思議。

田房さんの率直な描写を読んでて思ったのは、妊娠・出産って、「体験してみてもなかなか良さそうなことだけど、絶対体験すべきことでもない」って感じだ、ということ。
世の中に溢れてるメッセージは、「めちゃくちゃ大変で辛くて痛いけど、女性として生まれたからには体験しないと人として不完全」という感じがする。

この本でも、妊娠中の体調の変化はたしかにすごく辛そうで大変そうなんだけれど、読んでると「ちょっと面白そうな体験」とも思えるんですよね。
それこそ大きめの病気や怪我が、辛かったけれど他ではできない貴重な体験でもあって、振り返ると経験してよかったかも、と思える感じに似ている。
本の中でも書いてあったけど、ちょっと出産に関して世間は脅しすぎな気がする。未知の恐怖感を持ってる女性はいっぱいいるんじゃないか。

私は同性愛者でもあるけど、そうでなくても、もし産むのに全て最高の条件が揃っていたとしても子どもがほしいとは思えない人間でして。
自分の人生にとってそれが良いことというイメージが全くない。
それは自分において、ということに限るもので、他人の出産にはそんな風には全然思わないし、親しい人の喜ばしい妊娠には、自分も嬉しいと感じたりはするのですが。

子どもが欲しくない、生みたいと全く思わない、という話をした時に、「なんで!?」とか「さびしいと思わないの?」とか「理解できない!」といった反応が返ってきたことも何度もあるけど、身体や人生を大きく変えることなんだから、感覚として無理、と体が言っていることを受け入れられないのはどうしようもない。

でも、この本を読んで、出産がさほど悪くない体験であると感じるほどに、「あってもなくてもいい体験なんだな」と思えて安心したのでした。
子どもを持つことを現時点で選びたくないと思っている自分を、許されたような感じ。それは個人の体験の一つでしかなくて、経験しなければ人生が不完全というようなものではない、と、不思議と、今まで聞いたどんな出産の話や人生の話よりも、そう感じられたのです。

本の中でたびたび主張されていることも、産むか・産まないかという選択が人それぞれ自由なことと、とても繋がっているんじゃないかと思います。
産むことを選択したとしても、「その時その時どんな思いを持つか」とか「どんなメンタルで過ごすか」とか、それどころか「痛みを何に対してどのくらい感じるか」とか「痛みをどうやってやり過ごすか」まで、スタンダードを押し付けられることがいっぱい出てくる。
その度に田房さんがなんで?おかしくない?と疑問を呈してくれるのが本当に良い。
出産するにしても、中身は人それぞれなんだ、ということが分かった時、「産むか産まないかは個人の自由」という言葉も本当の意味で生きてくるのではないかな、と思ったのでした。
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