モヤモヤした気分を抱えているみんなへ伝えたくて。
なんていうか、今回の件は、誰がこれといって悪いとはっきり言えるほどはっきりしたこともないのだけれど、モヤモヤするよね。
私もずっとモヤモヤしてたんですけど、自分なりに考えて出したこのモヤモヤの正体は、「文脈が繋がらない」ということなのかな、と。
交際報道から結婚までの唐突さ、週刊誌と事務所が結託していたとしか思えないような報道の仕方、ファンへの後手後手の対応。
別に、一つ一つは一般的な芸能人として、自分のプライベートを守りながら仕事する上で、権利上は何も問題ないことだと思うんですよ。そこも尊重したいんです。
でもなんか、今まで見てきた小池さんと繋がらないんですよね。だから、ニュースで写し出される小池さんの顔写真とかに「この人は誰?」みたいな気持ちになって、心がザワザワして辛くなるんです。
でもね、やっぱり新たに発表されたドラマの映像でめちゃめちゃ良い演技してる小池さんを見たら、すごく彼らしくて、ああ、私の知ってる小池さんだ、と思ったんですよね。
真っ直ぐすぎる竹を割ったような性格とか、天真爛漫な明るさとか、役者としてストイックで憑依型で天才型な感じとか。
だからこれは、きっと小池さん自身が悪いのでは決してないし、お相手の方が悪いとも事務所が悪いともFCが悪いとも言い切れないけれど、何かのっぴきならない事情があって不自然な形になったことなんじゃないかと思うんです。
もっとたくさんの大人が関わっている大きな権力の絡む話かもしれないし、もっと違う事情かもしれないし、何かはわからないけれど。
とりあえずこれは、これまでの小池さんの文脈として不自然だということはやっぱり言えると思うんです。だからみんながモヤモヤするのは仕方ないんだよ、と、言いたいんです。
私自身、完全に割り切って「応援する!」っていう人の言葉より、割り切れなくてモヤモヤしている人の言葉に癒されたし、1人じゃないんだ、と思えたし。
今回は発表の仕方にたぶん諸般の事情が絡んでモヤモヤする結果になったということであって、そのことで結婚そのものにケチがついたり、お相手の方にケチがついたりすることではないと思っています。
ただやっぱり、モヤモヤするのは仕方ないよね。不自然だものね。
でもやっぱり私は、ファンである私たちが知ってたてっちゃんが全然違う人物だったってことではないと思うんだよね。彼がすごく良い演技をしてたり、大きな野望を語ってたりする姿を見て。
この違和感が、次第に少しずつ薄れていくものか、いつかコレという答え合わせが出来るものなのかはわからないけれど、ファンは、いつかまた「やっぱり信じられる!」と思わせてくれるときが来ると思って待つしかないよね。それがどんな形かはわからないけれど。
今モヤモヤしてるみんなが少しでも心穏やかになってくれることを願って筆を置きます。
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最近ちょっと多めにRTされたツイートで、こんなことを呟いていました。
よく「女同士はお互いを褒め合ってるようで身につけてる物しか褒めてない」みたいな揶揄があるけど、ロマンチックな雰囲気のない友達同士で顔がいいとかスタイルがいいとか言うの、セクハラ的でコミュニケーションとして全然良くないし、装いのセンスを褒めるのは相手自身を褒めてることになると思う
https://twitter.com/niyari_niyari/status/923936673016135680このツイートへのメンションの中に、職場でも容姿について言及してはいけないことについて語っているツイートや、「センスを褒めるのは能力の評価だから良い」という内容のツイートがあって、その辺に関しての私の考えを述べておきたいな…と思いました。
端的に言うと、私は友人同士のコミュニケーションの場では、「能力の評価」もあまり好ましくないと思っています。
私が思うに、「職場でのマナー」「恋愛関係でのマナー」「友人同士のマナー」はそれぞれ違います。
職場では、職務能力に関する評価を語ることがある程度必要になる場面もあると思います。
ただしこれも、不必要な場面で低評価を公表して貶めるようなことはパワハラにあたるし、職務と直接関係のない能力(過去の学歴やその仕事以外での失敗など)には触れるべきでないので、「職場だから能力評価について語ることに制限はない!」ということではないと思います。
もちろん容姿について職場で語るのは(容姿を生かして仕事をしているモデルなどの職業の人の場合は別として)、他者を不当に働きにくい環境に追いやる行為で、セクシャルハラスメントです。
