君の心を貸してください
一人分では足りない時がある
想像の水辺を行く船に
エンジンを注いで
続きを見よう

コミュニケーション コミュニケーション
心と心をぽんぽんやりあえばそれでOK
君はアルマジロみたいに丸まって
そんなに簡単じゃないと言う
ぼくは
そんなに難しくないと言う

だけど君の心が必要になる時
その時にはそばにいて
ぼくだっていつか
ガス欠になる日がくるから
大事なことも どうでもいいことも
踊りも 殺し合いも
あべこべになって
みんな違うことばかり気にしている
争い好きの魔物たちが互いの肉に食らいつくのを
投げやりに見ていたら
じぶんが魔物になっていた
あの子が死んだのにも気がつかない
もっともわけのわからないもの
小さく情けない
汚くちぢこまっている
価値を見出せないもの
なぜこんなものがこの世にあるのか
この世界では
そういう神に出会うことがある
これから映画や演劇を観た時に、観劇詩を書いていこうかなと急に思い立ちました。
今回はSuffragette(邦題:未来を花束にして)で書いてみました。


枯れた木々の間の暗い盆地に
一滴ずつ水が溜まる
私が生まれて女の子と呼ばれた時に落ちる一滴
美しいものに憧れるたびに落ちる一滴
私が理解しないものが私の人生に挟み込まれる
水かさは少しずつ高くなりある日溢れる
流れは勢いを増し
すべてを破壊する
荒れ果てたその後に残らないものなど
最初から用はなかった
ミュージカル「わたしは真悟」を観ました。

演出や音楽、美術などで素晴らしい面はたくさんあったし、感動してとても好きだという人がたくさんいてもおかしくない舞台だと思うんです。キャストの皆さんも素晴らしかった。

だから今回は感動した人の気持ちをぶち壊してまで批判意見をぶつけたいという感じではないので、そういうの見たくないなーという人は読まないことをおすすめします。

ただ、やっぱりどうしても、納得いかない…

楳図かずおの原作漫画があまりにも名作すぎて、ハードルが高くなりすぎていたのかもしれない…とも思うのですが…

これは、原作を読まずに観たほうがいいのかもしれません。
原作抜きで観れば、こういう不可解なイメージの連続で観る者に理解させることを拒否するような作品の一種として楽しめたのかも。

もちろん漫画でもそういう類の名作はある。原作がそういう、つげ義春の『ねじ式』のような読者の理解を突き放すような作品だったならこの舞台化で満足できたのかもしれない。
でも、『わたしは真悟』はストーリーを読ませる漫画なんですよね。続きの展開が気になって全巻一気に読めてしまうような。

正直今回の舞台化はそういうストーリー展開の面白さはすっぽり抜け落ちて、原作に表れる不可解だけれど魅力的なイメージの部分だけを羅列したものという感じがして…
ストーリー上できちんと意味を持っている言葉や事象が、舞台では、原作を知らずに観たら「わけわからないけどなんだか面白いフレーズだなあ、面白いイメージだなあ」と思ってしまいそうな感じなんですよね。
それがどうしても、「そういう類の作品として楽しむもの」というよりは、作品の劣化に見えてしまった。

まあでもそれだけなら、自分の好みに合わなかったとだけ言ってもいいように思うんですが。
いくつかポリティカルなことでも気になったところもあって。

一つは、「イギリスでの日本人排斥運動」の描き方。

これは原作でも描かれている展開なんだけれど、こういう政治性を帯びる事象は「今の時代にこれを描く意味」を改めて考えて脚本にする必要が出てくると思うんです。

原作の時代においては、「排外主義」という言葉は今ほど一般的に問題化してなかったと思うんですよね。
そういう中で、「発展ばかり目指して盲信的に危険な物も生み出そうとする日本が海外先進国から見捨てられる時が来る」という描き方は、自己批判的であり革新的だったのかもしれない。

しかし、今の時代背景では同じものを描いても違う見え方になってくる。つまり追い出される側に自己批判が向くよりも、追い出す側の排外主義が批判されるべき時代。

しかも舞台は原作以上に断片的な描き方で、「排外主義者のヨーロッパ人が日本人を追い出そうとしている」というイメージだけ飛び込んでくるような感じがしてしまう。
あれを見て今の日本人が受け取るメッセージって、「日本人に危害を加えようとするわけわからない外人コワイ」くらいのものなんじゃないかなあと。
それってむしろ、日本人が抱く排外主義的メンタリティを強めるメッセージになるんじゃないだろうか。

プラカードを持ったデモ隊という描き方も、暴行の印象の方が強かった原作より現代社会を表面的には取り込んでいる気がするけれど、現代においてこの作品は何に対して批判を向け、何に対して警告するのかという意識が非常に曖昧で稚拙な感じがしてしまった。

もう一つ気になったのは、悟とまりんが「大人になってしまう」ということに関して、まりんが「大人の女」になることに原作よりもさらに強く意味付けしている感じがしたこと。

原作ではまりんが大人になることに関して、ロビンが「胸が膨らんできた」という表現はあるけれど、初潮そのものを意味する表現はない。
そしてまりんだけが大人になるのでなく、悟も過酷な状況を大人の手を借りず自分で生き抜く体験を経て、漫画の最後には、冒頭とは比べ物にならないほどに大人の顔になっている。

まりんが大人になるのがロビンによって早められたというのも、あんなに拒んでいるロビンに求愛されて女っぽくなったということじゃなくて、大人の手を借りられない場所で危機に面したことで、自分自身が大人にならざるを得なくなったという意味ではないかと思う。
当然ロビンに女として見られ危機に瀕することから、女である自分はそれによって危害を受ける存在だと自覚する、という意味も含まれるとは思うけれど…

その辺が、舞台ではあまりにまりんだけに「大人の女になる」イメージを付加されすぎている感じがして。そして悟は最後まで子どものままのような感じがして。

女の子だけ「大人の女」にして、男の子は男の子のままに描くって、なんか吉田秋生の『櫻の園』で、子どもの頃に「ませてるね」と言われて深く傷付いた少女を思い出しちゃうような、女に生まれたがそんなに悪いか!?ってブチ切れたくなっちゃうような、そんな感じ。

私は楳図かずおの漫画全部読んだわけではないけれど、知っている範囲では、そういうところフラットな感じがしているんですよね。
自分の顔の美醜にものすごく振り回される女もよく出てくるんだけど、同じくらい自分の顔の美醜に振り回される男も出て来たりするところとか。

なんかねえ、その辺が、一人だけ完全に「大人の女」の衣装に変わってしまう舞台のまりんを観てるとモヤモヤして、悲しかったんです。


まあそういうわけで、ものすごく期待していた舞台だったし、Open Reel Ensenbleが舞台上で音楽を演奏する手法とか、音楽そのものも素晴らしくて超ステキ!って思ったんだけど、脚本の部分でどーしても納得できなかったのでした。

という話でした。
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