しかし、恋愛関係にある人同士や、これから恋愛関係になりたい相手に対してロマンチックなムードを作ろうとする時には、容姿を褒めることはあっていいと思います。
恋愛的なときめきを感じるポイントは理屈で説明できるものではないし、そこに善悪の判断もつけられません。
ただ、相手もロマンチックなムードになることを望んでいるかどうかという点も気をつけなければなりません。その時のTPOもあるでしょう。
また、相手にも好意を受け取らない自由はあるので、拒否されても怒らずに相手の気持ちを尊重することが、恋愛関係におけるマナーではないかと思います。
友人関係は、仕事も恋愛も絡まない、最も利害関係のない人間同士の絆といえるかもしれません。
だからこそ、友人関係においては「なんでも言い合える」ことが良いことと思われがちですが、実は逆なのかもしれません。
利害関係がないからこそ、損得で相手を測っていないことを常に示す必要があるのだと思います。
仕事でどれだけ出世したとか、良い会社に勤めているとか、顔がいいとかスタイルがいいとか、時には友達同士の会話で話題に出ることもあるかもしれません。しかし、そういう話題は友達を世間の物差しでジャッジしているというメッセージになりかねず、友情を壊しかねない危険なものなのだと心に留めておく必要があります。
では、なぜ身につけているものを褒めることはいいのかというと、それは「評価」ではなくて、「あなたという人間が好き」というメッセージの延長線上にあることだからです。
相手のことをよく見ていて、その人らしい素敵な装いをしていることを一緒に喜ぶ気持ちがある、という表現だと思います。
もっといいのは、「あなたの好奇心旺盛なところが好き」とか、「思慮深いところを尊敬している」とか、より内面的な良いところを伝えることですが、バリエーションを増やしていく中で「今日の服の色はあなたにとても似合ってるね」とか、「そのイヤリングかっこいいね」といった言葉があるのだと思います。
また、こういう褒め言葉は特定のある人に伝えたとしても、「他の人がその人より劣っている」ということにはなりません。
複数人いる中で一人だけに対して美人だと褒めたり、成績が良いと褒めたりすると、どうしても他の人との比較になります。評価とはそういうものだと思います。
そのTシャツが可愛いとか、靴が素敵とか、誰かに言ったとしても、意図的に皮肉を込めていたりしない限り「他の人の服装はその人より悪い」という意味にはなりません。だからこういう言葉は「評価」ではなく単なるフレンドシップになり得るのだと思うのです。
それともう一つ、容姿を評価するということついて。
私は実は、「容姿」というものは、本質的にはかなり「能力」と性質の近いもの、もしくは「能力」のひとつに数えられるものなのでは、と考えています。
持って生まれたポテンシャルが重要であると同時に、努力によって高めていけるところも同じだな、と思います。
でも、社会の中で歪んだ意味付けによって「能力」として評価しにくいものになっています。
本来なら「容姿」という能力は、それを生かして仕事をしている人だけが評価されれば良いものだと思います。
もしくは、趣味でスポーツや音楽をやっている人たちがするように、趣味で美容をやっている人同士のコミュニティでその成果を評価し合うのもいいでしょう。
ところが、なぜかどんな人でも(特に女性は)、日常のあらゆるところで顔の良し悪しを見られるということが起こる。そしてそれが性的な魅力や人間的魅力と結び付けられて語られる。
こういうことに起因して、逆に容姿を能力として生かして仕事をしているモデルや俳優などの職業の人たちは、「顔だけ」などと揶揄されて職業差別を受けたりもします。
職業にできるほど人目をひく容姿は、才能として、また努力によって磨かれているものとして、認められるべき賜物だと思います。でも、あまりにもすべての人が容姿をジャッジされる辛さを味わいすぎていて、優れた容姿を持っていることへの妬みや、性的な媚びに結びつけた蔑視が社会に根強いことを感じます。
日常生活でもっと容姿のジャッジがされない社会になったら、モデルなどの容姿の優れた人と才能ある科学者が同じように語られるようになったりしないかなあ、と私は時々考えたりします。
中村高寛監督のドキュメンタリー映画『禅と骨』を観た後に、前作『ヨコハマメリー』も観たくなって、レンタルして観ました。品揃えの悪いうちの地元のTUTAYAにあったことに驚いた!笑
『禅と骨』のイメージで観ると、もっと淡々と、インタビューを中心としたドキュメンタリーなので、けっこう観るのに気合いと集中力がいる感じです。
『禅と骨』は、おそらく手法的にも前作より洗練されたこともあるだろうし、心構えなどしないで観ても向こうから気合いごと吸い取られるから。笑
横浜の街で外国人将校を相手に娼婦をしていた「メリーさん」は、50年横浜の街角に立ち続け、やがて真っ白な白粉の顔と歌舞伎の隈取ほども書き込んだアイメイクがトレードマークとなる。
私は映画を見るまで横浜の有名人「メリーさん」という人がいたことも知りませんでした。
メリーさんを知る人々の証言を辿っていく映像を見る中で、私が思い出していたのは、小さい頃近所にいたホームレスの女性のこと。
鮮やかな色のドレスのような服に、つばの広い帽子をかぶり、おそらく生活道具すべてであろうたくさんの荷物をいつも持ち歩いていた。
彼女には、メリーさんを元次郎さんが助けようとしたような、支える手はあったのだろうか。
生前のメリーさんを知らない私には、どうもメリーさんが横浜の人々に一目置かれる存在であったことが、なかなかピンとこない。
「メリーさんが観にくる芝居は必ず成功した」
「船着場で米兵と抱き合いキスをして別れたメリーさんの姿は映画のようだった」
そんな証言の中から必死で「皇后陛下」とあだ名されていた気高い娼婦、誰もが一目置かざるを得ない横浜の有名人の姿を想像しようとする。
けれど、晩年家もなくビルの廊下で寝ていた姿。エイズの噂から行きつけの店の来店を断られた話。生活保護も住民票がないことを理由に受けられず(実際にはそれを理由に生活保護を受けられないことはないはずだが、窓口でそう言って追い返す自治体は今も多い)、白塗りで立っている姿はかつての彼女を知らない横浜の若者たちには狂人と映っていたであろうこと…
そういう社会の片隅に追いやられた切なさ、哀れさばかりが胸を打つ。
来店を断った美容室の店主が、「本当にかわいそうなことをした」と自責の念を語る姿を、責める方向にも許す方向にも映像が誘導することなく、ただただ映し出しているのがすごい。断られたメリーさんを思うと本当に切ないが、自分がメリーさんに手を差し伸べたわけでもないのにこの美容室を責められるわけもなく、観客は店主の自責を心に刻むことしかできない。
監督は当初この映画を「本人不在のドキュメンタリー」とするつもりだったが、取材するうちに本人の現在の居場所が分かってしまい、とうとう老人ホームで暮らす現在のメリーさんを撮影することとなる。
最後に彼女が映るシーン、もう白塗りをやめて、「皇后陛下」のようなドレスでもないメリーさんの今を見てしまうことを、恐れる気持ちが私の中にあった。
しかし、そこには「皇后陛下」のメリーさんがいた。
不思議なことに、もう横浜にいた頃と違う、普通のおばあさんの風貌をしているメリーさんを見て、私は「ああ、この人が皆が一目置いた皇后陛下か…!」と初めて納得したのだ。
メリーさんの晩年、さまざまな手を尽くして支え相談に乗っていた、シャンソン歌手の永登元次郎さんが、メリーさんの老人ホームを訪ねて歌う。その姿を見ている、もう「ハマのメリーさん」ではない本名で老人ホームで暮らしているその女性は、驚くべきことに、元次郎さんが「ちゃんと良い芸をしているか」、しっかり吟味しながら聴いているような表情だった。
最後に本人を出しちゃったのは映画の構成上矛盾するんじゃないか?と監督自身悩んだそうだし、そういう批判もあったという。
しかし、元次郎さんと手をつないで老人ホームの廊下を駆けるように歩いていくメリーさんの後ろ姿、あの祝祭的な清々しさは、切ない老女の人生を淡々と追っていたこの映画を、ラストとてつもない希望と感動で、急激にまとめ上げる。
やはり、その人を本当に伝えるのはその人自身の姿なのだな…と、監督の当初の思惑「本人不在のドキュメンタリー」においてはかなりアイロニックなことを思ってしまいながら、ヘンリ・ミトワさんがこの『ヨコハマメリー』を観た時激怒したという話を思い出した。
「メリーさんのドキュメンタリーなのにメリーさんが全然出てこないじゃないか!」と監督を怒鳴りつけたという。
メリーさんのことを全く知らない私が観て、最後の最後に登場するメリーさん本人の姿が何よりも多くのことを伝えていたのを考えると、実はヘンリさんの指摘はある意味正しかったのかもしれない?と思ったりする。
そして何より中村高寛監督自身も、生身の人間のエネルギーの方に惹かれてしまうタイプなんじゃないかな…と思う。
メリーさんのドキュメンタリーなのに永登元次郎さんの存在を大きく取り上げたり、『禅と骨』でもミトワさんの姿と同時に、ミトワさんの家族の面々のエネルギーに引っ張られるように家族の姿を映し出し、再現ドラマの役者であるはずのウエンツが「ウエンツ瑛士」として映し出される。
生身のその人のエネルギーに触れた時、その人自身を撮らずにいられなくなってしまうのがこの監督の原動力なのでは?
などと思ったのでした。
『禅と骨』は、そういう意味では『ヨコハマメリー』以上に監督の真骨頂が発揮された、溢れる「人」のエネルギーに満ちた怪作であり快作。
良いも悪いも引っくるめて、人が生きているということは、それだけでこんなにもパワフルなことなのかもしれない、と思わせてくれる。
アメリカ人の父と日本人の母の元に生まれ、戦中は日米両国でスパイの嫌疑をかけられ、強制収容所にも入れられた経歴を持つヘンリ・ミトワ氏。戦後は日本文化に傾倒し、禅僧として生きることとなる。
その人生じたいも波乱に満ちているが、カメラを回すうちに、彼自身の強烈な個性、彼の家族たちの個性がぶつかり合い、その火花が監督自身にも飛び火し、生臭い人間ドラマへと展開していく。
…そして、骨になるまで。
ドキュメンタリーとして撮影された映像の他に、アニメーション、再現ドラマなど、ミトワ氏の人生そのもののように幾多の要素が複雑に入り乱れる、エネルギー迸るスリリングなドキュメンタリー映画。
アニメーションパートである『ヘンリの赤い靴』は、「フィクションがフィクションであるからこそできる技」を使った作品で、これがノンフィクションのドキュメンタリーの中に組み込まれているというのが面白い。
現実では叶えられなかった夢をフィクションの中では叶えられるという、「架空の物語」だけが持つ力を、ドキュメンタリー監督である中村監督が表現しているというのも興味深い。
現実と、叶えられなかった架空の夢の世界、その2つをつなぐのが、史実をもとにしたノンフィクションのドラマパートかもしれない。
実在の人物の過去を、役者たちが演じるその風景は、現実の過去と似ているかもしれないし、だいぶ違うかもしれない。「あったかもしれない過去」の幻影を映すドラマは、ヘンリが「未来よりも過去に夢がある」と語り家系図を描く姿と重なる。
さらにカメラはヘンリを演じるウエンツ瑛士の、役としてではない彼自身の姿も一瞬映し出す。それによって、最後に登場する「彼」は、ウエンツなのかヘンリなのか、わからなくなる。
過去の幻影は現代の一人の青年に乗り移り、夢と現実、実際にあったこと・あったかもしれなかったこと、その境界線の曖昧な狭間に観客は立たされる。
ありのままの現実を映すのがドキュメンタリーだと、批判する声もある。しかし、中村監督という人は「ありのままの現実」の不確かさにこそ捕らわれ、翻弄され、カメラを回し続けている人なんじゃないかという気がする。
対象となる人物の思いの世界、イマジネーションの世界、語る言葉の嘘と真実、その狭間で時折、現実と虚構が揺らぐ。
観終わった後にも、映し出された人物たちの言葉、姿、「何が本当だったんだろう?」と思わされる。そのスリリングさが、この映画のとてつもない面白さであり、対象への愛の表れのようにも思う。
愛する人たちを思い返すとき 少し苦しい
青春の輝きの中に私たちのすべてがあった
別れはいつのまに どこから 忍びよっていたのか
誰にもわからないうちに必然となって
影が遠くに 遠くに 消えてゆく
さようなら いつかまた会うでしょう
だけどその時は今の私たちではないから
永遠にさようなら
私たちの影よ
光よ
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